(八)アボリの神様
翌日。ソウと黒影が招かれたのは、曲屋の中に併設された小さな工房だった。そこには、お面ではなく、簪や重箱などの工芸品が置かれ、ジッタが里の職人業を辞めてからもずっと手仕事をしていたことがうかがえる。
この工房に入る前――ずいぶんと早朝のことだった――ジッタはソウを連れ出した。これには、暇を持て余した黒影もついてきた。
まだ夜明けを迎えていない山中のひらけた場所へ案内され、まず目に入ったのは、中心の大岩だ。それ囲むように、いくつかの地味な石が円形に並べられ、さらに石と石の間に線を引くように縄が架け渡されていた。
ジッタはソウへ、その中に入って大岩へ向かって〈雷撃〉を放つように指示し、ソウもそれに従った。これは何度かおこなわれ、その時々でいくつか条件がつけられた。はじめはふだんと変わらない状態で。猫面を腰に提げ、魔導武具によって雷撃を放った。そのあとに、魔導武具を置いた状態、猫面を外した状態、魔導武具だけの状態……と続き、雷撃の強さも細かく指示された。途中、ちからいっぱいにと指示を受けたときはさすがにためらったが、ジッタが言うには、この円形に並べられた石とそれらを繋ぐ縄、そして中央の大岩が、魔導を防いでくれると聞かなかった。
とうてい信じられるはなしではなかったものの、渋々やってみれば、雷撃は縄を超えることもなく、また稲光が振りおろす暴力は大岩がいくらか吸収した。結果的には、轟音が天地を揺らがせたていどで――それでも、ソウとしてはかなりひやひやしていた――白の境界線で一帯を荒野にしてしまったときのようなことは起こらずにすんだ。
こういったことを何回もくりかえしたが、ジッタのまなざしはどのときも鋭い眼光をたずさえており、いずれも真剣だった。ソウは雷撃を放ちながら、自分がなにか大きな視線に……たとえば、それこそ山のような大きななにかに見られているような感覚でいた。あとになって、その違和感の正体に気がついた。ジッタはただ雷撃を見ていたのではなく、もっと広い範囲でその事象に連なって動く魔素の流れを観察していた。その常人とはかけ離れた観察が、ソウに違和感を与えていた。一歩引いたところから見ていた黒影は、ジッタに対しても「気色悪い」と言いたげに、顔をしかめていた。
山を降りるころには夜明けを迎えていて、ミツとナギが朝食を仕立ててくれていた。炊きたてのごはんに、やや塩辛い芋煮と漬物が人数分用意され、全員で食卓を囲んだ。よくよく咀嚼してからジッタが言ったことは、ソウのお面についてだった。
いわく、いまのままだとソウの身体への負担が大きいのだという。それは、ソウがふつう以上のチカラを持っていることが原因で、猫面の加護がいいように発揮されていないという。そのせいで、魔導武具を手離した状態だと異常な気持ちの悪さや失神が起きるのだと。
ジッタは、猫面が魔導を制御する袋のような役割をしていて、異常なチカラのせいでその口が必要以上に閉ざされてしまっているのだとたとえた。いっぽうで、魔導武具は筒のような役割をしているため、猫面をつけていても〈雷撃〉を放つことに支障がないのだろう、と。奇しくも、猫面と魔導武具は互いを補うように働いていた。
里に伝わるお面は本来、身に着ける人に合わせて作られるものだが、ソウの場合はちがった。ジッタがソラに頼まれてつくったもので、ジッタ自身もどんな人間が身に着けるのかがわからずに難儀したそうだ。けっきょく、里の者を基準に、平均的で汎用性が高いように仕立てたらしい。そこまで話して、ジッタはソウへ、猫面の調整をさせてほしいと申しでた。ソウとしては、これまで魔導の扱いに苦労していたこともあり、承諾した。このままでは、弟のもとに帰ることに一抹の不安があったことも事実だからだ。
その結果、こうして曲屋の工房へ招かれた。工房の手前は土間と同じようなたたき仕上げになっていて、水場の壁面には釘が打たれ、いくつもの刷毛が提げられている。奥には一段高い板間と作業用の座卓があり、なにに使うのかよくわからないヘラのようなものや、絵付け用の顔料、筆立てには、平筆から面相筆などが大小さまざまに見られた。ジッタは座卓へ向かってばらくの間、ソウからあずかった猫面をじぃっと見つめていた。外からはナギの声と、赤子のきゃっきゃとした笑い声が聞こえていた。ときおり、ミツの声もまざっている。
ややあって、ジッタは猫面を置いた。呼吸を思いだしたようにして長く息を吐き、座卓に手をつく。すぐ脇のたたきから見ていたソウは道を開けるように身を端へ寄せた。足を悪くしているジッタの視線が、その緩慢な動作がはじまるより早く戸棚のほうへ向いていたからだ。
