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第5話(2)

黒井は個室の会議室を一時間ほど予約していた。

直前の予定を確認して数分前に入室すると、すでに女性が一人、手前の席にちょこんと座っていた。


茶木まひる(ちゃきまひる)。


明るく短めの茶髪を高い位置で片側だけ結んだサイドテール。

身長は黒井の胸くらいまでしかない少女にも見えるかわいらしい女性だ。

いつも眩しすぎる早朝みたいな笑顔とそこから見える八重歯、高めのテンションが印象的で、黒井がまっさきに名前を覚えた新人も彼女だった。


(自己紹介では「チャッキって呼んでください!」と言ってたけど、女性経験に乏しい僕にはそんな勇気はないんだよなぁ)


「はやいね」

「五分前行動は大事っス!」


勢いよく返されて、黒井は少しだけ笑った。


---


「どうしていいか分かんないから聞きに行ったのに、『聞くな』って言われたらじゃあ何していいか分かんないっスよ。以下無限ループじゃん!」


着席するなり、茶木はそうまくしたてた。

黒井は一瞬苦い思い出が頭をよぎり苦笑する。


「まあ…… 僕にも覚えがあるよ。どんなタスクだったの?」

「バグの修正っス。修正が終わったら修正内容の提出…… えっと、プルリクエストを高橋さんに出せって言われてんですけど、渡されたバグ詳細チケットの内容が『この手順でボタン押すとエラー表示が出る』だけなんスよ」

「ああ、よくあるねそういうの」


とりあえず報告だけ先に上げるが、詳細を書くのは面倒なので後回し。

結果、中身がほぼ不明な解読待ちのバグチケットだけが残る。

形だけのバグ管理運用が生んだ暗号文章の生成ロジックだ。


「そうなんスよ! こんなん、何がどうなったら正しい状態なのかも分かんないし、コードのどこからエラー文が呼び出されてるかも分かんないし、何をどう調べたら直せるのかも分かんないっス! だから頼ったのにコレっスよ!」


彼女の主張はよく理解できた。


このプログラムは規模もそこそこ大きいし、仕様書もまともに残っていない。

実装経験を積んだ人間ならともかく、新人がゼロから当たりをつけてコードを読解したり、正しい動作を推測したり確認したりするのが難しいのは当然だ。


黒井にはやはり高橋が酷いように見える。

しかし、そこで黒井はアリッタの言葉を思い出した。


──相手に完璧を求めるな。

──まずは固定観念を外せ。


黒井は少し慎重に言葉を選びながら口を開いた。


「ありがとう。茶木さんが話してくれた内容を聞く限り、当然の疑問だと思った」

「そうっスよね! アタシ間違ってないっス!」

「うん。だから多分、高橋も同じことを思いそうだなって」

「え~…… そうっスかねぇ」


なるべく否定しない。

敵意や疑いの目をみせず、個人の敵を作らない。

的になるのは、人ではない何かになってもらえばだれも傷つかない。

そういう会話の仕方なら、黒井には慣れたものだった。


「多分ね。高橋が茶木さんが考えていたことまで理解していたら、また違った反応をしたかもしれない。よければ何て言って質問したか教えてよ」

「えーっと…… 『このバグチケットの内容じゃ何も分からなかったので、何していいか教えてください』みたいな」


黒井は小さく頷いた。


「…… なるほど、なるほどなぁ」


高橋が何に反応して怒鳴ったのか、黒井にもわかるような気がした。


茶木がどういう経緯で高橋に質問しに行ったのか、彼女なりに考えての結果だろうことは落ち着いて話を聞けば想像できる。

だが、茶木が言った一言だけを聞けば、彼女が何をどこまで考えていたのかは見えるはずもない。

むしろ、何も考えずに仕事を丸投げで突き返してきた人間のように見るのが妥当だろう。


(『わからなかったら聞け』の言外には、『自ら考えた結果』といういう高橋にとって言うまでもない前提が含まれている。だけど、話している感じ茶木もそれくらいは肌で感じていたようにも見えるな。なら──)


