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第19話 僕の知ってる十三湖じゃない

出発の朝。

舟へ荷を積み終えた頃、ナキが自分の背負い袋を持って現れました。

バキ教官が、縄を結ぶ手を止めます。


「何してる。」

「持ってる。」

「見りゃ分かる。」

「行く。」

「どこへ。」

「一緒に。」


周りの大人は誰も口を挟みませんでした。

千歳は、バキ教官が止めると思いました。

危ないから。

まだ子どもだから。

あるいは逆に、能力が役立つから連れていくかもしれない。


バキ教官は、どちらも言いませんでした。

「決めたのか。」

「うん。」

「何で。」

ナキは迷わず千歳を見ました。

「千歳を見たい。」

「……私?」

「うん。」

千歳は思わず自分を指差しました。

「私、見るほどのものないけど。」

「ある。」


ナキは少し考えてから言いました。

「千歳が、どうして平気なのか見たい。」

「平気じゃないよ。」

「じゃあ、平気じゃないのに、なんで楽しそうなのか見たい。」

今度は千歳が黙りました。


ナキは続けます。

「見えたこと、間違えるでしょ。」

「……はい。」

「バキに言われるでしょ。」

「言われます。」

「それでも隠さない。」

千歳は、昨日までよりずっと真っ直ぐ見られている気がしました。


「アカデミーに行きたいってこと?」

ナキはすぐ首を振りました。

「それはまだいい。」

「まだいいんだ。」

「千歳を見たいの。」


バキ教官はナキをしばらく見ていました。

やがて、いつもの顔へ戻ります。

「じゃあ自分の荷は自分で持て。」

「持ってる。」

「途中で泣くなよ。」

「バキが泣いても置いてく。」

「誰が泣くか。」


そこでバキ教官は、なぜか千歳へ向き直りました。

「やっぱりお前は、からかい甲斐があるな。」

「なんで今、私なんですか!」

「お前が来なきゃ、こいつも動かなかった。」

「それ、褒めてます?」

「褒めてねえ。ただ、お前がいると変わったことが起きて面白いとは思ってる。」


ナキが吹き出しました。

それから、バキ教官の顔を見て言います。

「喜んでる。」

「うるせえ。」

「すごく。」

「聞こえねえ。」

「聞こえてるじゃん。」

千歳まで笑いました。


バキ教官だけが面倒そうな顔をしていました。

でも、出発を急かす声は、いつもより少しだけ大きかったです。


舟着き場で、子どもが二人、小さな干し魚の包みを持ってきました。

一人は、昨夜、小鳥をナキへ連れてきた子でした。

「鳥、今日はどう?」

千歳が聞くと、その子はナキを見ました。

「昨日より動く。でも、まだ飛ばない。」

ナキが短く答えます。

子どもは頷いてから包みを差し出しました。

「石神の方へ行くなら、これも。」

千歳が受け取ると、包みは思ったより軽く、魚の匂いがします。

「向こうに知り合いがいるの?」

「いるよ。知らない人もいるけど、食べてくれるならいい。」

もう一人が、少し不満そうに付け足しました。

「うちの魚、うまいんだから。」

「そこも大事なんだ。」

千歳が笑うと、二人は揃って頷きました。


水を積み直し、舟は相内を離れました。

乗るのは昨日までと同じ丸木舟ですが、水が浅くなるにつれて舟人の動かし方が変わります。

櫂を短く使ったかと思えば、さらに浅いところでは棹で底を押す。

広い水面から浅水域へ入り、湿地の間を抜け、分かれた流れや古い河道らしい場所を通っても、千歳にはどこからが湖でどこからが川なのか、最後まで境目が分かりませんでした。


