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第14話 絶対的恐怖心




 ────その女が酒場に入ってきたとき、誰も気づかなかった。


 なにせ、この店では誰もが“自分のことで精一杯”なのだ。


 薄汚れた木床にこびりついた乾いた血と、安酒の混ざり合った異臭。

 至る所で響く濁った笑い声。苛立ちを隠そうともしない貧乏ゆすり。

 錆びついた短剣をチラつかせた賭け事と、懐を狙い合う手癖の悪さ────


 それら人間の悪意を煮詰めたような濁濁たる気配が、天井近くに漂う紫煙と共に、この空間の空気を完全に汚染しきっていた。



 だが、その女がカウンターの手前でピタリと足を止めた瞬間。何かが、目に見えない鋭利な刃物によって、音もなく“断ち切られた”。



 ひとりの酔っ払いが、女の存在に気づいた。



 酒で赤く寄れた両目で、にやりと下卑た笑みを浮かべる。

 男は欠けた汚い歯を覗かせながら、粘つくような下品な口調で声をかけた。



「……おぉい、姉ちゃん……ひとりかぁ? 酒、奢ってやろーかぁ?」



 女は、振り返らなかった。

 まるで最初から羽虫の羽音でも聞いたかのように、ピクリとも身じろぎ一つしない。



 だが、男は拒絶にすら気づかないほど酒に調子づいて、彼女の華奢な肩に向けて、脂ぎった太い指先を強引に伸ばした────


 その瞬間だった……









































  パン…









































 鼓膜を震わせる軽い音がしたかと思えば……

 男の右腕が肘から先で派手に弾け飛んだ。



 そこには激しい衝撃波も、華々しい魔法陣の輝きすらもなかった。

 まるで熱したポップコーンの粒が内側から弾けたような、あまりにもあっけなく、凄惨で、乾いた破裂音。




「ギャアアアアアアアアアアアァッッ!!!!!」




 床に生温かい肉塊が転がり、男の絶叫が店内に木霊する。

 だが、それさえも“日常の雑音”に一瞬で押し流され、周囲のゴロツキどもは誰ひとりとして振り返る者はいない。


 暴力が法律であるこの濁った酒場において、“誰かの悲鳴”はただの会話の一部に過ぎず、“飛び散る赤い流血”はありふれた光景の一部でしかなかったからだ。

 男は失った右腕の断端を必死に抱え込み、床の上をのたうち回る。



 しかし、それで引き下がるほど、この街の吹き溜まりで生きてきた男の気性は柔くはない。



 痛みと恐怖でガタガタと全身を激しく震わせながらも、復讐の罵声を吐き捨てようと、涙と血に塗れた顔を床から死に物狂いで見上げる。



「テ、メェ何しやが────っ……」



 視線が、真っ正面から激突した。


 そこにただ静かに佇んでいたのは、底の割れない冷たい瞳をした女だった。

 サイドテーブルの淡い魔導ランプの光に照らされ、不気味に浮かび上がる白磁のような滑らかな素肌。

 左右のパーツが完璧な均衡を保った、まるで一流の彫刻家が命を懸けて削り出したかのように形の整った美しい顔立ち。

 それでいて、その美しい表情のどこを見渡しても、人間らしい“感情”が、爪の先ほども存在していなかった。



 怒りも、愉悦も、あるいは哀れみすらもない。



 まるで、自分の目の前にある肉塊が、最初から生きた人間などではなく、ただの風景の石ころであるかのような────

 その決定的なまでの無関心が、男の脳髄に本能的な死の恐怖を直接叩き込んだ。



「……っっ、」




 これ以上、この女の前で言葉を発したら、次は首が弾け飛ぶ。




 本能でそれを理解した男は、喉の奥で情けない引き攣った音を転がしながら、無様に床を這って後ずさる。

 傷口から溢れ出る血まみれの右腕をかばうことすら、その絶対的な恐怖の前に忘れたままで。


 

 だが、女はその無様な醜態に対して、最後まで一瞥すら寄せず、何の興味も示さなかった。

 ただ、衣服の裾を静かに揺らしながら、凍りついた空気の中を確実な歩調でさらに奥へと歩を進める。



 向かう先は────煙が最も深く立ち込め、他の誰も近付こうとしない店の最奥の特等席。




 相変わらず自分の名声のことしか考えていないアロンと、トランプを弄びながらそれに呆れるリンカの待つ、薄暗いテーブルの元だった。




第15話は、明日の【 12時40分 】に投稿いたします。


アロンとリンカに近づく美女の正体とは…!


もしよろしければ、ページ下部より【ブックマーク】や【評価】をいただけますと、大変励みになります。


それでは、明日の更新でお会いしましょう。

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