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母と息子の藪の中――診察室の叫び

母と息子の藪の中――診察室の叫び


五月の生温かい風が、アスファルトにへばりついた埃の匂いを巻き上げていた。


和俊は病院の待合室の硬いプラスチック椅子に深く腰掛け、自分の太ももを両手でぎゅっと凝視していた。アスペルガー症候群の彼にとって、この空間の蛍光灯のチカチカとした微音や、消毒液のツンとした刺激臭、そして他人の話し声は、すべて脳を侵食する鋭い針のようだった。ましてや今日は、体力の限界を超えていた。


お金の管理がどうしても苦手な母と自分。役所から支給されるはずのタクシー代の還付手続きが滞り、過去三回分の往復四万円が浮いたままになっていた。財布の底はとうに冷え切っている。生活保護のケースワーカーに泣きつくこともできず、二人は四十一時間半という気の遠くなるような時間をかけ、自転車でこの病院までやってきたのだ。


和俊の脚は棒のように硬直していた。だが、それ以上に悲惨だったのは、七十一歳になる母の富子だった。線維筋痛症を患う彼女にとって、自転車の振動は全身の神経を逆撫でする拷問に等しい。道中、「もういいよ、和俊、お母さんここで死ぬ」となきべそをかいていた。糖尿病、注意欠陥多動性障害、識字障害、摂食障害、薬物アルコール依存症、境界性パーソナリティ障害、愛着障害。病気と発達障害とアディクションのデパート。それが、和俊の愛する、そして彼を翻弄し続ける母親のすべてだった。


いつもなら、和俊の診察が終わり、母の診察もすんなり終わる。処方箋を握りしめ、「よかったね、今日も来られたね」と満面の笑みで、ボロボロの身体を労わり合いながら帰るはずだった。それが二人の、ささやかで唯一の平穏な結末だった。


しかし、今日は違った。


診察室からかなり離れた場所に座っている和俊の耳に、重く淀んだ空気を切り裂くような、母の大きな声が届いた。


「ちゃんと私の話、聞いていただけています?」


和俊はビクッと肩を震わせた。視線を上げると、白い扉の向こうから、母の張り詰めた、今にも弾けそうな声が何度も何度も繰り返されているのがわかった。


「聞いていますか? 先生、私の話、ちゃんと届いていますか!?」


待合室の空気が一瞬で凍りつく。他の患者たちの視線が、一斉にその診察室のドアへと注がれた。和俊の胸の奥で、ドクドクと不穏な鼓動が跳ねる。強度行動障害を持つ彼の脳内で、パニックの引き金がカチリと音を立てた。それでも彼は、自分の拳を血がにじむほど強く握りしめ、その場に踏みとどまった。母の元へ行かなければならない。しかし、あの扉の向こうで何が起きているのかを知るのが、恐ろしくてたまらなかった。


和俊は重い脚を引きずり、吸い寄せられるように診察室のドアへと近づいた。防音のはずの扉を透過して、母の震える声と、主治医の困惑したような冷淡なトーンが漏れ聞こえてくる。


「富子さん、落ち着いてください。お薬はいつも通り出していますし、私はちゃんと聞いていますよ」


「嘘よ! 先生はパソコンの画面ばかり見て、私の目を見てくれない! 私の体の中で、どれだけの嵐が吹き荒れているか、分かっていないわ!」


母の叫びには、深い拒絶の恐怖と、満たされない愛着の飢えが混ざり合っていた。境界性パーソナリティ障害の波が、長時間の移動による疲労と合流し、巨大な津波となって主治医に襲いかかっているのだ。


「富子さん、後ろの患者さんも待っています。今日は自転車で来て疲れているんでしょう。もうおしまいにしましょう」


「終わらせないで! 私は、私はね、今日ここに来るために、地獄を這ってきたのよ! 腕がちぎれそうで、お尻が痛くて、それでも先生に、この苦しみを聞いてほしくて来たの!」


ガタタン、と椅子が激しく鳴る音がした。和俊はたまらずドアノブを掴み、中へ飛び込んだ。


視界に飛び込んできたのは、机を両手で叩きつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした母の姿だった。白髪混じりの髪が振り乱れ、目は血走り、狂気と哀愁が入り混じった形相で医師を睨みつけている。医師は引きつった笑みを浮かべ、キーボードに置いた手を止めて身を引いていた。