「やっぱり、正しく伝わってなかったっぽいね。多分高橋は、茶木さんがタスクを受け取って何も考えず、努力もせず、いきなり突き返してきたように見えたんじゃないかな」

「え~!アタシが悪いっスかぁ」

「想像力や前提の差による誤解だよ。どっちが悪いとかじゃなくて、コミュニケーションではよくある事故なんじゃないかな」

「んー…… じゃあ、どう言えば良かったんス?」

「おっと、たしかに…… ちょっとまとめる時間ちょうだい」


黒井は、アリッタの面接を思い出す。


問題解決能力を持つ社員とは、どのように具体化されるのか。

現状分析、理想、ギャップの抽出。

まずはそれをやってみよう。


「…… 人が怒る理由って、何かを受け入れられない時だと思うんだ」

「ほぇー。黒井センパイはそんなふうに考えるんスね」

「最近ちょっと、声荒げちゃったことを思い出したら何となくね」

「わは、黒井センパイも怒るんだーぁー。えー? 何で? 何があったんですか!?」

「まあまあ、それはまたそのうち、何かの席で」


茶木は身を乗り出したまま、「んー」と唸る。


「でも、たしかに言われてみたらそうかもしんないス。アタシも怒る時って、嫌だなって時とか、何でこんなことするんだろって思った時とか、一言言ってやりたいって時かも」


高橋が単に疲れて機嫌が悪かった、という可能性ももちろんある。

黒井自身も、自分にそういう言葉が向けられた時には考えたことだ。

だが固定観念を外して新卒の頃からの高橋を振り返ってみれば、黒井には高橋が新卒の後輩をストレスの捌け口にしたとは思えなかった。


(ま、自分の反省はいったん棚に上げておこう)


今は黒井自身のことよりも目の前の後輩のための時間だと、黒井は理解していた。


「この場合の『受け入れられないこと』っていうのは、仕事に向き合う上で高橋が考える正解があって、それと大きく乖離してることだ。その正解って、分かる?」

「即答はムリっス。…… でも、仕事をまかせる相手っていったら全部一人で完結したら文句はないんじゃないっスかね」

「お、同意だ。じゃあそれってどんな人かな。何にも書かれてないバグチケットを見て、何も分からない時、どう振る舞う人?」

「うーん……」


珍しく黙り込む茶木。


(正直僕もわかってないんだけどね)


自身の中で答えが出るまで考えようかとも思った黒井だったが、その間に会議室で沈黙が流れることも耐えがたかった。


(それに、口に出して情報を整理した方が妥当な答えにたどり着ける気もする)


そう考え、黒井は話を続けることにした。


「多分、茶木さんは無意識でもやってたと思うよ」

「そうなんスか?」

「うん。僕が思うに、仕事ができるようになる人って、目的地に至るまでに必要なものと、それをどう集めればいいかが分かる人だと思う」

「むむ、もっと詳しく教えてください」


(いや、教えるっていうか一緒に考えてるっていうか……)


後輩の前で困っている姿を見せるわけにもいかない。

急速に思考を整理し、順序だてて組み立てる。


(結論は後回しでいい、道を間違えなければ結論も正しくなってるはずだ)


「今回で言えば、バグの修正を行ってプルリクを高橋に提出することが目的地だ。それには何が必要?」

「えっと、バグを修正することっスか」

「いいね。じゃあそのためには何が必要かな。どういう流れになると思う?」


これについても回答は難しいだろう。

少し悩むのを確認したら説明してしまおう。


そう考えた黒井が口を開きかけた時、割り込むようにして茶木が声を発する。


「えー……まずバグの位置と内容の特定。それには正常な動作が何なのかと、コードの動きを理解することが必要っス。あとはどうやって修正するか思いつけば、直せると思いまス」


黒井は素直に驚いた。

目の前の後輩は、もっと頼りなく弱い存在なのだと勝手に思っていた。

しかしこうして会話してみると、思った以上にしっかり現状が見えている。


(……というか、自分が新卒の頃と比べると──)


黒井はその先を考えるのをやめた。

今は自分の世界に入る時じゃない。


同時に、アリッタに言われたことを思い出す。


──相手に興味を持ち、褒めてやれ。


「すごいな! もう全部分かってるじゃない」

「え? そうっスかね。へへ、でもこんなこといつも考えながらやってるわけじゃないっスから。なんとなく今黒井センパイのやり方を見て学ばせてもらっているというか」

「いや、正直本当に驚いてるんだ。感覚だとしてもちゃんと理解していなきゃこんなにしっかり出てこないよ」

「いやいやそんなー、言い過ぎでスよーぉー」


(よし! いい感じだ!)


