第106話 気高い男
『生意気な冒険者が消えるだけ』などと、どうして気にするなと言われて非情になれる。
痛まないはずがないだろう───あいつらが無様に死んで、俺の心が、なんとも思わないはずがないだろうが……!
机の上の計算式を優先し、ただ街の均衡を保つためだけの記号として、未来ある若者の灯火が消えるのを「仕方のない手順」だと割り切る。
そんな都合の良い非情さを、冷徹なギルド長としての役割を全うするためだけに都合よく自らの魂から絞り出すことなど、オルテにはどうしてもできはしなかった。
他者の命の終わりを冷酷に見捨てるたびに、自らの精神をすり潰していくような、あの奈落の泥土に塗れた嫌悪感。
いくら組織の絶対的な規約がそれを『正しい判断』だと突きつけてこようとも、一人の泥臭い冒険者として生きてきた彼の内側にある心が、激しく拒絶の声を上げ続けていた。
どれほど時間が経とうとも、その譲れない意地の境界線だけは、あの新人の規格外な自負に触れてしまった今、ただの不純物として消し去ることなど到底不可能だったのだった。
助手席で焦燥を剥き出しにするオルテの横顔を、ミーウはただ、無言のまま真っ直ぐに見つめていた。
彼女はオルテの秘書として、もう長い間、この不器用な男のすべてを一番近くで支え続けてきた。
どれほど強固な絶対規約の真ん中に身を置こうとも、決して魂のコアにある泥臭い人間性だけは手放そうとしなかった背中。
机の上だけで他人の命の終わりを記号のように間引く冷酷さに染まりきれず、いつだって役割の裏側で一人静かに血を吐くような葛藤を抱え込んできた上司の脆さ。
だからこそ、誰よりも痛いほどによく分かるのだ。
周囲から冷徹な凄腕の男と畏怖されるこの上司が、本当はどれほど優しく、脆い人であるかということを。
ギルド長という役職は、時には非情な決断を下さなくてはならない。
個人の小さな命よりも、街全体の巨大な均衡を冷徹に優先しなければならない。
どれだけ胸騒ぎに背中を焼かれようとも、大勢の均衡を守る手順のためには、無謀な一組の灯火が消えるのをただ無言で見届けるのが、組織のトップとして本来あるべき絶対のシステムのはずだった。
本来ならば、規約を破ってまで、ただの数人の冒険者のために組織のトップがわざわざ自ら危険な地へと出向いていいはずがないのだ。
────だが、それでも。
オルテという男は、いつも自ら動いてしまう。
以前、まだセイドウの街にこれほど重苦しい闇が立ち込める以前────
西日が静かに差し込むギルド長室のなかで、山積みの書類を整理していた手をふと止め、ミーウは応接用の長椅子にどっしりと腰掛ける上司へと視線を向けた。
『なぜ、そこまでして自ら動くのですか?』
それは、冷徹な手順を重んじるギルドの秘書の職についてから、ずっと胸の奥に抱き続けていた純粋な疑問だった。
組織のトップがわざわざ最前線にまで出向くなど、不測の事態に陥るリスクがどうしても生じてしまう。
理不尽な死や不協和音を未然に防ぎ、街全体の均衡という巨大な利を優先するのが普通なのだ。
それなのに、毎度毎度破って、冒険者のために組織のトップがわざわざ危険な地へと出向いているオルテの行動は、どう考えても割に合わない……ミーウにはわからない。
その問いを聞いたオルテは、大きな背中を丸め、まるで自らの青臭い本音を恥じるかのように、頭の後ろを手でガシガシと掻きながらどこか照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
『行かなきゃ……俺の心が腐っちまうんだよ』
『心が……腐る……ですか?』
オウム返しに呟いたミーウの双眸を、オルテは窓の外の遠い空を見つめたまま、低く、どこか静かな声音で受け止める。
『ああ……大勢のために個人を犠牲にする。組織としては、それが正しいのかもしれない。だがな……そこで見捨てちまったら、俺の心が腐っちまう───これは、俺のポリシーだ。どんなにギルドの理念に反しようと、これだけは絶対に曲げちゃいけないと、俺は思っているんだ』
煙草に火をつけることすら忘れ、不器用な掌をぎゅっと握りしめて語られた、組織の規約を踏み外してでも守るべき男の意地が、そこにはあった。
それは、合理的な判断を繰り返すたびに、一人の冒険者としての真っ直ぐな本質が、少しずつ、でも確実に擦り減っていくことへの根源的な恐怖。
