第104話 仲間と光
「死ぬのは勝手なんだけど……それはダンジョンから出てからにしてくれよ」
新しく出現した転送陣の淡い緑色の光に照らされながら、アロンは相変わらずの締まりのない声でそう言い放った。
あまりにも緊張感のなく、あまりにも暖かい言葉────
ミカにとっては、自らの濁った全存在を、内側から丸ごと優しく包み込んで溶かしてしまうかのような、無垢な陽だまりの質感。
魔物の返り血に塗まみれて床にへたり込んだまま、ミカは呆然とアロンを見上げるしかえなかった。
「………なんで……助けたんですか?」
ミカの声は、震えていた。
彼女の倫理観では、目の前で起きている事象がどうしてもわからない。
アミとノルンを救えなかった贖罪のために、悪意ある者たちの弱みを握って冷徹に間引き、因果の報いを与え続けてきた彼女の覚悟。
他者へと向けられた悪意や裏切りには、必ずそれ相応の破滅の対価が返ってくるはずだという、彼女が地獄の底で叩き込まれてきた考え。
自分の手や精神、命をどれほど汚そうとも、悪にはそれに見合うだけの凄惨な結末が、手順通りに訪れなければならないのだ。
自分だってわかっていた……こんな汚れた独善を続けていれば、最後に自らの身に返ってくる因果の重みなど、ろくなものにはならないことくらい。
わかっていたのだ。
あの時ただ縋りつくことしかできなかった地獄の再現のように、暗闇のなかで怪物の牙に肉を食い破られ、誰にも看取られることなく終わる……あっけない幕切れ、自分の旅路はそうなると思っていたのだ。
しかし、アロンは助けた。
ミカは先ほどまでアロンの事を殺そうとしていたのだ……にも関わらず、なぜ助けるのか?
意味が分からない。
自らが張り巡らせた明確な殺意の報いが、このようなおめでたい冒険者によって綺麗に消し去られるなど、彼女の中にはただの一片すら存在しなかったのだった。
「は?」
アロンは間の抜けた声を漏らす。
助けたのに感謝ではなく、なぜ助けたのか? と、問われるこの状況……アロンは本気で困惑している。
本来であれば圧倒的な優秀さを誇る自らのSSSランクの武勇に誰もがひれ伏し、極上の称賛の手順を踏むべき局面のはず。
それなのに、目の前の少女は平伏するどころか、目が濁っている。
「……私は……あなたを罠にかけたんですよ……。この無明の層に誘い込んで、殺そうとしたんですよ」
ミカはアロンのことなど気にせず、自らの罪を、血の滲むような声音で告白した。
あの日、アミとノルンを見殺しにする嘘をついた最低な自分。
二人の尊厳を無惨に引き裂いた男たちへの復讐のため、正義の占い師を演じながら冒険者達を冷徹に間引いてきた自身の正体。
魂をすり潰すような贖罪の歩みのすべてを剥き出しにして、彼女は自らの薄汚れた輪郭をこの空間に吐き出していく。
これほどの明確な悪意を持って背後から牙を剥いていた自分を、なぜ助けたのか?