ジッタは片足を引きずるように戸棚へ向かった。朱色の小皿や竹串、紙片……いくつかの道具をとりだして座卓へ。また戸棚へ向かって、今度は上の桐箱を二つ引きだすと、節くれた手でほこりをはらった。板間へもどると、さきほどと同じようにゆっくりとした動作で腰かけ、座卓へ向かう。
まずジッタがひらいたのは桐箱だった。ひとつは細長いもので、なかにはぐるぐると布をまいたようなものが収められている。ジッタはそれを取りだして紐を解き、扱いはていねいに、しかし手早く座卓の上でひらききった。そこでようやく、ソウはそれが巻子本だと思いあたった。巻子本とは図書のなかでも古い装丁にあたるもので、書画を表装して軸に巻いたものだ。
見返しから本誌へ。紙面にはなにかの模様が描かれている。一見すると、雪の結晶のようにも見えた。筆で描かれた細かい装飾のようなものは、どうやらなにかの文字らしい。となりで、黒影が「旧字か……?」と独り言のようにいった。
ジッタは細長い桐箱を座卓の下へよけると、もうひとつの桐箱を寄せた。今度は両手に乗るくらいのものだ。
蓋をひらくと、さしこんだ陽光を広げるように繻子織りの布が光沢を放つ。その中心でいっそう光を集めて輝くのは、繊細ないくつかの粒だ。氷のようにも見えたが、透きとおった輝きの中にまたちがう光がきらきらと反照している。
「こいば、アボリさまのご神木から賜ったもんばい」
「ずいぶんと気色悪いな」
黒影が眉間にしわを寄せた。
「アボリさまになんばいいよっとね!」
「小指ていどの石ころを敬う趣味はない」
「ばち当たりばい!」
二人のささいな問答を見かねてソウは「ツレがすみません」といちおうの謝罪を挟みながら、氷のような粒をしげしげと眺めた。奇麗だ、ということ以外は、とくべつ変わったもののようにも見えなかったが……もしかすると、黒影やジッタには自分に見えていないものが見えているのだろうか。
ジッタは竹串を使って粒をひと欠片つまむと、小皿へ乗せた。それを紙面の紋様――その右手側へ置いた。りん、と鈴の根が鳴ったのは、中央にソウの猫面が置かれたからだった。さらにジッタは、明け方山を降りる道中で拾ってきたいくつかの草花を奥から手前へとぐるり並べていく。外から響く赤子の笑い声とは対照的に、工房のなかはしんと静まり返っていた。
ジッタはすべての道具や素材をならべ終えると、手もとの土鈴を振った。残響が重なるほどの速さから始まり、ひときわ高い音を皮切りに今度は足もとをくゆらせるほど遅くなった。
つらなるように始まったのは唄……だろうか。その音は、たしかにジッタから発せられたものだったが、ふつうにしゃべったり、鼻歌をうたったりするのとはまったくちがい、丹田から通って頭蓋を打つようなふしぎな響きをもっていた。音階も独特だ。一朝一夕で真似をすることは、音楽や発声に親しみがあるか、そういった特殊な才能がないと難しいだろうな、とソウは考えた。――もしくは、そんなものがあってもとうていまねできるものではないのかもしれない。
直後、ソウは目を瞠った。書画の紋様にならべられたそれぞれから、細く光る糸が鎌首をもちあげるように、ふわふわゆらゆらと伸びはじめたからだ。光の糸は、粒子だった。小さく、細かく、いくつもあり、それが連なっているから、光の糸が伸び泳いでいるように見えている。となりの黒影もまた、言葉を忘れたように見入っていた。彼女はいくらか無駄に色のないくちびるを動かしてから、ようやく「魔素が」とだけ発した。鋭敏な彼女には、もっと仔細になにが起こっているのかわかるのだろう。
光の粒子たちは豊かな曲線を自然と描いて、中空でたわむれるように重なってゆく。まるで織物が編みこまれていくさまを見ているようだった。重なった光の粒子はそのうちに中心へ――ソウの猫面へ流れをつくり、その周囲を対流しながらすいこまれていく。まさにいま、自分は引き起こされた現象そのものではなく〈魔導〉と呼ばれるものを目にしているのだと直観したが、これがいったいどんな原理で起こっているのか、説明する言葉も知識もソウはもちあわせていなかった。
猫面は青白く輝き、紅色はいっそう艶をはなった。細かく揺れた鈴が、りりりりりり、とせわしなく音を立てている。その音すらも、ジッタの唄と調和しているように感じられる。
