第95話 加速する勘違い
「なんだ……急に近づいてきて何を言うかと思えば、そんなくだらない話なんて……君は何を考えているか分からないやつだな」
「全くだ」
広大な空間を支配していた肌を刺すような刺々しい緊迫感は、まるで幻だったかのように一瞬にして霧散した。
世界を凍らせるほどの鋭い殺気を放っていた二人の姿は、どこへやら。
松明の橙色の不気味な火光に照らされたその広い空間にいるのは、またしてもいつもの、緊張感の欠片もない『おふざけモード』の二人組だった。
アロンは気の抜けた調子で首を横に振り、リンカは裾を揺らすようにしていつもの日常の空気を纏っている。
だが───
目の前で佇むその光景を、ミカの脳内は、自らの都合の良いフィルターによって全く別の意味へと急速に再構築し始めていた。
これほどの理不尽なまでの圧倒的な暴威を振るう男が、何一つの暗い動機も持たずに、ただこの地獄の底に邪念ゼロで存在しているわけが最初から無いんだ。
───ああ、そうか。
そういうことだったのですね、アロンさん。
私は、自分の愚かな脳みそでようやくすべての真実を理解する。
あなたは、そうやっていつも私の前で平然とおめでたくフザケて見せることで、その服の下に隠された、他人に決して言えないようなあまりにも深く凄惨な心の傷を、必死に覆い隠そうとしているのですね。
リンカさんの笑顔を守るために。
余計な怯えや心配を絶対にかけないために。
かつてあの日、私がついていたあのくだらない嘘のせいでアミとノルンを失い、私一人だけが背負うことになったあの血塗られた深い絶望と同じ、もう二度と這い上がれないほどの過酷な絶望の足跡を、この世界の誰にも悟らせないために。
アロンさんは、ただ一人でその底知れない暗闇を抱え込んで耐え抜くために、あえて弛みきった緊張感のない、おめでたい嘘の仮面を被り続けているんだ。
それに気づいた私は切実な哀れみの熱波がドクドクと脈打ち始める。
その勝手なプロファイリングが彼女の頭の中でカチッと噛み合った瞬間、ミカの恐怖は、一息に吸い尽くされて消え去っていった。
「隠しているんですか……話したくないと、いや……無理に聞きません」
ミカは、この男の背負う悲劇のすべてを今度こそ自分の手で完璧に理解したと言わんばかりの、深く、そしてどこか哀れみに満ちた、聖母のような眼差しをアロンのその瞳へと向けた。
パニックで引き攣っていたはずのそのかすれた声音には、先ほどまでの震えるような恐怖は綺麗に消え去り、代わりに、同じ暗い闇を引きずって生きる同類の「痛みを分かち合おうとする」優しい熱が、生々しく帯び始めていた。
一人の女の子としての剥き出しの母性にも似た強い妄執が、その言葉の芯に確かな質感となって宿っている。
「ん?何その目……勘違いしてない? 何もないぞ?」
アロンは顔をしかめ、その強固な眉を盛大にひそめた。
百を超す魔物を不可視の斬撃で塵に変えることなど、アロンにとってはただ自分が優秀すぎるからというだけの、絶対の現実。
本当に、自らの脳内の記憶をどれほどひっくり返して探してみたところで、ミカが勝手に縋り付いて涙ぐんでいるような、他人に隠さなければならない悲しい過去など、存在してはいないのだ。
いつもの弛みきったおめでたい表情のまま、男はただ心底迷惑そうに、目の前の少女の勝手な脳内フィルターに呆れ果てていた。
「嘘を吐くのは結構です……それほど辛い過去をお持ちなんですね」
しかし、ミカの大きく見開かれた瞳には、いつの間にかうっすらと涙さえ浮かび始めていた。
松明を握る細い指先の震えは、恐怖ではなく、目の前の怪物の背負う孤独への深い同情へと完全に入れ替わっている。
その真っ直ぐに注がれる視線は、もはや「どんなにあなたが日常のフリをして隠しても、私にはあなたの背負う重い十字架がはっきりと見えています」とでも言いたげな、救いようのない完璧な誤解の領域にまで達していた。
もはやアロンの一挙手一投足は、彼女の前ではすべて『悲しい過去を隠すための強がり』として都合よく変換されてしまう。
「話を聞け」
アロンは、呆れたため息を吐き出すようにして、真っ正面からそう短く一蹴するのだが、なぜか勝手に聖母にランクアップして涙を流しているミカ。
自分の敵 → 困惑する相手 → 自分と同じ過去を持つ者 → 聖母が守る存在
目まぐるしく変わるアロンの評価……
そんな彼女の常識外れな暴走の前に、緊迫したサスペンスなどどこへやら、あまりにもお気楽で、あまりにも噛み合わない空気が、ただただ虚しく広がっていくのだった。
第96話は、木曜日の【 12時40分 】に投稿いたします。
もしよろしければ、ページ下部より【ブックマーク】や【評価(☆☆☆☆☆)】をいただけますと、大変励みになります。
それでは、明日の更新でお会いしましょう。




