第62話 異臭
「……これは、全部……死体……なのか……?」
松明の弱々しい灯りが闇の奥を冷たく照らし出した瞬間、リンカは息を呑み、その場に釘付けとなった。
端正な顔立ちが、これまでに見たこともないほどの戦慄によって引き攣っていく。
左右を囲む暗黒の真ん中、浮かび上がったその理由は────あまりにも無慈悲で、あまりにも残酷な光景であった。
それは、間違いなく死体だった……それも、紛れもない人間の。
一人や二人などという生ぬるい話では断じてない。
松明の光が届く限界、その見渡す限りの赤土の地面のすべてを、視界を埋め尽くすほどの数え切れない遺骸が、不気味に、重苦しく埋め尽くしていたのだ。
あるものは、原型の輪郭すら留めていないドス黒い肉塊と化して床にへばりつき。
あるものは、長い時間の経過によって、白亜の骨だけを暗闇の中に無機質に晒し出している。
幾重にもおぞましく積み重なり、ゴミのように散乱するその光景は、もはや地獄という生ぬるい言葉ですら美化に思えるほどの、圧倒的な凄惨さであった。
「こいつらは……一体全体、まさか……」
「あぁ……十中八九、無明の層へと足を踏み入れ、そのまま行方不明になっていた冒険者たちだろうな」
アロンは周囲の肉塊を見つめながら、冷めきった声音で淡々とそう答えた。
二人が今立っているこの場所が、正規の『第八階層』ではない決定的な理由……
もしもここが、調査チームの行き交う最深部であるならば、オルテたちがこの凄まじい「死の集積所」を見逃し、血痕一つないなどという無能な報告を上げるはずが絶対にないのだ。
つまりここは、ギルドの地図にすら一切載っていない、文字通りの本当の未踏の深淵。
「……しかし、これだけ悍ましい数の死体が四方に散乱しているはずなのに、腐敗臭の匂いがまるでしないのだが。これも、お前が前に第一層の通路で分析していた『ダンジョンの掃除屋』が、ここまで綺麗に臭いを取ってくれている、ということか?」
リンカは鼻をスンスンと小さく動かしながら、視覚と嗅覚のあまりの矛盾に、不思議そうに首を傾げた。
飛び込んでくる凄惨極まりない地獄絵図と、鼻腔を静かに抜けていく乾燥した無機質な空気の静寂。
そのあまりの不条理なギャップに、彼女の五感は深く困惑していたのだ。
「いや…死体の臭いがしないのは、ダンジョンの異常でも何でもなく、単純に俺が今お前の鼻の神経に精密な魔力保護魔法を重ねてかけているだけだぞ?」
アロンは松明を掲げたまま涼しい顔で淡々とそう言い放った。
「……本当か? お前が、私の鼻を……?」
「真っ逆さまに落下している最中、途中から尋常ではない酷い死臭が漂ってきてな。そのコンマ数秒の間に、すぐさま魔力を割いとお前の嗅覚を保護した……もしあの瞬間に俺がこの魔法を編み上げていなかったら、今頃お前はその悍ましい臭いで気絶しているぞ?」
奈落の底へと吸い込まれていく、コンマ数秒という極限のパニックと混乱の真ん中。
アロンは、リンカの鼻を最悪な死臭から守るために、魔法の網を編み上げてくれていた。
「おぉそれは怖い怖い……そんな恐ろしい悪臭、想像しただけで億劫だ……これは地上に帰ったら、風呂一択だな」
リンカは献身の熱量を全身で受け止め、小さく身震いを一つして、自らの肩を抱いた。
死臭こそ完全に遮断されていたとしても、眼前に広がる圧倒的な死の光景そのものが気分を害することは変わらない。
だが、彼女はすぐに微かに毒を含んだ不敵な笑みを唇の端にこぼしてみせた。
「……帰ったらまたお風呂に一緒に入ってやろうか?」
「お前は寄ってくるから暑いんだよな」
湯けむりの記憶を完璧にトレースしたかのような、即座に返された冷淡な言葉。
色気の欠片もロマンチックさも存在しない。
「本当にムカつく奴だ……いいだろう、次は身体を洗っている最中であっても、抱き着いてやる」
リンカはムッとしたような表情を作りながら、アロンの首筋に手を回す代わりに、そう高らかに告げた。
無数の死体に取り囲まれたの闇の底……彼女の放ったその強烈な独占欲のセリフだけが甘くて心地のいい確かな熱を持って、松明の炎と共に妖しく揺れていた。
「ずいぶんと余裕そうな、おめでたいお喋りですね。お二人さん?」
第63話は、【 17時10分 】に投稿いたします。
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




