第103話 転送陣
今回は短いです
ミカは、返り血に染まったまま床にへたり込んでいた────
生温かい化け物の体液がパチパチと音を立てて床の赤土に染み込んでいく、最悪な静寂。
己の存在理由すら見失い、ただ壊れた人形のように虚脱していた少女の視界。
あの日、アミとノルンの二人の尊厳を無惨に引き裂かれ、血の海の真ん中で怨嗟をガソリンに変えてようやく手に入れたはずの『完全なシステム』。
その執念の歳月のすべてが、何の代償も背負わないアロン前に踏みつぶされ、少女の心は行き場のない深い虚無の底へと置き去りにされていた。
そこに………
────ゴウン、ゴウン
地響きのような、重重しく不規則な金属音にも似た音が、ダンジョン『無明の層』のフロア全体に不気味に響き渡り始めた。
古びた歯車が強引に噛み合うたびに、狭い通路の壁面から灰色の塵がハラハラと零れ落ち、足元から伝う特有の微振動が不気味に皮膚を震わせる。
奈落の底で永い眠りについていた巨大な機構が、何らかの絶対的な規約を検知し、おぞましい質量を伴ってその歯車を回転させ始めているのだった。
重厚な石壁が擦れ合うおぞましい摩擦音は、まるで閉ざされていた迷宮の隠された深淵が、今まさにその悍ましい牙を剥いて新たなる災厄を目覚めさせようとしているかのような戦慄を、空間全体に上書きしていく。
その異様な振動に、ミカはビクリと肩を震わせる。
床に擦りつけた掌から直に伝わる、内臓を揺さぶるような大地の駆動。
ミカの乾いた唇からはひび割れた息が漏れ出すことしかできずにいる。
そう────種明かしはあまりにも単純だ。
たった今、アロンの一撃によって文字通り肉塊に変えられたあの巨大な魔物。
それこそが、この無明の層の『ダンジョンボス』だったのだ。
そのボスの死。
それのみを条件として設定されていた、いにしえの“自動起動”魔法装置が、永い眠りから目覚めて駆動を始める。
守護者の生命の灯火が消え失せたのを、冷徹に検知したのだ。
ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りを伴って、アロンたちの背後にある頑強な石壁が、左右へとゆっくりと開き始めた。
びっしりと埃の積もった強固な岩盤が、内側の複雑な術式の手順に逆らうことなく、凄まじい摩擦音を立てながら徐々に左右の闇へと格納されていく。
開かれた壁の奥────
暗黒のダンジョンの中で、そこだけが異質な質量を持って、淡い緑色の輝きを放っている。
湿った黒い空気そのものを内側から侵食するように、じんわりと発光する燐光の波紋。
そこに佇んでいたのは、禍々しくも美しい古代の魔力が編み込まれた、巨大な『転送陣』だった。
床面に深く深く刻まれた幾何学的な紋様からは、圧倒的な高密度の魔力が脈動となって絶え間なく吹きこぼれている。
「おい、なにボケーとしているんだ」
新しく出現した転送陣の淡い緑色の光に照らされながら、アロンは相変わらずの締まりのない声でそう言い放った。
これまで世界の悲惨な過去に囚われ、命を懸けて自らの術式を磨き上げてきたミカの壮絶な覚悟など、知るかと言わんばかりに素手で払いのけるトーン。
「死ぬのは勝手なんだけど……それはダンジョンから出てからにしてくれよ」
あまりにも緊張感のない、あまりにも現実味のない言葉。
魔物の返り血に塗まみれて床にへたり込んだまま、ミカは呆然とアロンを見上げるししかえなかった。
言葉の芯に宿るあまりのギャップに、怒りすら忘れてただただ思考が強制的にフリーズしていくミカの双眸。
淡い燐光の真ん中で、まるで近所の散歩にでも来たかのように平然と頭を掻いている男の無防備な背影は、地獄を生きてきた彼女の常識を、理くつの外側から冷徹極まりない質量で完膚なきまでに脱力させるのだった。
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それでは、明日の更新でお会いしましょう。