自分は決して、日の当たる場所で優しく救い上げられるべき存在などではない。
張り詰めた懺悔の言葉が、冷たい無明の闇をどこまでも激しく震わせた。
すべてを告白し、これで終わりだと言わんばかりに、自らの醜い裏切りに対する冷徹な断罪の爪痕が振り下ろされるその瞬間を、少女は息を吸う手順すら忘れたかのような冷たい恐怖とともに、じっと待っていた。
だが…………
「それが?」
「それがって……」
だが、味方が期待するような罵詈雑言などは飛んでは来なかった……
あるのはただ一つ……
アロンは首を傾げ、本気で「こいつは何を言っているんだ?」と言わんばかりの、純粋に不可解そうな表情を浮かべているのみ。
裏切られたことへの怒りも、殺されかけたことへの憎悪も、そこには存在しない。
アロンにとって、そんなミカの「暗い過去」や「人殺しの覚悟」など、今日のディナーの献立よりも価値のない、どうだっていいことだった。
自分が世界で最も優秀であるという非の打ち所のない自負。
その絶対的な自意識の真ん中に君臨する彼からすれば、他者がどれほどドロドロとした怨嗟の火花を散らそうとも、アロンにとってはヒトの感情の一つに過ぎない。
その感情も大事だね…!でもそんなことより───といった感じなのだ。
アロンは、へたり込むミカを見下ろしながら、どっしりと、絶対的な強者をもって言い放つ。
「君は俺のパーティーメンバー、勝手に死ぬことは許さないぞ」
「─────っ!!」
ミカは弾かれたように目を見開き、息を呑んだ。
返り血で汚れた自らの掌を見つめ、それから、淡い緑色の光のなかに佇むアロンの姿を真っ直ぐに見つめる。
裏切りを告白すれば、激昂されるか、あるいはその場で冷酷に切り捨てられる────それは、あの日からわかっていた…
しかし、これほどの明確な悪意を持って背後から牙を剥いていた自分を、アロンはただのマイペースな一言で、無条件にパーティーだから助けると言い張っている。
見栄を張ってついた最低な嘘の代償として大切な存在を地獄に突き落とし、最後には喉が張り裂けて血を吐くほどに命乞いを叫びながらも、何一つ救い出せなかったあの暗闇の記憶。
誰もが欲望のままに他者を踏みにじり、悪意の報いはさらなる凄惨な破滅として手順通りに返ってくるはずの、どうしようもなく歪んだ心。
そんな自らを引き戻してしまうアロンの言葉。
「お前が何を思って何に絶望して冒険者を殺しまわってるかは知らない……」
アロンは、ふう、と小さく息を吐くと、頭の後ろで両手を組んだ。
ミカが背負う、これまでに染まりきってきた暗い過去。
見栄を張ってついた最低な嘘のせいで親友たちを見殺しにし、その凄惨な罪滅ぼしの正義のために、悪人たちの弱みを握っては冷徹に間引き続けてきた執念の歩み。
世界の誰もが「痛みの対価」としてしか強さを得られないと信じ、傷跡だけをガソリンにして命を削り合っている、あの血塗られた世界の因果。
そんな重苦しいすべての前提を、アロンは粉々に踏みつぶす。
理由なんてどうでもいい。
過去がどれだけ汚れていようが、知ったことではない、と。
どれほど深い奈落を背負い、どれほど醜い自分に絶望していようとも、そんなものはアロンの世界においては、価値も持たないに過ぎないのだ。
「だが、今は俺達の仲間だ。ダンジョン攻略はまだ終わってない」
「そうだぞ、帰るまでがダンジョン攻略だ」
アロンの言葉に重ねるようにして、リンカがクスリと、どこか悪戯っぽく微笑みながら言った。
彼女の切れ長の瞳にも、ミカへの軽蔑や敵意は存在しない。
ミカに触れさせた時には絶対零度の不機嫌な圧力を放っていたはずの相棒が、今はまるで、大きな嵐が過ぎ去ったあとのようにただただ呆れ返った、確かな温かさを孕んだ眼差しを向けている。
「まったく、人騒がせな女だな」とでも言いたげな、呆れと親愛の不協和音。
これまでに張り詰めていた戦場の魔力ベクトルが、その二人の、どこまでもいつも通りで、どこまでも気の抜けた言葉によって次々と解きほぐされていく。
死地を潜り抜けるための過酷な世界など最初から存在しなかったかのように、ただの退屈な日常の延長線へと、空間全体の温度が完全に塗り替えられていくのだった。
それが、あまりにも頑強に、自らの手で内側から閉ざし続けていたミカの心の境界線を、音を立てて粉々に爆破していった。
暗い心の闇の底に、眩いばかりの『光』が差し込んでいく…………
親友たちの壊された尊厳に縋り、ただ世界への怨嗟を燃料にして生きてきた、あまりにも孤独な復讐者の魂に。
ミカは、返り血を拭うことも忘れて、ぽろぽろと大粒の涙をその瞳から溢れさせた。
冷たい殺気と罠が渦巻く、ダンジョン『無明の層』の隠された最奥────
周囲を包む闇は未だに深い。
だが、アロンたちの背後で輝く緑のポータルを見つめる彼女の心は…………
もう、決して『無明』ではなかった。
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




