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勘違いの幸福と、死の数置

勘違いの幸福と、死の数置


病院からの帰り道、西日はさらに傾き、二人の影を自転車ごと長く、歪に引き延ばしていた。


富子はサドルにまたがったまま、まだ少し興奮した様子でペダルをのろのろと回している。和俊はその一歩後ろを、彼女の背中を守るようにして走っていた。


先ほど診察室であれほど叫んだというのに、母の心はもう別の場所へ飛んでいるようだった。彼女の脳内は、常に目まぐるしい万華鏡のように色彩を変える。


「ねえ、和俊。お母さん、やっぱり病院って大嫌い」


富子が前を向いたまま、風に声を乗せた。


「うん、知ってるよ」


和俊は短く応じた。母が病院を嫌うのには、単なる我が儘ではない、あまりにも壮絶な過去の傷跡がある。彼女の体と心は、精神科の薬に対して狂暴なほど過敏に反応してしまうのだ。


かつて母が重い重症うつ病の底に沈んでいた頃、処方された抗うつ剤を飲んだ途端、脳のスイッチが異常な方向へ跳ね上がった。躁転だった。万能感に満たされた母は、何に突き動かされるようにしてキャッシングに走り、何百万円もの借金を重ねて最終的に破産宣告を受けた。


それだけでは終わらなかった。今度は処方された睡眠薬のせいで深い記憶障害を起こし、夜中に意識のないまま徘徊した。あの日、和俊が血眼になって探した母は、路上で見知らぬティッシュを八箇所で燃やし、警察に囲まれていた。放火未遂。医療裁判を経て、母はそのまま措置入院となった。


あの時の、冷たい鉄格子の匂いと、母の虚ろな目を和俊は一生忘れない。だからこそ、母にとって病院は、自分を壊し、人生を狂わせる恐怖の迷宮そのものなのだ。


記憶障害のせいもあって、予約をしてもまともに受診できることなどほとんどなかった。それは精神科だけでなく、体の病気である内科でも同じだった。


「お母さん、糖尿病の数値がちょっと良くなると、すぐ行くのやめちゃうからね」


和俊が少し咎めるように言うと、富子は悪びれずに笑った。


「だって、HbA1cが六・〇になったら、もう治ったって思うじゃない。お医者さんに行く時間がもったいないわよ」


その極端な思考が、去年のあの恐ろしい事態を引き起こしたのだ。通院を完全に放置し、内科の存在すら忘れていた頃、たまたま精神科の血液検査でなぜか糖尿病の数値が問題視された。


看護師が血相を変えて持ってきた結果の紙には、信じられない数字が躍っていた。血糖値五六五。通常の何倍もの砂糖が、母の血をドロドロに濁らせていた。


医師は机を叩かんばかりに叫んだ。


「富子さん! 点滴三本終わるまでは絶対に帰っちゃダメですからね!」


あの日のことを思い出し、和俊は今でも背筋が寒くなる。だが、当の母は違った。その日も二人は、何時間もかけて自転車で病院へ向かったのだ。


五六五という死線の一歩手前の数値を突きつけられた瞬間、母の胸を満たしていたのは、恐怖ではなく、完全なる「達成感」だった。


「あの日は、本当に最高の気分だったのよ」


富子は自転車を止め、赤信号を見つめながら、うっとりとした声を上げた。


「あんなに遠い病院まで、和俊と二人で自転車でたどり着けた。無事に着いたっていう安堵感と、やり遂げたっていう喜びで、お母さん、頭の中が超ハッピーだったの。お花畑が見えるくらいにね」


だからこそ、いきなり医師に激しく叱られ、「あんた、このままだと死ぬよ!」と怒鳴られても、富子の心には一滴の恐怖も染み込まなかった。


彼女は、青くなった医師の目を真っ直ぐに見つめ返し、この世のものとは思えないほど平然と、こう言い放ったのだ。


「まあ、先生。人間いつか死ぬんです。自分のできることを丁寧にできた今日という日に、私は一ミリの後悔もありません。ありがとう人生、楽しかったよと言って、私はいつでも死ねます」


和俊は隣でその言葉を聞いた時、呆れるのを通り越して、母の放つ奇妙な後光に圧倒されてしまった。死の淵にいながら、彼女は誰よりも人生を肯定し、感謝していた。


医師の立場からすれば、目の前にいるのは医学の常識が一切通じない、とんでもない「勘違い女」だったに違いない。必死で命を救おうとしている目の前で、悟りを開いたかのように微笑む老女。それは滑稽であり、同時に酷く不気味だったはずだ。


「先生、すごく怒った顔をして、頭を抱えていたね」


和俊が言うと、富子は少女のようにクスクスと笑った。


「そうね。でもお母さん、嘘は言っていないわ。いつ死んだっていいの。和俊と一緒に、今日という日を一生懸命に生きられたんだから。あの点滴の針は痛かったけれど、冷たい液が体に入ってくる時、生きているなあって思ったのよ」


信号が青に変わる。二人は再びペダルを漕ぎ出した。


母の言う「丁寧な今日」の中身は、世間から見れば、破産、徘徊、放火、そして致死量に近い血糖値という、破滅のパッチワークだ。それでも、彼女の五感が捉える世界は、いつだって鮮烈で、どこか美しかった。


西日が母の白髪を黄金色に染め上げている。


「お母さん、でも死なれたら困るよ。僕を一人にしないで」


和俊の本音が、風に混じって小さく漏れた。強度行動障害の自分を、この世界で唯一受け止め、愛してくれる「デパート」のような母。彼女がいなくなれば、和俊の時間は本当に止まってしまう。


富子は自転車のスピードを少し落とし、息子の顔を覗き込んだ。その目は、先ほど診察室で狂気に狂ったものと同じとは思えないほど、優しく澄んでいた。


「分かっているわよ、和俊。お母さん、簡単には死なないわ。だって、まだあんたと一緒に、このボロ自転車で走らなきゃいけないんだから」


二人の乗る自転車のチェーンが、ガタガタと頼りない音を立てて響く。


夕闇が迫る街の中、二人の行く手は相変わらず鬱蒼とした藪の中のように不透明で、険しい。病気と障害の嵐は、明日もまた二人を翻弄するだろう。


それでも、母の「ありがとう人生」というあの途方もない勘違いが、今の二人を支える唯一の光だった。和俊は深く息を吸い込み、排気ガスと夕暮れの匂いを胸に溜めながら、母の背中を追って、力強くペダルを踏み続けた。



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