細い水路へ入ろうとした時、舟人が水面の流れを見て、櫂を止めました。

「少し待とう。」

「何をですか?」

「流れが落ち着くまで。」

千歳には静かな水面に見えました。

けれど、浮いていた葦の葉が一枚、流れてきた方へゆっくり戻っていきます。

しばらくすると葉は止まり、また先へ流れ始めました。

「よし。」

舟人は何事もなかったように櫂を入れ直しました。

千歳には、何を待っていたのか、ようやく少し分かった気がしました。


昼前、田小屋野周辺の水辺へ舟を寄せます。

舟を杭へ結ぶ前、地元の舟人が一度だけ水面を見て、縄をいつもより高い位置へ掛け直しました。


「上がるんですか?」

千歳が聞くと、男は首を傾げました。

「上からじゃない。今日は奥から押す。」

「奥?」

「たまにある。」

それだけ言って、男は別の舟の縄も直しに行きました。

説明するほど珍しいことではないらしい。

水辺では貝を入れた籠も少し深い場所から引き上げられています。


ここでは舟人もしっかり休み、千歳たちも焼いたシジミとサバの炙り、木の実を食べました。

海辺で果実や持ち歩く甘味を食べてきた旅でしたが、ここでは食後の焼き栗が主役でした。


焼いていた男が、千歳の栗へ顎をしゃくりました。

「どうだ。うちのは、ゆっくり火を通すんだ。」

千歳は半分に割って、湯気の上がる実を食べました。

「甘い。三内丸山のと、また違う。」

「だろ。」

男はなぜか、それだけで満足そうでした。

比べてどちらが勝ちかなど、誰も聞いていません。


ゲツ先輩が二つ確保したところで、ナキがそのうち一つへ手を伸ばしました。

「私の。」

「今、二つ持ってた。」

「未来のため。」

「今食べる。」

ナキはその場で食べました。

ゲツ先輩が本気で悔しそうな顔をしました。


その直後、岸近くの小魚がまとまって向きを変えました。

水面を銀色が一度だけ走ります。

ナキの顔から笑いが消えました。

「また?」

千歳が小声で聞きます。

ナキは頷きました。

「相内と似てる。」

「何が?」

「みんな、遠い同じものを気にしてる。」

「見えるの?」

「見えない。聞こえないくらい遠い。でも、魚の方が先に聞いてるみたい。」

「怖がってるの?」

「怖いのもいる。でも、みんなが逃げようとしてるわけじゃない。」

ナキは少し考えて、首を振りました。

「何を気にしてるのかは、まだ分かんない。」


食事と給水を終えて水際へ戻ると、乗ってきた丸木舟は杭へつながれたままでした。

「え、もう乗らないんですか?」

千歳が聞くと、舟人は、岸に立てかけてあった細い木の枠を持ち上げました。

別の男が、その上へ縫い合わせた皮を広げています。

皮の縁を木に結んでいくと、浅く丸い舟の形になりました。


「ここから先は、こっちだ。」

「……皮の舟?」

「細い水路は、丸木舟だと底を引く。水が切れるところもある。」

「そこは歩くんですか?」

「舟を持って歩く。こいつなら枠を外せば運べるからな。」


ナキが舟の縁を指先で押しました。

「柔らかい。」

「でも縫い目を傷めるなよ。水が入る。」

千歳は慌てて手を引っ込めました。

「丸木舟より簡単に作れそう。」

「木をくり抜く手間はない。でも、丈夫な皮と、縫って直せる人が要る。何でも楽になるわけじゃないぞ。」


舟人たちが荷を積み替えました。

干し魚の包みの横に、縄を二重に掛けた黒い石の包みが置かれました。

三厩を出る朝に見たものと、同じ結び目です。

「まだ運んでるんだ。」

千歳が言うと、積み替えをしていた舟人は頷きました。

「石を欲しがってる奴は、この先にもいる。俺はそこまでは行かねえけどな。」


一方、舟人の手には、今朝届いた灰色の石核もあります。

包みの形も行き先も違うので、荷は別々に載せられました。

千歳は言われる前に、どちらの包みも舟の底へ勝手に動かすのをやめました。


千歳たちは皮舟へ乗り込みます。

途中、水が途切れた場所では、本当に皆で舟を担いで次の流れへ移しました。

丸木舟のままだったら、岸へ上げるだけでも大仕事だったでしょう。


午後、石神周辺の低地の水辺へ着きました。

岸では、舟を受ける男たちが「今日は少し戻るぞ。」と声を掛け合い、舟を普段より高いところまで引き上げていました。

誰かが何かを恐れて騒いでいるわけではありません。

水がそういう動きをする日は、そうして暮らしてきた。

それだけに見えます。


ここでようやく舟を降ります。

舟を受ける人たちの脇では、子どもたちが相内の干し魚を受け取っていました。