「お母さん!」


和俊は大声を上げた。自分の声が、診察室の狭い空間に反響して耳の奥を痛めつける。


富子は息子を振り返ると、まるで救いを求める子供のような目をした。


「和俊! 聞いてよ、この先生、お母さんの話を全然聞いてくれないの。私の病気が多すぎて、面倒臭いと思っているのよ! 私が文字を読めないから、馬鹿にしているのよ!」


「そんなことはありませんよ」


医師はため息を隠そうともせず、眼鏡を指で押し上げた。


「私は医学的な見地から、富子さんの主訴を記録しているだけです。和俊さん、お母さんを連れて帰ってください。これ以上は診療の妨げになります」


「妨げって何よ! 私の人生そのものが、誰かの妨げだって言うの!?」


富子の声は、悲鳴から嗚咽へと変わった。彼女は床に崩れ落ち、自分の頭を両手で激しく叩き始めた。激しい自傷行為。それはアディクションと境界性の発作が限界に達したサインだった。


和俊の頭の中が真っ白になった。彼の強度行動障害が、母のパニックと共鳴する。大声を上げて暴れ出したい衝動が、全身の筋肉を硬直させた。ウウ、ウウ、と和俊の口から獣のような唸り声が漏れる。


だが、床で泣き叫ぶ母の小さな背中を見た瞬間、和俊の心に冷たい静寂が訪れた。この人は、僕のお母さんだ。世界中で二人きりの、僕たちの生活。ここで自分が暴れたら、二人の居場所は本当になくなってしまう。


和俊はゆっくりと膝をつき、床に丸まる母の、汗ばんで酸っぱい匂いのする肩を優しく抱きしめた。線維筋痛症の身体は、触れるだけでも痛むはずなのに、富子は息子の手の温もりにすがるように、その胸に顔を埋めた。


「お母さん、もういいよ。もう帰ろう。僕が、お母さんの話を全部聞くから」


和俊の喉から絞り出された声は、かすれていたが、不思議なほど落ち着いていた。


富子はハアハアと荒い息を吐きながら、息子のシャツをその細い指で強く掴んだ。


「和俊……お腹がすいた。喉が渇いたわ。お酒が飲みたい。甘いものが食べたい。でも、お金がないのよね」


「うん、お金はないけど、お家に帰れば水があるよ。少し休んだら、また自転車で帰ろう」


和俊は母を支えながら、ゆっくりと立ち上がらせた。医師は何も言わず、ただその様子を冷たい事務的な目で見つめていた。その視線に、和俊はかすかな怒りを覚えたが、それを表現する言葉を彼は持たなかった。


診察室を出ると、待合室のすべての視線が二人を突き刺した。まるで怪物をを見るかのような、あるいは哀れみの混じった、冷酷な視線の針。和俊は母の肩を抱き、それらの視線を遮るようにして、ゆっくりと歩いた。受付で薬の引換券を受け取る時も、事務員の指先がわずかに震えているのが分かった。


病院の外に出ると、西日が二人の目を射抜いた。アスファルトの上には、二台の古ぼけた自転車が、長く黒い影を伸ばして待っていた。


富子は、涙の乾いた跡が白く残る顔で、遠い空を見上げた。


「和俊、お母さんね、本当は先生に怒りたかったわけじゃないのよ。ただね、生きてていいよって、誰かに言ってほしかっただけなの」


「分かっているよ、お母さん」


和俊は自転車のサドルに手をかけた。お尻の痛みは、まだ激しく残っている。これからまた、あの果てしない道のりを、何時間もかけて帰らなければならない。生活保護の足らない部分、障害、依存症、それらすべての重荷を、この錆びついた自転車のペダルに乗せて、二人は漕ぎ出さなければならなかった。


「よかったね、今日も病院に来られて」


富子が、消え入りそうな声で、それでも無理に口元を歪めて微笑んだ。


「うん、よかったね」


和俊は短く答え、ペダルを踏み込んだ。夕暮れの風が、二人の汗ばんだ肌を冷やしていく。藪の中のような、先も見えない、誰にも理解されない二人の人生。それでも、ペダルを回す足は、確実に前へと進んでいた。



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