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第16話 湖なのか、川なのか

昼前、小泊・坊主沢方面の浜へ舟を寄せました。

砂浜へ上がった瞬間、千歳は足を伸ばしました。

二日目になると、舟から降りた時にどこが痛くなるかまで分かってきます。


昼食は昨日の陸奥湾側とは明らかに違いました。

イカを開いて少し乾かし、火の上で炙ったもの。

ヒラメの身。

海藻。

運が良かったらしいマグロ。

貝もありますが、昨日とは種類が違います。

千歳は炙ったイカを噛みました。


近くでイカを干していた女が、干し網の端を千歳に持たせました。

「そこ、風が通るように上げて。重ねると乾き方が違うんだ。」


千歳が持ち上げると、潮の匂いが顔へ来ました。

「この浜のイカは、ちょっとだけ干すのがいい。噛むほど味が出る。」

女は胸を張りました。

「相内の子らにも、毎年これを持っていくのさ。」

「食べてもらいたいから?」

「そりゃそうだよ。こっちだって、あそこのシジミが楽しみだもの。」


千歳は、もう一口噛みました。

確かに、すぐ飲み込むのはもったいない味でした。

「これ、絶対五千年後にもある。」

「また未来の食べ物判定?」

ククリが聞きます。

「これは残ります。残ってほしい。」

「願望になってる。」


その女が、網の向こうへ声をかけました。

「トキ! そっちのイカを裏返しておくれ!」

千歳は顔を上げました。

「トキ?」

網の間から、干しかけのイカを載せた板を持つ男の子が出てきます。

「何?」

「三内丸山から、栗を預かってるの。」

トキの目が丸くなりました。

「ばあちゃんの?」

「うん。蟹田でカイに一つ渡した。残りは二つ。」

「カイ、元気だった?」

自分の栗より先に、カイのことを聞きました。

千歳が頷くと、トキは嬉しそうに笑ってから、ようやく包みを受け取ります。


「カイはさ、なんでも先に俺に譲るんだ。栗だって、いつも大きい方をこっちによこす。」

「仲がいいんだね。」

「一番の友達だから。」


トキは少し考えて、声を小さくしました。

「ミオも、俺とカイの友達。大きくなったら、俺をミオに選んでほしい。」

「カイもそう言ってた。」

「知ってる。」

トキは干し網のイカを一枚ずつ裏返しました。

「ミオに会ったらさ。カイは三人で何か分ける時、いつも自分のを最後にしてたって言っといて。」

「ライバルのいいところ、教えちゃうの?」

「本当のことだろ。」

「もしミオがカイを選んだら?」

「悔しいよ。」

トキは一枚持ち上げて、乾き具合を確かめました。

「でも、あいつらが来たら、一番うまいの焼いてやる。」

「トキはそれでいいの?」

「よくない。俺のイカが一番うまいってことも、ミオに言っといて。」

「どっちなの!」

「どっちも!」

二人で笑うと、干し網の女も笑いました。

トキは自分が干したイカを一包み、相内へ向かう荷の上へ置きました。

「こっちも、向こうの子らに食べてもらって。」

千歳の手元には、ミオへ届ける最後の栗が一つ残りました。


食後には、その時季に採れる小さなベリーが籠ごと回ってきました。

赤いもの、紫がかったもの、まだ少し酸っぱそうなもの。

その脇には焼き栗もあります。

セヲ様とククリが、いちばん色の濃い実へ同時に手を伸ばして、互いを見ました。

「先輩からどうぞ。」

「後輩に譲ります。」

「温泉で負けを認めた人が?」

「それとこれは別です。」

二人とも手を引かないので、結局その実は半分ずつになりました。


口に入れた瞬間、二人そろって眉を寄せます。

「酸っぱい。」

「先輩が譲らないからです。」

「あなたもです。」

千歳は笑いながら別の赤い実を取りました。

こちらはちゃんと甘かったです。

舟人たちは休憩の間に日本海側の風を確かめています。


昼食が終わる頃、千歳たちの水袋も満たされていました。

午後。

舟はさらに南へ向かいます。

やがて外海の波が弱くなり、砂州の向こうへ大きな水面が開きました。

古十三湖です。

千歳は思わず身を乗り出しました。

「湖……?」

舟人は答えませんでした。

その理由は、すぐに分かりました。


古十三湖へ入っても、舟は替えませんでした。

外海で使っていた同じ丸木舟です。

ただ、舟人の身体の使い方が変わります。

広い水面では深く入れていた櫂を、浅くなるにつれて短く使う。

さらに浅い場所へ入ると、櫂を置いて長い棹で底を押す。

「舟、替えないんですね。」

千歳が言うと、舟人が不思議そうに首を傾げました。

「替える必要あるか?」

ありませんでした。

水面は少しずつ浅くなり、葦が増え、湿地が近づきます。

流れは一本になったかと思えばまた分かれ、岸だと思った場所の向こうにもう一枚水面が見えました。

「今、湖?」

「水だ。」

バキ教官が答えます。

「それは分かってる。」

「じゃあ十分だ。」

千歳には全然十分ではありません。


夕方、相内へ着きました。

相内へ入ると、バキ教官の歩き方が変わりました。

舟を降りたあと、湿った道が二つに分かれます。

誰も案内していないのに、バキ教官は迷わず左へ曲がりました。

「ここ、知ってるんだ。」

「知ってる。」

「詳しい?」

「まあな。」