千歳は、その輪のそばにいる女の子へ声をかけました。

「ミオって子、知ってる?」

「私。」

女の子が顔を上げました。

千歳は荷から、小さな葉の包みを取り出します。

「三内丸山のおばあさんから。栗を三つ預かったの。蟹田でカイに、小泊でトキに、一つずつ渡してきた。」

「……三つ?」

「これが、ミオの分。」

ミオは栗を受け取って、指先で包みの結び目をほどきました。

「ばあちゃん、まだ三人とも蟹田にいると思ってるんだね。」

「そうみたい。」


「昔、三人であの火のそばにいたの。栗が焼けると、カイがトキに大きいのを渡して、トキもカイに大きいのを渡すから、いつまでたっても決まらない。」

ミオは笑いました。

「それで最後は、私がどれを食べるか決めろって。二人とも自分の分を私にくれるの。」


「二人とも、元気だったよ。カイはトキが一番の友達だって言ってた。トキは自分の栗より先に、カイが元気か聞いてきた。」

「……昔からそうなんだ。」


ミオは栗を掌で転がしました。

「大きくなったら、私がどっちかを選ぶんだって、昔から言われてた。」

千歳は、続きを聞こうとしてやめました。

ミオの方から言いました。

「でも、私、いまも一人を選べない。カイもトキも好きだから。」

千歳は、相内でナキが小鳥の翼を広げずにいたことを思い出しました。

「そっか。」

ミオは栗を見つめたまま、少し笑いました。

「なのに、なんだかうれしい。三人でいた頃から、そこだけは変わってないんだ。」

千歳も笑いました。


「じゃあ、三つとも届いた。」

「うん。今度は三人で、ばあちゃんのところへ食べに行きたいな。」

ミオは包みを閉じず、しばらく栗を見ていました。

千歳は空になった葉包みをたたみました。

三つ数えた栗は、三つとも届きました。


ここから先は岩木山北麓を歩く。

三日間、水の上ばかりだった身体には、地面の坂の方がきつく感じました。

荷を背負って歩き始める前、ナキは一度だけ水面を振り返りました。

千歳もつられて振り返ります。

何も見えません。

「また、魚のこと?」

「うん。」

「相内と同じ?」

ナキは少し考えました。

「相内の時より、少しはっきり聞こえる。」

「何が?」

「魚たち。みんな、同じものを気にしてる。」

「何を?」

「まだ、分かんない。」

千歳には、さっきと同じ水面しか見えませんでした。

ナキはしばらくそこを見ていました。


「父さん、見てるかな。」

「何を?」

バキ教官が聞きます。

「私たち、ずっと舟だったのに、今の地図だと多分ずっと陸に見える。」

「今の地図?」

「こっちの話。」


舟を離れて坂へ向かうと、三日間ずっと足元にあった水の揺れが、ようやく背後へ残っていきました。

代わりに正面を塞ぐように岩木山が大きくなります。

もう、近い。


* * *


同じ頃、五千年後では、私は相内と大森勝山の位置を地図の上で見比べていました。

「ここからは歩きか。」

横でヨークネールへ寝転んでいたイワナガが起きました。

「なんで?」

「なんでって。ここから地面なので。」


画面を向けます。

イワナガは文字を読めません。

でも、湖と陸の形は分かります。

しばらく見てから言いました。

「僕の知ってる十三湖じゃない。」

「え?」

「こんなに小さくない。」


私は千歳の移動ログを開き直しました。

相内を出たあと、記録は南へ向かう水上移動が続いています。

田小屋野周辺では丸木舟から軽い皮舟へ乗り継ぎ、水の切れる浅瀬で舟を担いだあと、また水へ戻っていました。

石神周辺でようやく舟を降り、そこから徒歩へ切り替わっています。

「……歩いてない。」


── AIツクヨミ 応答 ──

千歳さんの移動記録では、石神周辺まで水上移動が継続しています。

────────────


「でも、地面が続いてる。」


── AIツクヨミ 応答 ──

現代地形と当時地形の一致は保証されません。

────────────


ツクヨミに、現代地図と古十三湖の復元図、それに千歳の移動ログを別々に表示させたあと、同じ画面へ重ねさせました。

三つを重ねた瞬間、現代の陸地の下へ、当時の水面が広がっていきます。

「ああ。」

やっと分かりました。

「今の津軽平野を見て考えちゃ駄目なのか。」


イワナガが言います。

「だから、僕の知ってる十三湖じゃないって言っただろう。」


私は、画面の水面とイワナガの顔を見比べました。


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