第6話 湯気の向こう
チホとの戦いで汗や汚れが気になっていた女神たちは、バキの「よし、皆で湯浴みするぞ!」という提案に満場一致で賛成しました。
千歳も異論はありません。
縄文へ来てから数日。
身体や髪を水で洗うことはありました。
でも、湯へ肩まで沈むなんて一度もありません。
「湯浴み。」
その言葉を聞いただけで、千歳は少し早足になりました。
女神アカデミーの湯場は、建物の中にはありませんでした。
林の斜面を下る途中から、木々の間に白い湯気が見えます。
水の音に混じって、時々笑い声が上がる。
「……温泉。」
思わず声が出ました。
前を歩いていたお嬢が振り返ります。
「そんなに嬉しいんですの?」
「嬉しいよ!」
岩のくぼみに溜まった湯へ手を入れる。
温かい。
それだけで、もう勝ちです。
服は少し高い乾いた岩棚へ置かれていました。
編んだ敷物の上へ畳む人もいれば、木の枝へ紐ごと掛ける人もいます。
「脱衣所は?」
「だつい……?」
「なんでもない。」
現代語を一つ、諦めました。
裸足で湿った岩へ下りると、足裏から熱が伝わります。
湯へ入る前に、お嬢の身体を見てから自分――正確にはイワナガヒメの身体――へ視線を落とし、もう一度お嬢へ戻しました。
比較するまでもありません。
千歳は黙って肩まで湯へ沈みました。
負けている。
かなり。
いや、負けているのは千歳ではありません。
イワナガヒメです。
そこを間違えると本人に失礼です。
湯気の向こうでは、ヤマ先輩がいつもの場所らしい平たい岩へ背を預けています。
「あ。ヤマ先輩似なんだ。」
「何が?」
目を閉じたまま返ってきました。
「なんでもないです。」
ヤマ先輩は片目だけ開け、自分の肩を見下ろし、それから千歳を見ました。
「何が?」
「なんでもないですって。」
隣でお嬢が笑いました。
湯気が一度、風に流されます。
「ねえ千歳。そろそろ話してもよろしいんじゃなくて?」
笑いが止まりました。
千歳は自分の手を湯の中へ沈めました。
水面が揺れ、イワナガヒメの指が歪んで見えます。
自分はイワナガヒメではない。
名前は千歳。
五千年後から来た。
「みんな来てから話す。」
「そうですわね。」
ヤマ先輩が、岩の脇を流れる湯を手ですくいました。
「私を無理に母と呼ばなくてもいい。」
千歳は顔を上げます。
「え?」
「ここでは、そういうことはルーズだから。見てれば分かる。」
「何が?」
ヤマ先輩は肩へ湯をかけました。
「親子でも、別の人間だってこと。」
千歳が答える前に、湯気の向こうから声が飛んできました。
「えー、ちょっとあなた。これどういうこと?」
そして、セヲ様が知らない女神と対峙していました。
セヲ様は相変わらず女優さんのように美しい。
脱いでも、その清楚さは失われません。
でも、向かいにいる女神は違いました。
セヲ様とは違う。
でも、セヲ様に負けない。
まるで雑誌のモデルみたいなスタイル。
綺麗。
千歳は急に自分の身体が気になって、隠すようにそそくさと湯へ入りました。
それから、もう一度その女神を見る。
ん?
見たことある?
あの人気モデル?
いや、もっと最近、こっちで見た。
「……ククリ?」
「そうだけど。」
ククリは、湯へ片足を入れたところで振り返りました。
眼鏡がない。
髪も束ね方が違う。
いつもの服もない。
服装と髪型で人を覚えていたことに、千歳は初めて気づきました。
「ククリ!?」
お嬢まで二度見します。
セヲ様はもっと露骨でした。
湯をかき分けてククリの前まで行くと、セヲ様は相手の胸元を見て、自分のを見下ろしました。
比較していることを隠す気がありません。
「あなた、それ隠してるの、感じ悪いんだけど。」
「何がです?」
ククリは涼しい顔をしていました。
セヲ様が無言で視線を落とす。
ククリもその視線を追って、自分の胸を見下ろしました。
「ああ。」
「ああ、じゃないわよ。どこ産?」
「白山ですけど。」
「白山……」
セヲ様は、白山という土地そのものに裏切られたような顔をしました。
今度はククリがセヲ様の胸元を見て、妙に納得したようにうなずきました。
自分の胸元へ手を添えます。
「先輩は早池峰ですよね。」
「そうだけど。」
「いかにも急流で磨かれましたって感じ。ストイックな先輩らしいです。」
「今、私の身体いじったよね?」
「そんなことないです。」
セヲ様は腕を組みました。
「私は服を着た時に一番きれいに見えるように整えてるだけなんですけど?」
ククリが、今度は素直に感心した顔をしました。
「わー。羨ましい。」
「絶対馬鹿にしてるでしょ。」
「そんなことないです。」
少しして、ククリが「あ」と声を出します。
「何よ。」
「先輩だったなって。」
セヲ様が、ゆっくり笑いました。
「ふふふ。」
「?」
「どうやら私は、後輩から喧嘩を売られている最中のようですね。」
千歳はお嬢へ顔を寄せました。
「仲悪いの?」
二人を眺めたまま、お嬢は小声で答えます。
「楽しそうですわよ。」
「そう見える?」
千歳には、まだ少し難しかったです。
「私は普段、布で抑えてるので。」
セヲ様の眉が上がります。
「抑えてる?」
「動くと邪魔ですから。」
「……感じ悪い。」
「先輩、さっきもそれ言いました。」
そこへ、濡れた石を慎重に下りながらサクヤが来ました。
後ろからウズメ先輩が手を貸しています。
「ウズメ先輩、さっきの舞、ほんとにかっこよかった!」
「ありがとう。滑るから前見て。」
「ウズメ先輩、かっこよかった。先輩の舞、私、泣いちゃった。」
「ありがとう。」
ウズメ先輩は少し照れたように笑ってから、千歳へ視線を移しました。
「でも、あなたのお姉さんのおかげでもある。感謝だな。」
その言葉で、サクヤも千歳を見ます。
「お姉ちゃん、ウズメ先輩の舞を見てから、ちょっとおかしかったんです。」
「あら。」
気づかれていたことが意外だったのか、ウズメ先輩が苦笑しました。
「私も未熟だな。」
「そんなことない!」
サクヤはすぐに否定します。
「ウズメ先輩の舞、私、大好き。」
「じゃあ、やってみる?」
「え?」
「舞。」
サクヤの顔がぱっと変わりました。
「教えてくれるんですか!?」
「お姉さんのお礼に。」
「えー! お姉ちゃんの妹で本当に良かった!」
千歳は思わず突っ込みました。
「そこ?」
サクヤが湯へ入った瞬間、セヲ様とククリの首が同時に動きました。
二人の視線が落ちたのは、顔ではありません。
湯気が薄くなった一瞬、湯の上に出ている胸元の肌へ、ほとんど同時に目が止まりました。
ウズメ先輩の胸元は、血色のいいピンク寄り。
サクヤは、それより淡い桜色。
セヲ様とククリは互いの胸元を一度見て、すぐサクヤとウズメ先輩へ視線を戻しました。
「ククリ。」
「はい。」
「これは作れる?」
「はい。肌色なら。」
「白山の妙薬、まだ手配できます?」
「早池峰の薬草も使えば、二か月くらいで。」
「いける?」
「たぶん。」
サクヤがきょとんとしました。
「何の話?」
セヲ様とククリは答えません。
喧嘩は、もう別の方向へ走り始めていました。