誰の耳にも届かない声で、喉をかきむしるように必死の命乞いを叫ぶ若者たちを、ただ大人しく見殺しにするだけの機械にはなりたくないという切実な意地。
だからこそ彼は、目の前で今まさに崩壊しようとしている小さな命の灯火を前にした時、冷徹な役割の防壁をかなぐり捨ててでも、その分厚い掌を伸ばしに走るのだ。
『ああ……大勢のために個人を犠牲にする。組織としては、それが正しいのかもしれない。だがな……そこで見捨てちまったら、俺の心が腐っちまう───これは、俺のポリシーだ。どんなにギルドの理念に反しようと、これだけは絶対に曲げちゃいけないと、俺は思っているんだ』
夕暮れ時のギルド長室。
少しだけはにかみながら、けれど絶対に折れない男の芯を覗かせてそう語ったオルテの不器用で、しかし最高に色気のある背中。
窓の外から差し込む斜光が、数多の修羅場を潜り抜けてきた分厚い肩の輪郭を、どこか寂しげに、そして美しく際立たせていた。
その背中を目撃したまさにその瞬間に、ミーウは心の底から誓ったのだ。
たとえこの人が組織の理念を裏切り、世界のすべてを敵に回そうとも、自分だけは、どこまでも、世界の果てまでこの人に仕え、ついて行こう、と。
ただの理知的な秘書に過ぎなかった彼女の人生の存在理由を根底から塗り替え、その忠誠の規約をどこまでも強固に、そして永遠に縛りつける絶対の光だったのだった。
魔導車が激しい砂煙を巻き上げて荒野を爆走するまさにその最中───
過去の美しい誓いを胸の内に去来させながら、迫り来る最悪の破滅の手順を阻むべく、彼女は無言でハンドルを握り締めていた。
そんな時………ピピッ、ピピッ、と車内に突如として鋭い通信の魔導音が鳴り響いた。
ミーウはハンドルを片手で固定しながら、手早く通信魔導具を耳元へと当てる。
「はい……大丈夫ですよ……要件はなんでしょう?……!? わ、わかりました!! すぐに代わります!!!」
直後、ミーウの知的な瞳が、あり得ないものを聞いたのかのように驚愕で大きく見開かれた。
いつもならどれほど過酷な状況にも身を置いたとしても、眼鏡の奥の涼やかな双眸を1ミリも曇らせることのなかった理知的な秘書。
そんな彼女が微かに震え、手にする通信具がカタカタと不気味な硬い音を立てて震えている。
これまで冷静に隣を支えてくれていた秘書のそのあからさまな動揺の変貌ぶり。
ただ事ではない。
アロンたちが血の海の真ん中で全滅したという最悪の確定報告が、ついに手順通りに届いてしまったのか。
オルテは怪訝そうな表情を隠さない。
肺の奥底をドス黒い焦燥で満たされながら、彼はミーウから通信機を受け取った。
「どうした? なにかあったのか?」
『は、はい……! た、たった今……無明の層の転送陣が、解放を感知しました……!!』
「な!?!!!?!??」
受話器の向こうから響いた信じがたい音声を聞いた瞬間、オルテは肺の空気をすべて引き抜かれたかのように息を呑んだ。
───転送陣の解放
丸一年間、優秀な冒険者たちを何十人も呑み込む、あの理不尽な闇の最奥───そこに眠る魔法装置が起動したという事実。
それが意味することは、ただ一つしかない。
ダンジョンの、完全攻略────
すなわち、これまで誰も生きて帰れなかったあの『無明の層』は今────完全に攻略されたのだ!
「ほ、本当か!!! や、やりやがったのか!!?? あいつらが!!」
オルテは声を枯らし、車内で吼えるように叫んだ。
手遅れかもしれないと、あいつらが殺されているかもしれないと、血の気の引くような恐怖のなかで荒野を走ってきた自分の覚悟が、根底からひっくり返されていく。
「そ、そういうことかと……!! あ、見えてきました!! 無明の層!!! オルテ様!! あれを!!!」
ミーウの引きつった……しかし歓喜に満ちた叫び声とともに、魔導車が轟音を立てて荒野の砂を激しく跳ね上げた。
急制動をかけられた車体が激しく軋みを上げ、巻き上げられた大量の赤土が視界を遮る不純物となってフロントガラスをドロリと汚していく。
彼女がフロントガラスの向こうへ真っ直ぐに指さす方向────
そこには、無明の層の入り口………
そして、アロンたちの姿があった────
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