聴いていると、唄は言葉のつらなりであり意味をもっているもののようだと気がついた。古い言葉だったが、かろうじて意味は拾える。民話、のようなものだろうか。ひととき我を忘れていた黒影もまた、その唄が意味のある言葉を紡いでいることに気がついたらしい。ソウは古めかしい言い回しを咀嚼するため、頭の中でわかりやすく語訳していった。
――……。
【一】
昔々、あるところに。
嫌われものの一族がいました。ご先祖さまが悪いことをしたから、その子孫も悪者だと思われていたのです。ほかの人たちと仲良くしたくても、ご先祖さまのせいで、友達もできません。みんなからも、いじめられます。彼らには街のどこにも居場所がありませんでした。
「どうして、ご先祖さまのせいで、なんにも悪くない自分たちが、いつも悲しい思いをしなければいけないんだろう」
悲しみに暮れた彼らは、他の誰も来ないような、うんと北の、うんと寒い山の、ずっと深い森の中で暮らすことにしました。
「ここなら、もういじめられたりしない」
そうして、一族のみんなで平和に暮らします。山の暮らしは大変でしたが、みんなで仲良く協力できたので、なんてことはありません。
ある日のことでした。
村へ、二人の青年が、一晩泊めてほしいと訪れます。その二人は、アボリの神様でしたが、上手に人間のフリをしていたので、村のみんなは気がつきません。
神様のうち、ひとりは〈アイ〉と名乗り、黒髪で小柄でした。
もう一人は、〈イナサ〉と名乗り、アイよりも若い雰囲気でしたが、背はうんと高く、やさしい顔をしていました。
――……。
「〈アイ〉と〈イナサ〉……?」
黒影が確認するように呟いた。
「それって、この前君が調べてるって言ってた……」
ソウが訊ねると、黒影はうなずいた。
――……。
村のみんなは、こう言って追い返しました。
「ここはわたしたちの里だ。出ていけ!」
「そうだそうだ!」
二人の青年は、なにも言わず、そのままどこかへ行ってしまいました。
【二】
アイとイナサは、そのあとも度々、村へ訪れました。毎日のように顔を見せることもあれば、数ヶ月以上、ぱったり姿を見せないこともありました。
気まぐれに現れるアイは、いつも笑顔で村人たちに話しかけてきます。イナサはそれを見守りながら、ときおり、そっと微笑むのでした。
二人の青年は、おかしなことに一族の悪口を言ったり、さげすむような目で見たりしません。村のみんなはそれがとても不思議でした。
ある人は言います。
「もしかしたら、街は変わっているのかもしれない」
またある人は言います。
「いいや、きっとなにか企んでるにちがいない」
村のみんなは、アイとイナサが村へ来るたびに、疑いの目を向けました。なにか悪さをしないように、交代で見張ったのです。ところが、アイもイナサも、村のみんなを手伝ったり、話をしたりするだけで、とくべつ、なにか悪いことをするようすがありません。アイはお話が上手で、子どもも大人も笑わせてくれます。イナサはアイに比べると静かでしたが、とてもやさしく、いろんなことをていねいに教えてくれました。二人の青年は、しだいに村の人気者になっていったのです。
【三】
ある日、村で大変なことが起こります。畑で育てていた作物が、次から次へと枯れてしまうのです。
「これでは、冬が越せない」
村のみんなは、頭を抱えます。
いつものように村へ来たアイとイナサは、畑を見るなり「これはいけない」と顔色を変えて帰ってしまいました。
村のみんなは、
「ほらみろ。やっぱり薄情者だ」
と、彼らを非難します。
ところが、数日後。二人は大きな荷物を抱えて、もどってきたのです。その中には冬のあいだ食べられるものもたくさん入っていました。
村のみんなはおどろきました。どうしてもどってきたのかを訊ねると、アイは笑って言いました。
「だって。見捨てられないよ。もう家族みたいなものなのに」
村のみんなは、もっとおどろきました。
アイは畑へ向くと、みんなが見たこともないような道具をとりだしました。みんながなにをしているのかと訊ねると、畑がこれ以上枯れないようにすると言いだしたのです。アイの目は、とても真剣でした。
イナサはなにも言いませんでしたが、土まみれになりながら、一生懸命にアイを手伝います。
村のみんなは思いました。
「わたしたちは、いったいなにをしているんだろう」
こんなに一生懸命になってくれる人を、疑うなんて。
そうして、ひとり、またひとりと、アイとイナサを手伝い始めます。
厳しい冬が過ぎ、春が訪れました。
枯れていた畑は、息をふきかえすように次々と芽吹いたのです!
