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第10話 千歳なのに

千歳の身体で目を覚ましたイワナガヒメは、その後の検査で大きな異常が見つからず、退院しました。

青森の病室を出て、私たちは埼玉の自宅へ戻りました。

氷川神社からそう遠くない、千歳がずっと暮らしてきた家です。

「おかえり、千歳。良かった、ホントに良かった。」

出迎えた妻は、イワナガヒメを抱き寄せて、涙を流してました。

私も妻につられて泣いていました。

ところが、その直後。


「千歳の父、この人誰?」

千歳の口から、また千歳が絶対に言わない台詞が飛び出してきました。


私も妻も、一瞬言葉を失いました。

先に口を開いたのは妻でした。

「そうだったわね。この人から聞いてます。初めましてイワナガヒメさん。私はこの人の妻、千歳の母、早苗です。」

「妻?母親のことをこっちではそう呼ぶの?」

「んー。妻っていうのは、この人の結婚相手ってことで、妻と母親は同じ人だけど役割が違うってことかしら。」

「なるほど。流石に母親は分かりやすく説明してくれる。男の話は分かりにくい。」

「面白いこと言うのね。でも、褒めてくれてありがとう。」

「こちらこそありがとう、お母さん。」

「うん、うん。さ、イワナガ、早く入って。」


やはり、女性のコミュスキルって高いことを実感しました。

一瞬で、このお互いの呼称を決めて、立場を把握する。

私はまだ、イワナガヒメとしか呼んでないし、お父さんとも呼ばれてません。

あとで、ちゃんと話し合う必要があるようです。


玄関へ入ったイワナガヒメ、もといイワナガは、靴箱を開けたと思ったら、そのまま台所へ向かい、冷蔵庫、テレビ、風呂、最後には千歳の部屋まで一つずつ覗いて回りました。

五千年後へ来たという事実そのものより、知らない道具が家中にあることの方が気になるらしい。

見慣れた家の中を、他人の目で点検されているのは妙な気分でした。


翌朝。

窓の外を、ランドセルの子どもたちが列になって歩いていました。

イワナガはしばらく見てから言いました。


「千歳が毎日通っていた場所、学校?見てみたいな。」


私は新聞を畳みました。

「見たい、ですか。」

「行ってみたい。」

「なぜ?」

「千歳が毎日行ってた場所なんだろう?」

即答でした。


断る理由なら、すぐに十個くらい浮かびます。

娘の身体です。

中にいるのは別人です。

同級生は千歳として接します。

本人の事情を全部説明するわけにもいかない。


「駄目?」

イワナガがこちらを見ました。

私は「駄目」と言いかけて、止めました。

「まず学校側に、必要な範囲で条件を整えてもらいます。医師にも通学して問題ないか確認します。」

「駄目って決めるんじゃなく?」

「行くって決めるのでもありません。行ける条件が揃うかを見ます。」


イワナガは窓枠へ指を置き、少し考えました。

「じゃあ、それを調べて。」

「はい。」

父親だから代わりに決める。

それを少しずつやめたいと思っていました。

でも、父親だから何もしない、でもありません。

たぶん、その間にしか答えはない。

イワナガはもう外へ目を戻していました。


「学校って、あの子たちが行ってるところ?」

「似たようなところです。」

「毎日?」

「だいたい。」

「五千年後も大変だね。」

「そこは否定しません。」


校門を入ったところで、イワナガは一度立ち止まりました。

朝の校舎は音が多い。

自転車のスタンドが跳ねる音。

上履きへ履き替える足音。

廊下から聞こえる笑い声。

放送室のスピーカーが一度だけ雑音を出す。


「人が多い。」

「三内丸山も多いでしょ。」

「集まり方が違う。」

私はそこまでしか付き添えませんでした。


* * *


教室の扉を開けるところから、イワナガは一人でした。

中へ入った瞬間、何人かの顔が上がりました。

「千歳!」

声をかけた女子が近づいてきます。

イワナガは一歩だけ止まりました。

名前は聞いてあります。

でも、顔と名前がまだ結びつかない。

「……香乃?」

「何その間。」

「確認した。」

「普通、確認しないでしょ。」

その返事だけで、周囲の数人が笑いました。


五分もしないうちに、視線の理由が変わりました。

休んでいた千歳が戻ってきた、ではなく。

千歳が変だ、へ。

担任がプリントを配りながら声をかけます。

「体調、大丈夫か?」

「大丈夫。」

「無理するなよ。」

「無理かどうかは、何をするかによる。」

教師の手が止まりました。

「……そうだな。」


隣の席で香乃が吹き出します。

「千歳、なんか変。」

「そう?」

「そう。あと『僕』って何。」

「僕は僕だから。」

机へ鞄を置く手は千歳です。

椅子を引く音も、千歳の身体から出ています。


でも、座った人だけが違います。

「前の千歳なら、そんな言い方しなかった。」

「前の千歳を僕は知らない。」

香乃の眉が寄りました。

イワナガはそれ以上説明しません。

嘘を足すより、言えないところで止める。

その止まり方まで、千歳とは違いました。


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