「故郷?」

「うるさい。」


集落は水辺に沿って細長く続いていました。

舟を伏せて乾かしている場所。

魚を裂いて干している棚。

子どもが浅い水路へ足を入れて何かを探している。

バキ教官が通ると、作業の手が次々止まりました。

「バキ!」

「戻ったのか!」

「ナミは?」

少し離れた水辺から、年配の女がもう一つ声を飛ばしました。

「アラハバキ! 北の舟着き場、昨日から浅いぞ!」

千歳はバキ教官を見ました。

「アラハバキって、教官の名前?」

「仕事だ。」

「名前じゃないの?」

「広い境を見て、人と道をつなぐ役目の呼び名だ。俺自身の名前とは別だ。」

また一つ、名前だと思っていたものが役割へ戻りました。


最後だけ、返事が一拍遅れました。

「今回は来てねえ。」

千歳は横顔を見ました。

「今、ちょっと残念そうでした?」

「黙れ。」


千歳は小泊で預かったイカの包みを、舟着き場の子どもたちへ渡しました。

「今年も来た!」

「トキが干したのも入ってるよ。」

「本当? あいつ、今年は上手になった?」

千歳が頷くと、子どもたちは包みを掲げて走っていきました。

ここでも、誰かが自分の分を待っていたらしい。


そこへ、もっと速いものが飛んできます。

「バキ!」

細い道を駆けてきた少女でした。

「待て。飛びつくな。」

飛びつきました。

「だから言っただろ!」

「言うの遅い!」

「早かった!」

少女はバキ教官の首にぶら下がったまま、千歳たちを順番に見ました。

千歳のところで、一度だけ目が止まります。


「こいつ、ナキサワメ。俺の姪。」

少女は自分で言い直しました。

「ナキでいい。」

千歳も手を上げました。

「私千歳。初めまして、ナキ。」


ナキはその手より、千歳の顔を少し長く見ました。

何かを感じたようにも見えます。

でも、何も言いませんでした。


* * *


夕食前の舟着き場では、千歳も貝を洗うのを手伝いました。

水へ籠を沈めると、底に細かな砂が落ちていきます。

隣では、到着した荷の受け渡しがまだ続いていました。


別の舟から来た男が黒曜石をいくつか並べると、向かいの女は布に包んだ緑の石を取り出しました。

磨かれた翡翠でした。

女はその石を横へ置き、黒曜石の割れた面を一つずつ確かめます。

「この緑の石を目安にするなら、去年は黒い石がもう一つあったよ。干し魚を三包みじゃ多い。」

「でも、刃はよく取れるぞ。」

「それはいい。じゃあ二包みでどう?」

男が頷くと、黒曜石と干し魚の包み二つが互いの手へ渡りました。

翡翠は女の布へ戻ります。

「緑の石は渡さないんですか?」

千歳が聞くと、女は笑いました。

「今日は比べただけ。あれを受け渡す話なら、また別だよ。」

誰も黒曜石と翡翠を同じ物だとは言いませんでした。

何と釣り合うかは、石を見て、話して、決めるらしい。


千歳は貝の籠を揺すりすぎて、隣の子に手を止められました。

「貝、逃げるよ。」

「すみません。」

貝は逃げません。

千歳の方が、話を聞くのに夢中になっていました。


この日の夕食は、古十三湖のヤマトシジミを使った土器煮でした。

火にかけた土器の中で殻が開くたび、汁の匂いが強くなります。


昼のイカを思い出しながら汁を飲むと、貝を洗っていた子が千歳の顔を覗き込みました。

「どう?」

「おいしい。すごく。」

「でしょ。ここのシジミなんだよ。」

自分が採ったわけでもないのに、子どもは誇らしそうでした。

魚も焼かれます。

食べ終わる頃には甘い果実が籠で回り、そのあと小さな器へ、果実を発酵させた少し酸味のある飲み物が注がれました。

ここまでの旅で食べた甘味とは、また全然違います。

千歳は一口飲んで顔をしかめました。

「大人の味?」

「子どもでも飲むぞ。」

「じゃあ私の問題か。」

ナミなら笑いそうだな、とバキ教官が小さく言いました。

千歳は聞き逃しませんでした。

「今、ナミ教官のこと考えた?」

「考えてねえ。」

「言いましたよね?」

「うるさい。」


食べ終わった殻を集めていた年寄りが、水辺を一度見ました。

「今日は、魚が岸へ寄らんな。」

近くの子どもが、水路を覗き込みます。

「また?」

「山の向こうの水が寝返ったんだろ。」

誰も驚きませんでした。

舟を伏せていた男が、明日の網を少し深い場所へ移しただけです。

千歳も水路を覗きました。

風も波も、さっきと同じに見えます。

魚だけが、先に何かに気づいたようでした。

理由を聞く人もいません。

そういう日はそうするものらしい。


ナキだけが、食べていた果実を持ったまま水面を見ていました。

「どうしたの?」

千歳が聞くと、ナキはしばらく耳を澄ますように黙ってから言いました。

「魚が、みんな同じ方を気にしてる。」

「何がいるの?」

「分かんない。遠い。」

それ以上は言いませんでした。

水面には何も見えません。

相内の人たちも、見えない何かを探す様子はありませんでした。

明日の網を少し動かし、舟の縄を一本増やして、それでいつもの夜へ戻っていきます。


二日目の夜は、シジミの殻を踏まないよう気をつけながら更けていきました。


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