神様が起こした奇跡でした。
みんなは、そうと知らずに喜びました。アイとイナサも、村のみんなと同じように喜びます。その日は、一晩中ずっと歌をうたい、みんなで踊り明かしました。
【四】
それから、どれくらい過ぎたでしょうか。
ある日、アイは村のみんなへ、たいへんな秘密を打ち明けました。
「これから、世界はたいへんなことになるかもしれない。だから、そうならないように、みんなに協力してほしいんだ」
アイといっしょに、イナサも頭を下げます。
村のみんなは、顔を見合わせました。
その晩、村のみんなは考えました。
――どうして、そんなことがわかるんだろう。
――協力って、なにをさせられるんだろう。
――やっぱり、だまされてるんじゃないだろうか。
けれどもこれまで、アイが村のみんなへひどいことをしたことはありません。畑が枯れたときだって、一生懸命になってくれた人たちが、いまさらだまそうとするだろうか。あんな真剣な眼をして言うのだから、よっぽど大事なことにちがいない。
みんなはうなずきましたが、それでも、やっぱり不安がぬぐえません。そんなとき、誰かが言いました。
「神様だ」
心がパァァと晴れるような気持ちになった村のみんなは、アイとイナサを信じることにしました。
「いいかい。みんな。あの二人は、神様なんだ。正体がバレてはいけないから、人の姿をして、人と同じ生活をしている。だから、わたしたちは、なにも知らないフリをするんだ。そうしないと、神様は帰ってしまうからね」
【五】
その日から、村はいろんなことが変わっていきます。まず、アイとイナサは村へ人を連れてきました。みんなは、外から来たその人のことを、神様の使者かなにかだろうと思いましたが、神様の秘密を守るためになにも言いませんでした。
神様の使者は、街の人たちのように、村のみんなをいじめたり、悪口をいったりしません。たくさんのものごとを知っていて、アイやイナサと同じように、村のみんなにやさしく、また、とても大事にしてくれました。誰かがケガをすると、あっという間に痛みをとってくれたり、子どもが病気をすると、どこからともなく不思議な薬をとりだして、すぐ直してくれます。
年月を重ねるごとに、畑の実りは豊かになっていきました。村では何人かの娘が、使者と結ばれ、子を産みました。村のみんなは、その子供たちを神の血筋をひく子だと思って、大事にしようと決めました。
アイはときどき、村の何人かを連れ出しては、数日間留守にしました。合わせて、イナサもついていきます。帰ってきたみんなは、口々に「夢のようだった」と話し、神様の世界でおいしいご飯を食べたことや、奇妙な形の寝床で、とてもよく眠ったことなどを話しました。
アイとイナサは、しばしばなにかを話していたそうですが、村のみんなには、よくわかりませんでした。きっと神様の世界の言葉なんだろうと思って、誰も気にしませんでした。
【六】
あるときのことでした。村の子どもが言いました。
「ねぇ、どうしてアイは歳をとるの? 神様なのに」
村の大人たちは、ぎょっとしました。あわてて子どもの口を塞ぎましたが、もう遅かったのです。
その日以来、アイとイナサは、ぱったりと村へ来なくなりました。いままでにも、そういったことは何回かあったので、村のみんなは、きっとそうだろうと言いきかせて、毎日を過ごします。みんな不安でした。何日も、何日も待ちました。
それでも、アイとイナサは姿を見せませんでした。
何ヶ月か過ぎたある日のこと。
ドン、と世界が大きく揺れました。びっくりするほど、激しい揺れでした。揺れはすぐにおさまりましたが、みんなで建てた家はぺちゃんこになってしまいました。山の雪はすべり落ちて、そびえたつ立派な山の形も、大きく変わってしまいます。村のみんなは、大変なことだと思いました。
