第1話(4)
「この会社、もう無理です」
黒井は椅子にもたれ、乾いた声で言った。
窓の外は、少し白み始めていた。
鳥の声が聞こえる。
徹夜明けの朝はいつだって世界が自分を置いて先に進んでいく気がする。
黒井はアリッタの目をつかい、プログラムの歪みを片っ端から探し出して無数のバグについて詳細状況と対応方針を書きなぐっていた。
既存のバグについて修正方法がわかったことは大きな前進だが、新しいバグもみつかったことでいくつもの修正手戻りも見えてしまい、黒井はまたしても絶望の中にいた。
「あと三日、いやもう二日しかない。おわった」
天を仰ぎ今にも椅子からひっくり返りそうな黒井を、アリッタはベットに腰かけて眺めていた。
仕方のないやつだとでも言いたげな表情だ。
「テルオ、戦場でも同じだ。勝てぬ戦は存在する」
「ですよね」
「だが」
アリッタは顔を上げた。
「敗北する軍には、必ず理由がある」
「…… 理由?」
「まず確認する。この戦の勝利条件は何だ?」
「え?」
黒井は瞬きをした。
「勝利条件?」
「戦う前に勝利条件を決めぬ軍など存在しないさ」
アリッタの声音は静かだったが、断定の強さがあった。
「いくら局所的な戦いで敵を退けたとて、本来の目的を果たせなければそれは敗北だ。お前が守ろうとしている三日という期限は何のための期限だ? 達成すれば何を得る」
「えっと…… 納期ですから……」
「うむ」
「無事にシステムが動いて、お客様の業務が問題なく回り始めることです。そうして、うちの会社は報酬と、次の仕事を得る機会を――」
アリッタはすぐに頷いた。
「目的は報酬と顧客の信頼だ。そしてそのために必要なのは、顧客の仕事が止まらぬこと」
「はい」
「ならば答えは出ている」
アリッタは大量のバグ報告が並ぶ画面を指で叩いた。
「重要なのは、三日以内にすべての問題を潰すことではない。納期までに『顧客の仕事が無事回る状態』を得ることだ」
「…… あ」
黒井は、そこで初めて自分が何を見失っていたのか理解した。
目の前のバグ一覧、未完了タスク、修正依頼。
そのすべてを均等に相手にしようとしていた。だが本当に必要なのは全部ではない。
顧客の業務を止める致命傷をふさぐことが最優先、多少不便でも業務が回ればそれは致命傷にはならないのだ。
「まずはトリアージだ」
アリッタは当然のように命じた。
「業務を回すために必要な機能だけを定義しろ。その動作を阻む問題だけを抽出し、人的資源をそこへ集中させる」
「人的資源って……」
「いるのだろう、テルオと同じく現状にもがいている仲間や上役が」
「まあ、一応は」
「ならば起こせ。戦時に眠っている兵は叩き起こすものだ」
「……ふはっ!寝てるかはどうかな」
「目をつぶって現状を見ないなら、同じことさ」
それはそうかもしれないが、と黒井は思った。
思ったが、アリッタの言葉には不思議と逆らいにくい。
むしろ、従えば状況が前に進む気がして、目の前の問題がさっきよりも小さく見えた。
「残る問題は段階的に解消する前提でよい。回避可能なものは運用回避手順としてまとめ、顧客との折衝役に渡せ」
「営業に…… ですか」
「外交官であろう?」
「まあ、そういう見方もできますけど」
「回避不能なものは別途検討にあげるため、業務影響度と代替手順を明らかにして報告。まずはバグ野郎を叩きのめす順番を明らかにする! かかれ!」
最後の一喝が、妙に胸に刺さった。
黒井は反射的に背筋を伸ばし、マウスを握り直す。
まず手元の設計資料から業務フローを確認。
最低限必要な画面を絞り込み、それに使用されるクラスやAPIを特定。
先ほど追記・追加したバグ詳細報告をもとに、文字列検索でバグの位置を確認し影響範囲を想定してグルーピング。
管理画面の一部装飾や通知メールの軽微な不具合は後回しでいい。
あれば便利な機能でも、既存機能と運用で目的を果たせるなら後回しだ。
頭の中で、ぐちゃぐちゃだったものが線で繋がっていく。
プロジェクトに濃くまとわりついていた霧が晴れていく。
「…… いけるかもしれない」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「自ら敵を大きくする、新兵にありがちなミスだな。重要なのは本質をとらえることだ。そうすれば、やるべきことが理解できる」
「いや、無理ですよ普通」
「……普通か」
アリッタは涼しい顔で言った。
「それは便利な言い訳だな、覚えておこう」
黒井は苦笑しつつ、社内チャットを開いた。
オンラインの同僚を片っ端から捕まえる。
休んでいる先輩にも上司にも連絡を入れる。
