第56話 リンカという女
「お前は何か? この私が、ダンジョン攻略のすべてをアロンに丸投げして、背中の上で何もせずグータラと貪るだけの、ただの無能女だとでも言いたいのか?」
───そうです
そう真っ正面から声を大にして、盛大に、かつ単刀直入に言い放ってやりたい。
だが、その喉元まで今にも出かかっていた禁断の本音の言葉を、ミカは自らの奥歯をギリリと噛み締めて、危機一髪の寸前のところで強引に胃の底へと飲み込んだ。
目の前で不敵に凄んでいるこの女性に対して、今ここで真っ当なド直球の正論をぶつけてしまえば、まず間違いなく、この上なく面倒な事態に発展する。
それはこの十日間、毎日共にダンジョンに出向いていたミカには、リンカの逆鱗と思考回路のテンポがもう痛いほどに分かりすぎていた。
目の前で松明の橙色の炎に照らされながら、美しい切れ長の目を覗かせている、絶世の容姿を持ったリンカという名の女。
彼女の戦闘力、および体力は────ミカがこれまでの人生の中で見てきた中で、文句なしに断トツと言っていいほど……
『私より弱い奴など、この世には生まれたての赤ん坊くらいだ』
かつてリンカが涼しい顔で自ら高らかに放ったあの言葉……
その言葉が、謙遜でも冗談でもなく、ただの無慈悲な事実であることをミカは思い知らされていた。
彼女は、圧倒的に弱い……
このリンカという女が抱える致命的な弱さの最大の原因は、他でもない、彼女が自らの体内に宿している『魔力』というエネルギーそのものにあった……
そもそもこの世界における魔力とは、生まれ持った家系の素質だけでそのすべてが決まるような単純な代物ではない。
確かに魔力を蓄える器の大きさそれ自体は、親から受け継ぐ血筋の良し悪しに多少は左右されることもあるが、そんなものは実戦の場においては微々たる誤差の範囲に過ぎないのだ。
魔力という力の本当の質を、運用する精度を、そして限界を超えるための絶対量を最終的に決定づけるのは────血が滲むような自身の『魔力鍛錬』の継続に他ならないからだ。
いわゆる、どれほど高い壁を超えて強くなりたいと心から渇望し、己の牙を研鑽し続けてきたかという執念の歴史。
凡百の生半可な修行であっても、それなりの年月をかければ魔力の出力や精度は自然とそれなりに上がっていくものなのだ。
だが、狂気なき努力の先には、必ず残酷な『打ち止め(限界)』の瞬間がやってくる。
現在、この広い世界に数名しか存在しない国家最高戦力SSランクの称号を持つ伝説の冒険者たちは、例外なく幼少期の頃から血反吐を吐くような過酷すぎる地獄の日々を過ごしてきた怪物たちだ。
自らの魂の深淵にある魔力の構造をミリ単位で研究し、肉体を構成する細胞の一つ一つに至るまで濃密な魔素を強引に染み込ませるような、常人なら一瞬で発狂する狂気的なまでの反復作業。
…………普通の一般的な人間に戻そう。
本来、普通の人間であれば、そこまで人生を呪うような過酷な鍛錬をあえて積み重ねずとも、ただ年齢を重ねるだけでそれなりの強さには自然となれるはずなのだ。
魔力という世界の規約に満ちたエネルギーは、成長期を迎えたみずみずしい人間の肉体において、カラカラに乾いたスポンジが周囲の水を際限なく吸い上げるように、生活しているだけで自然と大気中から吸収されていくものなのだから。
だというのに……
目の前に佇むリンカという女の身に纏う気配は、ミカの目から見ても、体内の『魔力』の総量があまりにも微弱すぎて、もはや存在していないも同然のレベルだった。
もしかしたら、周囲の敵を油断させるために、実力を、あるいは真の膨大な魔力を何らかの古代の魔導具で隠しているだけかもしれない……。
この十日間の旅の道中、ミカも一度はその可能性を本気で疑ったことが確かにあった。
だが、それにしても彼女の日々の行動は、文字通り『冒険者として何もしなさすぎる』の極みだったのだ。
ただ足を一歩前へ進めるだけの移動手段すら劇的に支えてくれる『身体強化魔法』……
冒険者ならば前衛、後衛…誰もが、いやそれなりの素養がある一般の子供であれば、幼少期の遊びの中で誰しもが感覚的に会得しているはずの、基礎中の基礎であるはずの最も初歩的な魔法の一つ。
それすら、リンカはただの一度として発動させるための魔力の残熱すら周囲に見せる素振りはなかった。
『子供にさえ負ける』
あれは決して周囲の笑いを誘うための単なる自虐でも何でもなく、ただの言い訳のない事実そのものなのだと、ミカは完全に思い知らされていた。
この過酷な世界において、彼女の肉体はあまりに無防備で、あまりに脆弱すぎる不純物だった。
だが────
そんな、世界の規約から完全に取り残された魔力の希薄さとは、全くの裏腹に。
彼女が放つその全身の風格だけは、常に世界の誰よりも傲慢な『上から目線』そのものであった。
物理的な戦闘力の圧倒的な弱さを補って余りある、切り込みの鋭さ。
先ほどミカが勇気を振り絞って口にした、非効率さへの小さな異議の申し立てなど、彼女にとってはどこ吹く風。
それどころか、こちらの言葉の不純物を突いて倍返し、あるいは十倍返しの淒まじい不条理な勢いで、完膚なきまでに正論で言い負かされるのが毎度お決まりのテンポだった。
そして、何よりも本当に恐ろしいのは……
彼女の唇から放たれる、その傲慢な言い分に対して、なぜか言われたこちら側が心の底から完璧に納得させられてしまうことだった。
戦術の論理も、緻密な理屈も、人間としての倫理さえも。
リンカが口を開けば、まるでそれこそがこの世界の絶対の正解であり、真理であるかのように空間全体に響き渡る。
その魂の格だけは、世界の誰よりも傲慢に、遥か高みからすべてを見下ろしていた。




