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第8話 私はイワナガヒメじゃない

笑いが一段落したところで、千歳は湯の中で膝を抱えました。

言うなら今です。

でも、口を開くと、さっきまで近かったみんなが急に遠く感じました。

「それより、聞いてほしいことがある。」


ハニチュウとゲツ先輩の声が止まりました。

湯を流れる水の音だけが残ります。

千歳は自分の手を持ち上げました。

湯が指の間から落ちます。

何度見ても、イワナガヒメの手です。


「私、本当はイワナガヒメじゃない。」

サクヤとヤマ先輩が、ほとんど同時にこちらを見ました。


「名前は千歳。五千年くらい後から来た。気づいたら、この身体にいた。」


最初に声を出したのはサクヤでした。

「じゃあ……お姉ちゃんは?」

千歳の手が、湯の中へ沈みました。

「分からない。」

「いなくなったの?」

「それも分からない。」

言えるのは最後に見たところまでです。


水辺。

黒曜石。

白い光。

『見るなって言われて、やめるかよ。』


「水に映ってたイワナガヒメだけが消えた。身体は残った。倒れた。」

サクヤが唇を噛みました。

ヤマ先輩は、千歳の顔ではなく手を見ています。

バキ教官が湯の縁へ肘を置きました。


「身移りか。」

「……何それ。」

「自分と身体が違うということだ。」


バキ教官は、湯の縁を指で軽く叩きました。

「お前みたいに身体を入れ替えるのも、女神を土地へ座留めするのも、オカミも、形が違うだけで根は同じだ。まとめて身移りって呼んでる。」


千歳は思わず身体を起こしました。


「待って。オカミって何?」

「名前じゃねえ。水や川、湖、泉みたいな場所の側にいるやつらを、まとめてそう呼ぶ。大きい蛇が多いな。」

「まとめて?」

「オカミは種類の呼び方だ。個体の名は別にある。今はそれでいい。」


「でも、どうして蛇なの?」

「水の中を泳いで、底を這って、流れに身体を沿わせる。ああいう身体の方が、土地や水が変わる時の具合を感じやすいんだろうな。」

「それって、川が危なくなったら分かるってこと?」

「何か変わった、まではな。人が地図を見て場所を決めるような分かり方とは違う。」


「じゃあ、教えてくれればいいのに。」

「人の言葉は使えねえ。感じたものを、俺たちの言葉に直せるわけじゃないんだ。」

千歳は少し考えました。

「すごく分かるのに、伝えられないんだ。」

「そんな時もある。」

バキ教官はそこで話を切りました。


「今は、って……」

また知らない言葉が増えました。

でも、話を止めるほどではないらしい。


「じゃあ、全部、同じ現象なの?」

「根は同じだ。」

「アンジュも?」

「今まさに身移り中だ。座留めされてるだろ。」


その一言で、胸の奥に固まっていたものが少しだけ緩みました。

自分だけに起きた、名前のない異常ではない。


お嬢が千歳の隣へ寄ります。

「私は千歳を千歳として見ていますわ。」

サクヤも、湯の中を一歩近づきました。

「私も。」

千歳は返事をしようとして、声が出ませんでした。


その空気を壊したのは、やっぱりバキ教官でした。

「そんな顔すんな。イワナガもからかい甲斐があったが、お前は輪をかけてからかい甲斐がある。俺は問題ねえ。」

「それ、受け入れてくれてるんですか?」

「他にどう聞こえる。」

「全然うれしくないです。」

「贅沢言うな。」

千歳は鼻の奥が少し熱くなったのをごまかすため、湯を顔へかけました。


そこでバキ教官が急に真顔になります。

「千歳。」

「はい。」

「大事なことだ。正直に答えろ。」

全員がバキ教官を見ます。


「この中で誰が一番美しい?」

「……は?」

「ナミか?ナミなのか?俺はナミだと思うが、お前はどうだ?」


ナミ教官が目を閉じました。

「バキ。」

「なんだ。」

「黙って。」

さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ崩れました。


千歳は、やっと息を吐きました。

湯の温度が少し上がりました。

端にいたセヲ様が気づいて、沢水を入れる溝の石を足で押しました。

細い流れが太くなり、冷たい水が湯へ筋を作ります。

その冷たさが、千歳にはなんだか温かく感じられました。


急にゲツ先輩が身を乗り出しました。

「ねえねえ千歳、温泉入ったら定番トークがあるよね?」

「定番トークですか?」

「そう。由緒正しい定番トーク。いくよ。」


ゲツ先輩は、妙に改まって千歳を指しました。

「千歳は誰が好き?」

「え?」

「誰が好き?」


お嬢が当たり前の顔で会話へ入ります。

「私は千歳ですわ。」

「え?」

「千歳が好きですわ。」


サクヤもすぐ手を上げました。

「私も千歳好き。」

「サクヤまで?」

「うん。ウズメ先輩も好き。」


千歳はサクヤとウズメ先輩を交互に見ました。

「二人?」

サクヤの方が不思議そうです。

「二人じゃ駄目なの?」


セヲ様も、溝の石から足を離しながら言います。

「私はタツコお姉様ね。」

「そういう意味で?」

「そういう意味って、どういう意味?」


逆に聞かれました。

千歳は指を一本ずつ折りました。


「好きな相手。」

「うん。」


「ツガイにする相手。」

「うん。」


「身体を合わせる相手。」

「うん。」


「全部、別なの?」


今度は全員が千歳を見ました。

「別だけど?」

声が重なりました。


ナミ教官が、湯の中で肩をすくめます。

「好きになるのも、身体を合わせたいと思うのも、それ自体は恥じゃないわよ。」


千歳が顔を上げました。

「じゃあ、何が駄目なの?」

「欲しいからって、相手の境を勝手に越えること。」

ナミ教官は即答しました。

「好きでも?」

「好きだからって、相手の境が消えるわけじゃないでしょ?」


千歳は両手で額を押さえました。

「男でも女でも?」


サクヤが聞き返します。

「何でそこ分けるの?」


分からないことが増えました。

千歳はしばらく湯面を見ていました。


水面に映る顔が揺れます。

その向こうへ、咲良の顔が浮かびました。


教室で笑った顔。

ちょっとずるい顔。

何でもないふりをする顔。


「あ。」


お嬢が覗き込みます。

「何ですの?」

千歳は、自分でも驚くくらい小さな声で言いました。

「私……咲良が好きだったんだ。」


お嬢は「それは恋?」とも「ツガイにしたい?」とも聞きませんでした。

ただ、にっこり笑います。

「では、今度お話を聞かせてくださいませ。」


それだけでした。


ヤマ先輩が悪戯っ子顔で、

「な?ルーズだろ。」

と笑っています。


ルーズというか何でもありというか……

緊張した自分が馬鹿らしくなって、湯の中で少しだけ笑いました。


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