第60話 胸騒ぎ
「さらに……オルテ様ご自身も、あの者に対して『何か引っかかる』と、調査をこちらへ依頼されたのは……つい二日前のことですから……」
「………」
オルテは、それ以上何も言葉を返すことができず、ただ深く押し黙った。
静まり返った室内で、ミーウの告げたその冷酷な正論の言葉は、確かにその通りだったからだ。
オルテが『興味本位』という名の、胸の奥底にどうしても拭い去ることのできない不気味な違和感に突き動かされ、彼女の身辺調査を極秘裏に依頼したのは、日数で言えばつい二日前のことだ。
以前、本部が収集してきた過去の戦績報告によれば、アロンとリンカの二人はそれなりの修羅場の実戦経験を積み、数多の理不尽な死線を潜り抜けてきた熟練の二人組であることは分かった。
そんな手練れのパーティーの中に、いきなり仲間に入り、いきなり未踏破の、それも生きては帰れないとされる最高難度のダンジョンへと何の躊躇もなく足を踏み入れる。
明らかにおかしい……
迷宮『無明の層』────
それは、並の精神力を持つ並みの冒険者であれば、ただ入り口の光を拒絶する漆黒の闇に呑まれるだけで一瞬にして正気を失い、恐怖するほどの底なしの絶望の空間だ。
だというのに、彼らはこの十日間の間、まるで近所のお散歩にでも出かけるかのようなおめでたい軽さで、ただの一度も傷を負うことなく無傷で地上へ帰ってきていた。
それは、リーダーであるアロンの戦闘能力が、他を圧倒するほど優秀だからなのだろうか?
確かに、優秀であると自負するあの男がいること……それも大きな要因の一つではあるだろう。
だが、オルテの胸の奥底には、その納得を拒絶するような、重い鉛のような疑念の塊がずっと居座り続けていたのだ。
どれほどアロンが優秀であろうとも……
仮にアロンが優秀であろうとも、その『ただ一方的に守られる側』でしかないはずの素人の人間が、十日間という長い期間の間、一歩の遅れも、恐怖による足の竦みすらもなく、常に死の濃厚な気配が満ち溢れている絶対の闇の中を平然と歩き続けられるものだろうか。
オルテが自らの直感を信じ、優秀なミーウに対してギルド本部の規約を破ってまで極秘でミカの身辺調査を命じたのは、その彼らの周囲を包む『あまりにも不自然すぎる平穏』を、ギルド長としてではなく、一人の冒険者だった経験を基づいて疑ったからに他ならなかった。
「………確かあいつら、今朝の段階で、いよいよ七階層の壁に行くと言っていたな……」
オルテは血の気の引いた唇から、掠れた声を静かに、けれど痛切に呟いた。
今朝……
まだ温かい光の差し込んでいたギルドの門前で、探索に向かうアロンたちの背中をこの目で見送ったばかりだったのだ。
もしも、万が一にでも────
先ほどミーウが口にした、想像を絶する最悪の事態が、オルテの脳裏を濁流のように過った。
じわり、じわりと、深く皺の刻まれた額の隙間から冷たい汗が溢れ出して床へと滴り落ちる。
経験したことのないほどの嫌な予感が、鋭利な獣の爪で自らの頑強な胸の奥底を執拗に掻き毟るように、ざわめき始めていた。
ギルド長室の硬質な壁に掛けられた魔導時計の、無機質な金色の針は───ちょうど午前11時を回ったところを指し示している。
アロンたちがこの街を、あの重厚な門を潜り抜けて出たのは八時頃。
もはや七階層へと到達し、あの『魔力が歪む壁』の前へと辿り着いていても────何ら、おかしくはない時間が過ぎていた。
手遅れかもしれない……
いや、組織のトップとして冷静な判断を下すならば、既に完全に手遅れなのだ。
だが────
「ミーウ君、俺は今から少々私用で外へ出かける。申し訳ないが、俺が戻るまでギルド本部の留守を少しの間だけ頼ん────」
「何を水臭いことを仰っているのですか? 私はオルテ様のすべてを支えるためにここにいる秘書ですよ……どこへ向かうつもりかは知りませんが、当然、私もご一緒します」
オルテの言い訳の言葉を遮るようにして、正面から凛とした重厚な声音で放たれたミーウの鋭い言葉。
彼を見つめる彼女の知的な瞳の奥は、これほどの異常事態を前にしても微塵も揺るがず、必死に隠そうとしていたオルテの激しい動揺のすべてを、真っ向から射抜いていた。
二人の間に、それ以上の誤魔化しを一切許さない、重く張り詰めた沈黙の時間が一瞬だけ走る。
オルテは、正面に立つ彼女の決意が、何者にも折れないほど固いことを、その瞬間に悟った。
そして、最後はいつも彼女に根負けしてしまうのだと言わんばかりに、自嘲気味な苦笑を唇の端から小さく漏らしてゆっくりと口を開いた。
「……ふっ、やはりお前にはすべてお見通し、か。本当に、その鋭い観察眼には逆立ちしても敵わないな……よし、ならこれ以上は無しだ……準備するぞ」
「はい、オルテ様」
オルテの覚悟の言葉を受けて、ミーウはそれまでの厳しい鉄の表情を少しだけ緩め、わずかに美しく微笑んだ。
そうして、己の武器を手に取った二人は迅速な足取りで部屋を後にした。
主たちが飛び出していき、完全に誰もいなくなった、静まり返ったギルド長室。
大きな窓から無情にも差し込んでくる昼下がりの穏やかな陽光が、オルテのデスクの上にポツンと残された、報告書を照らしていた。
そこには、死神の仮面をまるで被ったとある女の名前─────
『ミカ』という文字が刻まれていた。
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