第15話 竜飛
平舘海峡を抜ける頃には、日がかなり傾いていました。
一日中、舟の底から伝わっていた小さな揺れが、岸へ上がってからも足の裏に残っています。
千歳はまっすぐ歩いているつもりなのに、自分だけまだ舟に乗っている気がしました。
その日の旅は、三厩・宇鉄方面の水辺で終わりました。
舟人が岸へ上がると、翌日海へ出る人たちがすぐ舟底を確かめます。
割れはないか。
縄は緩んでいないか。
今日の舟が、そのまま明日の舟になる。
泊まり場では、夕食の火がもう起きていました。
干した魚を炙ったもの。
貝を入れた温かい汁。
昼より塩気の強い料理が多く、千歳は汁を一口飲んでから、やっと自分がかなり喉を渇かせていたことに気づきました。
「おいしい……」
「今日それ何回目?」
ククリが笑います。
「数えてません。」
「千歳なのに?」
「そういうのは数えなくていい。」
食事が落ち着くと、干した果実と潰した木の実を合わせ、手のひらに収まるくらいに固めた甘いものが回ってきました。
口へ入れると、最初に果実の甘酸っぱさが来て、あとから木の実の油気が残ります。
作った女が、千歳の掌に材料を少し置きました。
「一つ、丸めてごらん。」
千歳が握ると、指の間からぼろぼろ落ちます。
女が二回ほど指を動かすと、同じ材料がきれいな塊になりました。
「……何が違うんですか?」
「力を入れすぎ。海へ出る人は片手で食べたいだろ。こっちの浜じゃ、こうするんだ。」
女は出来た塊を葉に包み、舟人の荷へ入れました。
「竜飛の先の人にも、食べてもらってね。」
ゲツ先輩が、千歳の崩れた甘味を見ています。
「その失敗したやつ、私が食べようか。」
「失敗してません。まだ途中です。」
「これ、明日の分もあるの?」
千歳が聞くと、舟人が包んだ葉をいくつか示しました。
「海じゃ、腹が減ってから火は起こせねえからな。」
携えて食べるための甘味らしい。
ゲツ先輩は自分の分を食べ終える前から、包みの数を数えていました。
「ゲツ先輩、それ明日の分ですよ。」
「確認してるだけ。」
「目が食べる人の目なんですけど。」
ゲツ先輩は、千歳の荷の横にある二つの葉包みへも目をやりました。
「そっちの栗は?」
「預かりもの。二つとも、食べませんよ。」
「私、まだ何も言ってない。」
「顔が言ってます。」
ゲツ先輩は笑って、今度こそ甘味だけを口へ入れました。
甘味を少しずつ噛みながら、ゲツ先輩が明日の海を聞きます。
「明日は海の外側?」
「竜飛を回る。」
バキ教官が答えました。
「そこから日本海側だ。」
「荒れる?」
「荒れる時はな。」
「明日は?」
バキ教官は舟人を見ます。
舟人は火の向こうで、肩をすくめました。
「明日になれば分かる。」
千歳は寝床へ入ってからも、波の音を聞いていました。
一日中舟に乗っていたのに、明日もまだ舟です。
でも、不思議と嫌ではありませんでした。
二日目の朝は、焼いた魚と木の実、それに昨夜受け取った携行用の甘味から始まりました。
干した果実と木の実を固めた小さな塊を、千歳が最後に一つ取ろうとした瞬間、ゲツ先輩の手と重なります。
二人とも止まりました。
「年下に譲るという美徳があります。」
「旅人に年齢は関係ないよ。」
「先輩ですよね?」
「甘味の前では対等。」
結局、半分ずつになりました。
昨日は泊まり場で食べたものを、今日は舟へ持っていく。
千歳は葉に包まれた残りを荷へ入れてから、ようやくそれが旅の食べ物なのだと実感しました。
舟を出す前、年配の舟人が、縄を二重に掛けた小さな包みを次の舟人へ渡しました。
包みの端から、黒い石の鋭い面が見えます。
「黒曜石?」
「そう。刃にする石だ。」
「どこから運んできたんですか?」
「俺は昨日、この浜で預かっただけ。次の浜へ持っていくのは、こいつ。」
男は隣の舟人を顎で示しました。
「石はずっと旅してるのに、運ぶ人は替わるんだ。」
「俺だって、帰って飯を食わなきゃな。」
ごもっともです。
千歳は、包みの縄の結び目だけを覚えておきました。
三厩・宇鉄を出た舟が竜飛へ近づくと、海が急に荒れたわけでもないのに、舟人たちの空気が変わりました。
それまで岸や荷へ散っていた視線が遠くへ揃い、櫂を入れる間隔まで自然に同じになります。
誰かが指示したわけでもないのに、話し声も少なくなりました。
「低く。」
短い声が飛び、全員が自然に腰を落としました。
千歳が岬を見ようと身体を起こすと、バキ教官に肩を押されます。
「見るなら座って見ろ。」
「見たいの分かってるなら押さえないで。」
「落ちたら拾うの俺だ。」
「そこは助けてよ。」
竜飛を回る。
海の向こうには、別の陸地がかすんでいました。
ゲツ先輩は珍しく静かです。
「どうしたの?」
「境目だから。」
「何の?」
「いろいろ。」
それ以上は言いません。
岬を回ると、今度は日本海側を南へ進みます。
同じ海の続きなのに、岸の形も、風の当たり方も、舟の揺れ方も違いました。
地図なら一本の線でつながる場所です。
舟の上では、全然同じではありませんでした。