本プロジェクトの対応方針について今日中に相談したいと言いながら、まとめた方針を添付する。
ダメ元でとは思ったが、こんな早朝にもかかわらず1つ、また1つとサムズアップのスタンプが返ってくる。
その中には、リーダー高橋のスタンプもあった。
「これは失敬、寝てはいなかったようだな」
「…… みんな意外と真面目なところがありますから。こんな状況でも、敵を前に逃げ出さないくらいはね」
少しだけ、黒井は自身の心が軽くなったのを感じた。
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すべての会議が終わり、黒井がようやく自宅の椅子に沈み込んだのは夜だった。
「…… 助かりました」
部屋に戻ってきて、黒井はぽつりと言った。
アリッタはカップ麺の蓋を器用に開けながら、首を傾げる。
「何がだ」
「いや、全部です。仕事もそうですけど…… あんなふうに考えたこと、なかったから」
「そうか」
それだけ言って、彼女は湯気の立つ麺を見下ろした。
フォークの使い方すら気品を漂わせ、器用に麺を巻いていく。
しばらく無言でいると、アリッタがふと思い出したように言った。
「弱い人間はどうするのか、と聞いたな」
「え、はい」
「徒党を組むのだ」
黒井は椅子の背もたれに体重を預けながら、顔だけをアリッタへと向ける。
「信頼できる仲間、補い合える仲間とな。完璧な人間などいない。独りの弱さは強くなる以外にも解決できる」
「今回みたいに、ですか」
「うむ、まぁ今回は人海戦術的な側面も否定はできないがな。それでも自分にはできないことを人に頼ることもあっただろう」
「それは、たしかにそうですね」
「テルオ一人では成しえないことを成せるのがチームだ」
アリッタは小さく頷いた。
「私は魔物の牙に倒れたが、それでも仲間が民を守り切っただろうことに疑いはない。テルオも信頼できる仲間を見つけられるといいな」
「はい…… でも、自信はないです」
つい言ってしまった。
黒井の声は情けないくらい弱かった。
アリッタという傑物を前に、自分の無力さを実感した故だった。
「ふむ、まぁその理由は明らかだろう」
「えっ、それは」
「信頼されるに足る武器をもっているという自覚がないからだ。この領域は任せろと、胸を張って言える何かをな」
「……」
(たしかに、多少のコードは書ける。いくつかの言語も触れるし、これをやれと言われればある程度には対応できると思う。でもそれだけだ、自分でなければならない領域なんてあるはずもない。どこにでも、僕の上位互換は居る気がする)
黒井はふと学生時代を思い出していた。
クラスでも浮き、だれにも頼られなかった自分、うっすらと気を使われていた自分。
それは居場所ではなく、間借りした仮の置き場所とでもいうべき感覚。
(自分がこんなブラック企業から抜け出さないのも、多分どこかで誰にも必要とされないんじゃないかって不安があったせいだ。逃げだす勇気すらなかった、ここ以外で生きていける自信がなかったから)
アリッタは沈黙から何かを察したのか、自身の目線をカップ麺から黒井に合わせる。
そして、口に入れようとしていた麺とフォークをそのままゆっくりスープの中に戻した。
「だれにでも新兵の頃はある」
アリッタは、きっぱりと言った。
「武器なくして戦場に立てば不安にもなるだろう。それは現実が見えている証だ。無策のままでは仲間に迷惑をかけるし、時には命も落とす。だからこそ武器を持つために学ぶのだ。誰しもな」
「……」
「だから、不安を感じること自体に間違いはない。お前は正しい道を進んでいるよ」
その言葉を聞き、黒井は天井を見上げた。
(今の自分の不安、焦燥感、落胆、それらすべてが正しいのなら。誰もがこの道を通ってきたのなら──)
「現実が見えたら、後はどう行動するかだけさ」
六畳一間の狭い部屋、散らかった机、コンビニの袋。
何一つ劇的には変わっていない。
なのに、自分の人生の輪郭だけが少し変わって見える。
アリッタは麺をすすり、真顔で呟いた。
「うまいな」
「カップ麺ですけど」
「この世界の兵站は優秀だ」
思わず、黒井は吹き出した。
その笑いは、何日ぶりか分からないほど自然なものだった。
戦場みたいな会社で、勝ち方も知らずに消耗していた自分の部屋に。
今、ひとりの女騎士がいる。
赤髪のポニーテール、褐色の肌、傷だらけの身体。
異世界から来た元騎士団長、アリッタ・レオーネ・ヴォルペ。
――この出会いが、自分の人生を大きく変えることになるのだと。
そのときの黒井は、まだ知らなかった。




