第93話 疑惑
「私から話さんだけで、別に言いふらしても構わんぞ? ただの過去だ」
深々と頭を下げて小さく震えているミカの様子を冷ややかに見下ろしながら、リンカは酷く淡々と、本当に興味なさそうにそのセリフをそう言い放った。
他人が耳にすれば一瞬で正気を失うような自らの凄惨な過去を、まるで今日食べたチュロスの味でも思い返すかのように投げ捨てる、あまりにもどうでもよさそうにするその冷淡な態度。
彼女にとってはすでに通り過ぎた日々の残骸に過ぎないものが、今の平穏な日常のやり取りを何一つ侵すことはないと言わんばかりの、徹底的なまでの無関心。
覗き見たその凄まじい過去の重さに押しつぶされ、必死な思いで頭を下げていたミカからすれば、そのあまりにもあっけらかんとした返答は、目の前の現実とのギャップがあまりにも大きすぎて、ただただ意味不明だった。
本人がこれほどまでに気にも留めていないという事実そのものが、逆にミカの胸の奥底にある理解不能な恐怖をどこまでも肥大化させ、頭の芯を激しいパニックでフリーズさせていくのだった。
「いや!! それでも!! あれは! あれは一体────」
ミカは弾かれたように真っ直ぐに顔を上げ、肺の空気を引き攣らせながら悲鳴のような声を上げた。
恐怖によって限界まで大きく見開かれたその瞳の奥には、この十日間の旅の途中で、ほんの僅かな接触の瞬間に覗いてしまった『何か』が、今も生々しい悪夢としてこびり付いて離れない。
リンカの脳内の記憶の断片──そこに写り込んでいた、これまでの人間の常識や世界の前提のすべてを根底から覆すような、あまりにもおぞましく、圧倒的な『世界の裏側』の光景。
それは、力に溺れて他人を踏みにじることしか頭になかったあの夜の男たちのような、生々しい人間の欲動などとは一線を画す『本物の深淵』そのものだった。
それをただの過去だと言い切るこの女の正体が、ただただ底知れなくて喉がカラカラに干からびる。
「おい……それ以上口を開くな、不愉快だ」
「っ……」
ピシャリと、冷徹に研ぎ澄まされた刃物のような声音が、ミカの唇から漏れ出ようとした次の言葉を真っ正面から両断した。
リンカの瞳には、これ以上の詮索は許さないと言わんとする冷徹な殺意を孕んで、ミカを真っ向から睨みつける。
さっきまでの気の抜けたツッコミの調子とは完全に一線を画する、他人に決して立ち入らせない絶対的な格の高さ。
その絶対的な強者が放つ静かな威圧感の前に強く気圧され、ミカは喉を小さく鳴らして完全に押し黙るしかなかった。
いや逆に止めてくれて良かったのかもしれない……
これ以上あの深淵に触れれば、逆に自分の命が間引かれて消えるかもしれないという本能が警鐘を鳴らしていた。
再び張り詰めた氷のような静寂が重苦しく降りてくる。
かつて通路の上で響いていた靴音の余韻すら沼のように冷たく飲み込む、この世界の色彩をすべて失った暗闇。
「私の事などどうだっていい……今はアロンについてだろう?」
ふう、とリンカは小さく呆れたように息を吐き、つまらなそうにその視線を隣のアロンを指差した。
自らの最も深い秘部を暴かれたにもかかわらず、その表情はピクリとも動かない。
主導権を完全に握り直されたミカは、激しく脈打つ心臓の不快な鼓動を無理やり抑えつけるようにして、自らの衣服の胸元を強く、爪が割れるほどの質量で握りしめる。
「…………え、えぇ……そうですね…………アロンさん……あなたに聞きたい事があります」
ミカは恐怖で震える唇を強く噛み締め、胸の奥に溜まっていた熱い空気を、ふぅ、と長く時間をかけて吐き出した。
松明の橙色の不気味な炎が暗闇の中で歪に激しく揺れ動くなかで、彼女の視線が、血の海の真ん中でどっしりと不遜に腰掛けているアロンのその冷酷な瞳を、真っ直ぐに捉えた。
「あなたもリンカさん同様に、何か暗い過去を背負っているんですか?」
第94話は、火曜日の【 12時40分 】に投稿いたします。
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それでは、明日の更新でお会いしましょう。