それから、さらに奇妙なことが起こります。
神さまの使者の血を引いた子どもたちの、そのまた子供が、真っ白になって産まれてくるのです。その子たちは寿命が短く、すぐに死んでしまうのでした。それどころか、畑の作物までもが、白くなって枯れていくのです。動物も、森の樹々も、どんどん白く変わっていきます。村のみんなは、ゾッとしました。
一族は、神様の怒りに触れてしまったのです。
村のみんなは、必死になって懺悔します。
ごめんなさい。どうか許してください。お願いです。
それでも、世界はどんどん白くなり、子どもたちも次々と死んでしまうのでした。
【七】
ある日のことでした。
ふらりと、一人の青年が訪れました。イナサでした。
村のみんなは、泣きながら赦しを乞います。
どうか、どうかお願いです。せめて子供だけでも、助けてください。罪はわたしたちが背負います。どうかお願いです。
イナサは首を振りました。そして、アイが死んでしまったことを、うつろな目をして告げたのです。
泣き縋る村のみんなへ、イナサは小さな苗木をさしだしました。アボリの苗木でした。その樹は、氷のように冷たく透き通っていました。
イナサは、アイがみんなのことを心配していたと言います。
神様は、怒っていなかったのです。それどころか、みんなのことを心配して、この苗木を渡すように言いつけたのだと話しました。
村のみんなは、アイのやさしさに涙を流しました。それと同時に、自分たちの罪を悟り、ひどく後悔しました。
イナサは、毎日アボリの苗木へ祈りを捧げるように言いつけ、去っていきました。
それからというもの、村人たちはアボリの苗木に毎日毎晩祈りを捧げました。何年も何年も、ずっと祈りました。樹はどんどん大きくなりました。
どれくらいの時間が過ぎたか、わかりません。何十年。何百年。もしくは、もっとたくさんの時間が過ぎたことでしょう。
ある日、山に緑が芽吹きます。
ぽつ、ぽつり。
緑はどんどん増えていきます。
ぽつ、ぽつ、ぽつり。
次第に花が増え、実がなり、山は豊かな緑をとりもどしました。こうして、ふたたび平和をとりもどした村には、もう、アイもイナサも訪れませんでした。
村のみんなは、すっかり大きくなったアボリの樹を神様だと思い、毎日感謝し、大事に大事にました。
姿が見えなくても、アボリの神様は、今もずっと見守ってくれているはずです。
めでたしめでたし。
――……。
ジッタの呼息がとぎれ、光は眠るようにうっすらと消えていった。そこにはもう光のたわむれもない。ソウはいくらかまばたきをしてみたものの、はじめと同じような光景があるだけだった。あれほどまばゆく光を集めていた猫面もあまり変わったようには見えない。――自分が目にしていたものはやっぱり嘘、もしくは、白昼夢だったんじゃないだろうか。
いつのまにか、外からナギや赤子の声はなくなっていた。代わりに、土間のほうから水音が渡り、まな板を小気味よく叩く音が響きはじめていた。
「さっきのは……」
「一族に伝わる唄ばい」
ジッタは簡潔に答えた。それは、しゃべる気がないというよりも、彼にとってはごくあたりまえのことだからこそ質問の意図がうまくつかめなかった、という印象だった。
「魔導をあつかう者のなかには、」
心ここにあらずと言ったようすで、黒影が呆然と言葉を発した。
「たとえば特定の文言によって超常現象を発現させる者もいる。これは、魔狩が魔導武具を起動させる場合にも使われている技術で、けっしてめずらしいことではない。もっとわかりやすく言うならば、一般労働者が始業の鐘で労働が始まることを直感的に理解しおのずと行動を開始するようなものだ。ようは、特定の象徴的なものごと――たとえば、音や行動など――に紐づけし、手順化された習慣的な手続きと同じで……」
