第116話 エルバ
「……じ、じゃあ……も、もしも……その、冒険者がいたとしたら……どうなりますか?」
私の唇から漏れ出たのは、それ自体が恐ろしい呪いの言葉であるかのような、掠れた、恐る恐るの質問だった。
無明の層に、もしも本当に、誰かが潜り込んでいるのだとしたら。みんなには絶対に言えない真実を隠したまま、必死に体裁を取り繕って紡ぎ出した、苦肉のたとえ話。
それを聞いたエルバさんは、深く刻まれた目元の皺をさらに鋭く細めて、酷く淡々と答えた。
「あるなら……まぁ、その冒険者が攻略した可能性が100%じゃないかな?」
「100%……?」
「100……でも、いないんじゃあ仕方な────……あるのかい? 心当たりが」
エルバさんの老練な眼光が、真っ直ぐに私の瞳の奥を射抜いた。
言葉を失い、ただただ不自然に、硬直したまま押し黙る。
叫びたかった。
心当たりがあると! 無明の層に潜っている冒険者がいることを!
だが────言えない。
オルテ様から厳重に口止めされているが故に、一介の受付嬢に過ぎない自分の独断で、この最重要機密を他人に明かすことなど、許されない。
不測の事態であるため、話しても構わないかもしれないが、まずはオルテ様に直接確認を取らねばならない。
しかし、ただの平職員である私に、セイドウの街のトップであるギルド長の直接の連絡先など、知る由もなかった。
誰かから聞き出したい、けれど、その本当の理由を周囲に話すわけにはいかない───
がんじがらめの沈黙のなかで、時計の針の音だけが、不気味に私の心臓を激しく打ち鳴らす。
冷たい汗が背中を伝う………私が覚悟を決めて、か細い唇をようやく開こうとした、まさにその時だった。
「ほら、これがオルテ様の秘書の、ミーウさんの連絡先……まずは秘書さんを通さないと」
エルバさんは深くため息をつくと、小さなメモを、私の手元へとすっと滑り込ませた。
「これは……?」
不思議そうにする私に対し、半世紀にわたってギルドの裏表を見続けてきた老職員は、どこか優しく、どこか全てを悟ったような苦笑いをその無骨な顔に浮かべてみせた。
皺の刻まれた年経た指先が、デスクの木目を滑るようにして差し出してきた一枚の白い紙片。
そこには、流麗な筆致で克明に記されていた連絡先があった。
「こ、これは…まさか!?……な、なんで」
「今の君の表情を見れば、だいたい察しがつくよ」
エルバさんのその深く、すべてを悟ったような言葉を聞いて、私はハッとして、恐る恐る自らの周囲を見渡した。
その瞬間、私は息を呑んだ。
先ほどまで、顔を青白くさせていたはずの同僚の職員たちが、いつの間にか───言葉にできないほどの巨大な『希望』と『期待』に満ち溢れた剥き出しの表情をして、じっと私のことを見つめていたのだ。
誰もが次の業務に向かう手を完全にストップさせ、背後の棚から、あるいは隣のデスクの影から、祈るような、あるいは縋り付くような熱い視線をこちらへと一点に集中させている。
「え、……」
「ま、まさかだよな……!?」
「いや、俺はまだ信じられんが……は、早く連絡してくれ!!」
「ど、ドキドキが止まらねえ……!!」
彼らは薄々、直感的に、私の取り乱し方を見て全てを察し取ってしまっていたのだ。
このセイドウの街を丸一年間もの間、暗い檻のように縛り付け、優秀な仲間たちを一人残らず吸い殺してきたあの最悪な地獄の日々。
その終わらない悪夢を終わらせた何者かが、現実に存在しているのではないか、と。
彼らの表情は、まるで目の前に最高に美味しそうなご飯を並べられて、「待て」をされながら今か今かと配給を待っている、純粋な子供のそれと全く同じだった。
普段は冷暖房の効いた快適なオフィスで、数字やデータを合理的に処理することだけを生業としている、誇り高きはずのエリート事務職たち。
その彼らが、今や管理側の人間としての冷徹なプライドなど何処へやら、ただ一人の生存者、ただ一つの奇跡を心の底から渇望して、エサを待つ雛鳥のように目を爛々と輝かせている。
それは、街のすべての命を背負い、最前線で散っていった者たちの書類を処理し続けてきたギルド職員たちの、魂からの期待に他ならなかった。
彼らの剥き出しの瞳の輝きに胸を強く打たれながら、私は指先をガタガタと震わせ、手渡された小さなメモの感触を、掌の中で壊れ物を扱うかのように強く、強く握り締めた。
「は、はい!!!」
私は意を決して、魔導端末へとその秘匿術式を滑り込ませ、秘書ミーウ様、そしてその向こうにいるオルテ様への通信を開始した。
第117話は、【 17時10分 】に投稿いたします。
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




