<EP_013> 動き出す空気
「……わかりません」
ポツリと呟く沢田に迫水は「そうか……」とだけ返しコーヒーを啜る。
「すみません……」
「いや、いいんだ。沢田くん、ちょっと昔話を聞いてくれるかな……」
迫水はカップを置くと、静かに話しはじめた。
「昔、あるサッカー選手がいたんだ。その選手はサッカーが大好きでね、社会人サッカー部に入部したんだ。キミほど上手ではなかったから、期待はされてなかったけどね」
迫水は少しだけ眉をハの字にする。
「入部一年目の練習中に彼は怪我をしたんだ。キミと同じ、前十字靭帯損傷の大怪我だ。彼は一年目を棒に振った。そして、再起をかけた二年目に入ろうとした時にサッカー部は廃部。リハビリ明けで期待されてなかった彼のサッカー選手としての人生はそこで終わった。移籍を打診してくれるチームはゼロ。つまり、彼のサッカー選手としての価値はゼロ円とされたんだ」
迫水は沢田に悟られぬよう、テーブルの下で右膝をさすった。
「その人はどうしたんです?」
「彼は社会人チーム所属だからね。そのまま、会社に残ってサラリーマンになったよ。世間ではJリーグが開幕し、サッカーバブルと言われ、日本はワールドカップに出場できるレベルにまでなった。彼と同世代の選手たちが華やかに世間を彩っていた時、彼はサラリーマンとして平凡な日常を生きていたんだ」
「そうですか……やはり、そうなりますよね……」
迫水の話に将来の自分を見て、沢田は力なくうなだれる。
「だが、彼は三十年経った後、やはり価値ゼロとみなされて地方へ飛ばされたんだ」
迫水は深く瞑目すると、再び俯いた沢田を見つめた。
「沢田くん。人に価値を認められて、必要とされることって凄く幸運なことなんだ。そして、キミのサッカー選手としての価値は今はゼロ円だ。私たちは、キミのサッカー選手としての価値を見出しているし、それを証明する場所を与える準備がある」
迫水の視線を受け止められず、沢田は視線をテーブルの端へと逃がす。
良く磨かれたテーブルには、自分のみすぼらしい顔が映っていた。
「キミが『わからない』と答えた問いの答えは、ピッチ上でしか見つけられない。そして、それを見つけられる場所を与える用意もある。どうだろう、沢田くん」
「オレは……オレは……」
「すぐに決める必要はないよ。キミの人生だ。じっくり考えてくれ。今日は急に来てすまなかったね。何も食べてないけど大丈夫?何か食べるかい?」
沢田は俯いたまま頭を振った。
「じゃ、帰ろうか」
タクシーを待つ間も、タクシーの中でも二人を沈黙が包んでいた。
迫水から話しかけることはなかったし、沢田から話しかけてくることもない。
家に着くと迫水は沢田を降ろす。
「あ、あの……どうして俺なんですか?」
「必要だからだよ。ジャガーズには沢田亮介が必要なんだ。だから私はここまで来た。良い返事を待ってるから」
沢田の問いに答えるとドアを閉める。
タクシーと渡された名刺を交互に見ながら、玄関前に佇み、タクシーが見えなくなると家へと入った。
二階へ上がり、名刺をテーブルの上へと置く。
締め切っていたカーテンを開け、ジャージへと着替え、階下に降りる。
ランニングシューズを履こうと靴紐を結んでいると、奥から母親が顔を出した。
「あら、どこか出かけるの?」
「少し走ってくるよ」
「そう……気をつけてね」
母親にそう告げ、玄関を出る。
一月の日差しが沢田の顔を刺した。
日差しを遮るように手を上げると、指の間から陽光が漏れていた。
拳を握り太陽を隠すと、前を向いて走り出す。
アスファルトを蹴ると、身体を包んでいた冷たい空気が動き出した。