彼女はいつも彼女なりに職場であることを意識して喋っているようだが、たまに素の感情がでると独特な語尾の伸ばし方をする。

それを黒井はこの短い時間で見抜いていた。

いつも他人の表情を見て生きて来た黒井の、過剰に気をつかってしまう悲しい習性のたまものだった。


「それにアタシが何もわかってないから高橋さんを怒らせちゃったわけで──」

「そんなことないよ。それに、もしこうやって話さなかったら、茶木さんの魅力的なところなんて全然知らないままだったんだろうなって思うと、もっと早く会話しておけば良かったって思──」


話す内容を考えるのに必死だった黒井だが、ふと顔を上げると茶木の眉毛がハの字に下がっていることに気が付いた。

困ったような表情の笑顔、それをみて黒井はつい黙ってしまった。


(何か良くないこと言ったか!? 傷つけてしまった!?)


焦って別の話題を探そうとしたが、茶木の瞳に灯った光が少しゆがんでいて言葉に詰まる。

それを察してか、茶木のほうがその口を開いてくれた。


「あざっス……! アタシも黒井センパイとおしゃべりできでよかったっス! ……実はちょっと落ち込んでたとこもあったんで」


茶木は両手で目元を隠しながら、小さく呟いた。


「柄じゃないんですけどね」


(まずいまずい、泣かせるつもりでは! ……話の流れを変えないと!)


「は、はは、そうかな」

「そうっスよ。陸上部ではこれでもムードメーカーで通ってたんスから」


(──ここだ!)


「あ、へぇ~! 陸上部だったんだ。たしかにらしいかもなぁ! 何の競技をやってたの?」


いつもよりも無理をして語尾を上げる。

空気を変えねばと黒井が考え思いついた工夫はこの程度だった。


「え? あー、えっと! 百メートルハードルと、走り幅跳びとか三段跳びとか、あと棒を使ったり使わなかったりする高跳びもっスね!」


しかし、以外にも既に茶木の目は元の輝きを取り戻していた。


(いやどういうこと!?)


あまりにも早すぎる立ち直りに黒井のほうが面を食らってしまう。


(しかし、これはチャンス!)


黒井はとにかく会話を広げに行くことを選んだ。

湿っぽいシリアスな空気は耐えがたいからである。


「めっちゃ跳んでるね」

「へへ、アタシ体力測定だと反復横跳びとか好きなんスよ! なんか、空中にいる一瞬のふわって感じが気持ちよくて。走る時も、地面をガッガッて蹴るっていうより、飛んでる感覚の方が好きで。でも普通に百メートルだとこの身長じゃストライド走法なんかムリじゃないスか! だったらハードルの方が気持ちよく走れるかなって──」


(よーしセーフ!持ち直した!)


窮地をしのぎ安心した黒井に自然と笑みがこぼれる。

そんな普段見せない表情をみせた黒井を見て、茶木はハッと我に返った。


「わ、わ、すみません! 仕事中に!」

「いやいや、いいんだ。好きなこと喋る時って、テンション上がるよね。僕もそうだなぁって」

「うへへ、そうっスよね。皆んなそうっスよね!」


(それに全然仕事とは関係ないけど、こうして誰かがハマってるものを目の前で語られると、ちょっと興味は出てくるなぁ)


黒井にとって陸上競技というのはほとんど未知の世界だった。

何せ生まれてこの方、体育で三以上を取ったことがない。

進んで運動をしたこともなければ、興味もなかった。

黒井にとって運動とは、体力消費の大きい強制労働でしかなかった。


しかし大学生、そして社会人と歳を重ねるにつれて、運動とはとんと無縁になってきた今日この頃、体の軋みも気になってきた。

体を動かすというのも、心地よく感じられることがあるのかもしれない。


かわいい後輩がハマっているものだ。

先輩として知っておくのも悪くないだろう。


そんなふうに、運動というものへ少し前向きになったがゆえの言葉だった。


「なんだか、もっと知りたいなって思ったよ」

「……へ!?」


茶木は目を丸くし、頬を上気させた。

口元を手で隠したり、髪の毛をいじったり、振る舞いから少し落ち着きが削がれていることが黒井にも分かった。


「……あ、あぁいやそんな! えへ、なんかこちらこそあざっス! そう言ってもらえて嬉しいでス! ……うへへ」


そんな彼女の様子を見て、テンションの上がった自分を見られるのは恥ずかしいものだよな、と黒井は受け取った。


人間の会話とは、言葉足らずや聞き手の誤解ですれ違うことばかりである。

黒井の何の気なしの言葉は、茶木には異なって伝わっていた。


これは後に二人の関係へ大きく影響することになるが、それはまた別のお話。

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