黒影は一度言葉を切ると、我にかえったように頭を抱え首を振った。
「つまりは、いまジッタが唄ったすべてが、特定の現象を引き起こすものとして使われているということだ」
「もっとわかりやすくいうと?」
「言ってしまえば、口伝の魔導術式だ」
なるほど、とソウが感心するのをよそに、黒影は矢継早に「そんなことはどうでもいい」と話題を投げ捨てた。
「〈アイとイナサ〉とはなんだ。もっと詳しく教えろ」
勢いに気圧されたのか、ジッタはこまったようにうしろ頭を掻いた。
「俺さ、唄くらいしか知らんちゃ。里に行けば、蔵に巻物ちゃ、なんちゃあると思うばってん……余所者は入れてくれんばい」
「ではその〈アボリの樹〉はどこに」
矢継早に尋ねる彼女に対して、ジッタは面食らったように目をぱちぱちとしながら、
「それも、知らんばい」
とやや申し訳なさそうに答えた。
「アボリの樹は、里の者でも限られた人間しか、場所さ教えてもらえんと」
「なら」
黒影が懐からとりだしたのは、匂い袋だった。清涼な香りが、ほのかに広がる。細い指先が袋の口を開けて、作業台の上へ中身を転がした。
「なん……?!」
ジッタが、ずいと身をとりだして顔を近づける。陽の光をはっきりと、まばゆく反射させる金色の魔鉱石は中心部だけが黒い球形になっていて、それそのものが瞳のようにも見えた。
「こげんもん、見たこともなか……」
ジッタは目を見ひらいたまま、息も忘れたようにまじまじと金色の魔鉱石を見つめ続けた。ソウもまた、目を奪われていた。どこか温かく、懐かしいような。
「信じられん。魔鉱石のなかに、魔導術式が入っちょる……」
「なにかわかるか」黒影は訊ねた。
「中心の黒か石さ、魔鉱石じゃなか。どげんしてできたっちゃろ……」
ジッタは黒影を見あげ、触っていいかどうかを訊ねた。黒影がうなずくと、懐から手袋をとりだしてもちあげる。右から左。上からした。手もとで魔鉱石が動くたびに、きらきら、きらきらとまばゆく輝いた。ソウはそれを見ながら、黒影にたずねた。
「大事なものなの?」
「レヴドに託された」
「レヴドが」
ソウは、懐かしさの正体に気がついた。あの魔鉱石は、レウドのまなざしに宿る輪郭のはっきりした輝きによく似ている。
「レヴドは死にぎわに、〈アイとイナサ〉の元に置けと言った。墓なら、それでもかまわんと」
その横顔は、いつもと同じように見えた。眉間にシワを寄せ、口を一文字に引き結んだ、不機嫌そうな……。ソウは、目をしばたかせた。おやと思ったのは、黒いまなざしがはっきりと金色の輪郭を追っていたからだ。
「好きだったんだね」
「ただの重荷だ」
彼女はいっそう眉間のシワを深くしたが、それは不機嫌というよりも、むしろ沈思としていて、寂しげだった。黒影はそのあとも、ジッタへいくつか質問を投げかけた。アイとイナサの墓はどこにあるのか。あるいはそれらの逸話が他に残っているところはあるか。レヴドという名前は聞いたことがあるか……そのどれにも、ジッタは首を振った。里はあまり他との交流がないため、ほかの話は知らないこと。一族には、アイとイナサの墓所は伝わっておらず、またどこで亡くなったかもわからないこと。何度も言うように、ジッタが知っているのは里の職人たちに伝わる唄や技術だけで、伝承などに詳しくはないこと。
黒影の口数は、ジッタが答え首を振るごとにだんだんと減っていった。魔鉱石を匂い袋へ戻すころには、彼女はもうほとんどしゃべらなくなっていた。
やがて、昼食の支度ができたことを伝えにきたナギが、赤子を抱えたミツと共にひょっこりと顔を出したものの、黒影は入れ替わるようになにも言わず出ていってしまった。




