第44話 前夜
生体の精神に直接干渉する心理魔法には、魔術構造上の“絶対条件”が存在する。
────対象となる物体に、直接自らの指先で触れなければ、魔力の導線は繋がらない。
他人の記憶を正確に読み取るには、対象が体内に巡らせている固有の魔力に対して、自らの魔力を物理的に直接干渉させる必要があるのだ。
肌と肌を触れ合わせることで初めて相手の微細な魔力の流れを読み取り、そこから感情の揺らめきや記憶の断片を網羅して探る。
それこそが心理魔法という特殊属性の基本構造であり、魔法学における不変の理論的な支柱でもあった。
だが、先ほどビストロの食卓で見せたミカの動作は、リンカの肉体には一切触れてはいなかった。
ただ、怪しげな手つきで空中に手をかざしただけ。
お互いの距離を一定に保ち、決定的な接触を一度も行わないまま、彼女は“心を完璧に読んだ”と称してみせたのだ。
それは、アロンの頭脳にある厳格な魔法理論の観点においては、100%絶対にあり得ない不条理な行為だった。
◆
「直接肌に触れもせずに他人の心を読み取ることなどできるわけがないだろう」
アロンはランタンの光を揺らしながら、進む足を止めずに、声音の温度を冷たく落として淡々と告げた。
「ならなぜ彼女は、私が今日のお昼頃に広場でお前のチュロスを食べたことを、寸分の狂いもなく正確に言い当てられたんだ?」
隣を歩くリンカが、形の良い眉を不機嫌そうにひそめる。
彼女の放ったその疑問の問いには、確かに冒険者としての合理的な一理があった。
「詐欺師がよく使う『ホット・リーディング』という技術だ」
「……聞いたことくらいはある」
そう言うリンカは表情を一切変えない……が、彼女の脳内は『なんだそれ?』となっている。
アロンは夜の闇を見つめたまま、静かに深く頷く。
「つまり、ターゲットに接触する前に何らかの方法で事前に情報を得ておいて、あたかもその場で魔法を使って心を読み取ったかのように見せかける、使い古された演出手法だ。占い師を騙って大衆から金を毟り取る詐欺師共が、いつも好んでよく使う手口だ」
リンカは少し考えるように、長い睫毛の宿る視線を夜空の月へと上げる。
「……だが、アロン。私たちが広場でチュロスを巡ってくだらない言い合いをしていたのは、今日のお昼頃のことだぞ。あのミカという女が、その瞬間を裏から偶然見ていたとは限らんのではないか?」
「確かに偶然とは限らないが、最初から狙って俺たちの背後をマークしていた可能性は極めて高い」
アロンの低い声の輪郭には、一微塵の揺るぎもない強固な確信があった。
「お前がチュロスを食べていた場所は、この拠点都市セイドウの中央広場だ。四方八方から視線が通り、昼時ともなれば人通りも多い。お昼頃にあの広場を通りかかってさえいれば、俺たちの目立つ姿や会話の内容なんてものは、物陰から簡単に監視して盗み聞きできるからな」
「……つまり、私の心を読んだのではなく、ただ物陰から私たちを見ていただけだと?」
「まぁその可能性が高い……心理魔法などという高等な術は一滴も使っていない。あれはすべて巧妙に仕組まれた演出、超常の魔法の名を借りた、ただの泥臭い観察と推測の足跡に過ぎん」
「……なるほどな。流石は暇さえあれば、魔法理論学の本をただ退屈を紛らわせるためだけに読んでるだけはある……確かにそう裏の事情を逆算して考えれば、すべての辻褄は完璧に合うな………しかし、なぜあの女は、そんなリスクのある真似をしてまで私たちのパーティーに潜り込もうとした?」
リンカがふと夜道で足を止め、薄暗い夜空を見上げながら、冷ややかな口調で問いかける。
「さぁな……それはお前がさっき言ったことだろう?」
アロンは広く無骨な肩をひとつ小さくすくめる。
「犯行の動機なんてものは、他人の数だけ歪んで存在する。考えるだけ時間の無駄というものだ」
「考えるのを放棄する気か?」
「あの女が腹の底で何を考えているのかなんて、神ではない俺にはさっぱり分からんからな」
アロンはため息混じりに、めんどくさそうに言葉を続ける。
「ここで直接あの女を問い詰めて聞いたところで、どうせ都合のいい嘘ではぐらかされるのが目に見えてる。それに、仮に裏で何かを仕掛けてきたとしても、SSSランクの俺がいれば、どんな罠だろうと後から力技でどうにでも対処できるからな」
「以前、トラップ(2章)に綺麗にかかって、私と共に仲良く床で気絶していた男の言うセリフではないな、それは」
「罠にかかったのはヘリック君だ、俺ではない。記憶の捏造はやめろ」
リンカはアロンのそのブレないおめでたい言い訳を、フンと鼻で冷たく笑い飛ばす。
アロンはどこまでも真顔のまま、今夜の不穏な考察の言葉を締めくくるのだった。
「……まぁ、あのミカという女が、俺たちにとって本当の害があるかどうかは、実際に牙を剥いてきたその瞬間にならないと分からないんだ。いらぬ心配をして消費するより、今日は最高のディナーの余韻に浸ったまま、早く宿屋のベッドで寝て明日の朝の決戦に備えることが、一番合理的で最高なんだよ」
「……お前のその突き抜けたおめでたい脳みそが本当に羨ましいが、まぁ、もしもの時は頼むぞ」
「当たり前だ」
ふたりは再び、長く伸びた影を揺らしながら静まり返った夜道を歩き出す。
夜のセイドウの街路は不気味なほど静かで、遠くの交差点の向こうから、宿泊先である宿屋のぼんやりとした温かい灯りだけが、二人を迎え入れるように優しく見えていた。
そして、翌日の朝、午前9時………
沈黙するセイドウの冒険者ギルド本部の大きな門の前には、朝の冷たい陽光を浴びて、3つの人間の影がまっすぐに並んでいた────
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