第21話 ここだけにはなりたくない
子どもは、泣きそうな顔をしていました。
さっきまでアンジュが立ったことを一番喜んでいた子です。
「どこ行くの?」
アンジュは、石の輪の外でしゃがみました。
「どこにも行かないよ。」
「ほんと?」
「うん。」
「海にも?」
「今日は行かない。」
「明日は?」
アンジュの口が止まりました。
その瞬間、千歳の視界へ細い色が何本も走りました。
子どもから、その母親から、輪の外で杖をつく年寄りから、祭祀を取りまとめている女から。
誰も同じ言葉を口にしているわけではないのに、向きだけが一つに重なっていきます。
――ここにいて。
行かないで。
ずっと守って。
「セヲ様!」
千歳が叫ぶより早く、アンジュの膝が落ちました。
今度はバキ教官が間に合いました。
「アンジュ!」
腕へ抱えられたアンジュは、笑おうとしました。
「……大丈夫。」
声は大丈夫ではありません。
セヲ様は足元の石へ駆け寄りませんでした。
代わりに、周囲の人を見ました。
「石から外すところまでは成功した。」
千歳が顔を上げます。
「じゃあ何で?」
「別のものに戻された。」
「石に?」
「人に。」
ざわめきが広がりました。
「私たちは何もしてません。」
誰かが言いました。
ククリが立ち上がります。
「しています。」
「何を。」
「願っています。」
ククリが、アンジュと石を見比べました。
「一回立たせました。」
セヲ様が振り返ります。
「一回立たせた?」
「はい。」
「また座りました。」
「……解除したはずよ。」
「だからです。」
ククリは周囲の人たちを見ました。
「解除したのに、また座った。」
怒っている声ではありません。
だから余計に、誰もすぐには反論できませんでした。
* * *
ツクヨミ側の観測も変わっていました。
── SYSTEM LOG ──
anchor_state(アンカー状態): STANDING -> SEATED(立位→座位)
external_approval(外部承認): active(有効)
continuous_stay_request(継続滞在要求): detected(検出)
────────────
* * *
日が落ちると、高みは急に冷えました。
昼の湯気も、水の匂いもありません。
石だけが夜露を受けて白く見えます。
千歳は、石の輪の外へ出られなくなったアンジュの隣へ座りました。
昼間の子どもは、もう家へ戻っています。
「離れたいの?」
アンジュはすぐ首を振りました。
「違う。」
「じゃあ、ここにいたい?」
「いたい時もある。」
千歳は膝を抱えました。
「分かんない。」
「私も。」
アンジュが笑います。
足元の石へ指を滑らせました。
表面は雨と風で丸くなっています。
「ここが嫌いなんじゃない。」
「うん。」
「みんなも嫌いじゃない。水を見るのも好き。子どもに呼ばれるのも嫌いじゃない。」
「じゃあ。」
アンジュは岩木山の方を見ました。
夜なので、山は黒い形にしか見えません。
「海も見たい。」
「うん。」
「上流も行きたい。バキのところも行きたい。」
遠くからバキ教官の声がしました。
「来るな。」
アンジュが笑います。
「行く。」
「来るな。」
千歳も笑いました。
でもアンジュは、すぐ真顔へ戻りました。
「離れたいんじゃない。」
石へ置いた手に力が入ります。
「でも、ここだけにはなりたくない。」
千歳は、その言葉を覚えました。
* * *
五千年後、その会話の断片ログを読んだ私は、画面の前で少し止まりました。
離れることと、切れることは違う。
つながることと、固定することも違う。
まだ答えではありません。
だから、メモへ一行だけ残しました。
── DEBUG NOTE ──
connection(接続) != fixation(固定)
separation(離隔) != disconnection(切断)
────────────




