第106話 過去
「さっきも言ったけど、簡単な質問よ……若い人間の意見も参照しようかとね」
「う~~~ん……」
イオはうなり声を上げ、深く、深く眉根を寄せた。
簡単な質問、と彼女は口にする。
だが、自分と妹をあの暗い地獄から救い出してくれた絶対の恩人が、いま、自分の言葉を求めているのだ。
適当な誤魔化しや、その場しのぎのお世辞を並べるなどという選択肢は、少年の頭のなかには存在しなかった。
どれほど拙く不器用な言葉になろうとも、自らがこの半年間で掴み取ってきた実感のすべてを、嘘偽りなく差し出すことだけが唯一の恩返しだと信じている。
著しく遅い、若手たちの成長速度。
自分はどうやってルトラの背中を預かるまでの強さを得たのか。
素材としての拙さを補うためのこれまでの訓練の記憶、そのすべての手順を必死に遡るようにして、彼は自らの脳内で必死に思考の糸を紡ぎ続ける。
ただ与えられたメニューをこなすだけの日常では、あの強固な天井を内側からぶち破ることなど到底叶わない。
考えれば考えるほど、イオの脳裏には、なぜ自分だけがこれほどの速度で成長を遂げられたのかという、確固たる裏付けを持った絶対的な『答え』が一つしか浮かび上がってこなかった。
イオは覚悟を決めたように顔を上げ、ベラドンナの冷徹な美貌を真っ直ぐに見据えた。
「あの~~、元も子も無い答えでもいいですか?」
「良いわよ……別に真剣に意見を求めてるわけじゃないしね。今日のご飯は何がいいと思う? みたいな緩い質問よ」
ベラドンナは、ふふ、と妖艶に微笑みながら、事も無げにそう言い放った。
自らの前で直面しかけている現実の問題を前にしても、彼女は普段と何一つ変わらない、おっとりとした大人の余裕を崩そうとはしない。
緊迫した対話の場を、まるで今日のディナーの献立を決める程度の軽いやり取りへと一瞬で塗り替えてしまうような、掴みどころのないトーン。
普通の人間ならその圧迫感だけで身が竦んでしまいそうな状況だというのに、彼女が浮かべる優雅な微笑みからは、他者の動揺を1ミリも寄せ付けない圧倒的な器の大きさが満ち満ちていた。
その甘やかな眼差しの深淵を前にして、部屋の内部には、彼女独自のどこまでも底知れない不思議なカリスマ性が、ただ静かに、そして重厚に漂っているのだった。
「(それは別に緩くないのでは?)」
ルトラの無骨な顔の下で、完璧に冷静なツッコミが脳内を駆け抜けた。
組織の未来を左右する人員の魔力限界話を、今日のご飯と同列に扱う目の前の女性。
一般人の場合なら、確かに緩い話のたとえ話の一例としては十分なのだろう。
だがしかし、目の前にいる女性は決して一般人ではなく、この組織のボスなのだ。
ボスのご飯を緩く考えるのか?と問われると、絶対に違うと答える。
いや、分かっている……ボスは別に自分自身のご飯のことだとは一言も言っていない。
一般論的な話でたとえに出しただけなのだ。
まぁ妻がいるルトラの身としては、たとえ一般論であっても、今日のご飯は何かという問いかけはそれだけで十分に怖い質問なのだが……
ここまでの思考を巡らせたのは、ベラドンナが言葉を口にしてからわずか二秒。
彼はその不条理な質量を完全に受け止めつつも、それを口にも顔にも出さずに、ただただ見事な直立不動の姿勢を維持し続けるのだった。
「はい……じゃあ……あの……やっぱり、過去がある人じゃないと強くはなれないのかと」
イオのその低く落ち着いた声音が、重厚な意匠が施された執務室の内部に静かに響き渡る。
その差し出された独自の理の言葉を前にして、ベラドンナはただ微笑みを深め、ルトラの視線もまた、その少年の真っ直ぐな瞳へと静かに注がれるのだった。
過去がある人────
地獄の貧民街で、明日をも知れぬ絶望に塗まみれた過去。
いつ命を奪われてもおかしくない過酷な奈落の底で、ただ一人残された大切な妹を守るために、何が何でも力を欲したあの、胸をかきむしられるようなドロドロとした情念。
自分をゴミのように扱ってきた冷酷な世界への憤りと、絶対に生き延びるという剥き出しの飢餓感こそが、ただの線の細い十代の少年でしかなかった自分を、半年というあまりにも短い期間で戦力へと引き上げた本物の原動力に他ならなかった。
忘れることなど到底叶わない悲劇の過去が、魂に消えない焼き印となって刻まれたからこそ湧き上がる、圧倒的なまでの執念。
それすら持たず、富と名誉に満ちあふれた者が、どれだけ形ばかりの上品な育成を施されようとも、自らの限界の器を押し広げて強く成れるはずがない────それが、数多の修羅場を誰よりも速く駆け抜けてきた若き天才イオが導き出した、元も子もない冷徹な真理だ。
第107話は、【 17時10分 】に投稿いたします。
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それでは、次の更新でお会いしましょう。




