第22話 誰が困る
翌日、セヲ様は祓いを始めませんでした。
「昨日、石からは外れたのに?」
千歳が聞くと、セヲ様は村へ下りながら答えました。
「だからよ。戻したものが残ってる。原因が見えないままもう一度やるのは、祓いじゃない。」
少し歩いてから、短く付け加えます。
「まだ。」
その一言のまま、アンジュがいなくなったら何が困るのかを一軒ずつ聞き始めました。
最初は舟を出している男です。
舟底を削りながら答えました。
「水が変わる前に言ってくれる。」
「何が変わる?」
「流れ。濁り。上から来るもの。」
次は子どもの母親。
魚を干す手を止めずに言いました。
「上流が危ない時、子どもを水辺へ行かせないで済む。」
年寄りは、家の前の石へ腰を下ろしたまま答えます。
「昔からいる。アンジュ様がいるなら大丈夫だと思える。」
最後に、祭祀を取りまとめる女。
祈りに使う小さな供え物を並べる手が止まりました。
「祈る先がなくなります。」
ククリが聞き返します。
「アンジュがいなくなるわけじゃありません。」
女は首を振りました。
「見えないなら、どこへ祈ればいいんです。」
その答えで、全員が黙りました。
夜、アンジュが自分から言いました。
「私も悪いね。」
「何が?」
「何でもやってきたから。」
できるからやった。
頼まれるから答えた。
いつの間にか、いない状態を誰も想像できなくなった。
「役に立つって、難しいね。」
その夜、焚き火のそばでククリが白山の話を始めました。
「白山では、オカミがいない場所から呼ぶことがありました。」
セヲ様が眉を上げます。
「どこから?」
「決まった岩です。割れ目があるものとか、水が抜けるところとか。」
「そこにオカミがいる?」
「いません。」
千歳も顔を上げました。
「いないのに?」
「そこからなら届くんです。」
ククリは焚き火の横へ一本の枝を置きました。
枝の先を指で押さえます。
「アンジュ先輩がここ。」
「先輩いらない。」
少し離れたところからアンジュが口を挟みました。
ククリが一度だけ目を瞬きます。
「……アンジュがここ。」
手元へ小さな石を一つ置きました。
「人がここ。」
「石のところへアンジュを移すの?」
「逆です。」
ククリは首を振りました。
「アンジュは、好きな場所にいていい。人の方に、届く場所を残します。」
千歳は枝と石を見ました。
「切るんじゃないんだ。」
「はい。つながりは残します。ただ、動けるように結び直します。」
セヲ様が少し考えてから言いました。
「括る、か。」
ククリは一度だけ目を瞬きました。
「その呼び方、嫌いじゃないです。」
セヲ様が枝と石を見比べました。
「窓口だけを決める。」
「はい。」
千歳は枝を見ました。
「座留めしてる時みたいに、ずっと水の様子が分かるの?」
ククリは、石を枝から少し離しました。
「同じにはなりません。座留めは土地に同化したまま。こちらは必要な時に道を開きます。」
「じゃあ、道を閉じてる間は?」
「その間に起きたことを、全部あとから受け取れるわけではありません。」
セヲ様が、ククリの石を指しました。
「だから住民も、自分たちで水を見続ける必要があるのね。」
「はい。アンジュに全部預ける仕組みにはしません。」
千歳は頷きました。
でも、石のどこをどうすれば必要な時に届くのかは、まだ分かりませんでした。
翌朝、セヲ様とククリは赤倉の方へ向かいました。
千歳たちも後を追います。
案内した地元の女は、途中から道らしい道を外れ、木立の間を上がっていきました。
「この辺りは大きな石が多い。」
斜面の先に、土から生えたような巨石がありました。
運んできて置ける大きさではありません。
地面へ根を下ろしたまま、ずっとそこにあったような石です。
ククリは、すぐには石へ触れませんでした。
一周して形を見たあとで、ようやく指を細い亀裂へ当てました。
重なった岩の隙間へ枝を差し、少し上から流した水がどこへ抜けるかを追っていきます。
千歳には、同じ石を右から見たり左から見たりしているようにしか見えません。
それでもククリは、角度を変えるたびに何かを一つずつ確かめていました。
何を見つけようとしているのか分からないまま待つ方が、千歳には難しかったです。
「何見てるの?」
「道です。」
「岩だけど。」
「だからです。」
セヲ様が笑いました。
「白山にもある?」
ククリは天然の亀裂へ指を置きました。
「似たものがあります。」
「オカミがいる場所?」
ククリは首を振ります。
「違います。そこにはいません。」
それから、巨石を見上げました。
「でも、届くんです。」
千歳には、岩の中へ細い色が入っていくように見えました。
石そのものが光っているわけではありません。
亀裂と、水の抜ける方向と、地面の奥へ続く色が、偶然ではない形で重なっていました。
「これを使う?」
セヲ様が聞きました。
「使えると思います。でも、先に聞きます。」
誰に、とは誰も聞きませんでした。
高みへ戻ると、ククリは石の輪の中にいるアンジュの前へ座りました。
「赤倉に、大きな岩がありました。」
「うん。」
「そこから、アンジュへ届くようにつないでいいですか?」
アンジュがククリを見て、満足そうに頷きました。
「うん。」
それからアンジュは、すぐには頷きませんでした。
「私が聞きたくない時は?」
セヲ様が先に言います。
「閉じられるようにする。」
ククリも頷きました。
「閉じられないなら、今と同じです。」
ククリは、アンジュの足元を囲む石を見て言いました。
「切断できない接続は、接続じゃありません。拘束です。」
アンジュが二人の顔を順番に見ました。
「じゃあ、お願い。」
ククリがようやく笑いました。
「はい。」




