(五)田園
目下の目的は、魔導研究者〈白蠟〉の研究施設だ。ナギの案内で、ふもとの街へ向かうまでのあいだ。いつのまにか、夜もすがら、ソウのそばには黒影が寄るようになっていた。おおかた、山凍地方の夜が冷えるからだろうとは思ったが……ふしぎなことに、彼女の行動はそれだけが理由ではないような気がした。
夜半、ソウがきまってあの奇妙な症状に悩まされるたびに、彼女の手がなだめるように触れる。すると、それまで身体中を蝕んでいた痺れや圧迫感がスゥと凪いで消えていく。
さらに日が進むと、寝入りばなに彼女の骨ばった手へ頬を寄せるだけで、ソウはそのまま何も考えずに眠りへ落ちるようになった。夢にうなされることもなく、気がつけば朝になっていることもしばしばある。
どの日でも、朝になれば黒影はやはり定位置ともいえる部屋の隅や天幕の端にいて、いつも通り機嫌が悪そうな表情をしたまま離れた場所でツンとそっぽを向いている。それを見るたびに、夜に彼女が決まって手を貸してくれることが嘘ではないかと疑った。けれども、また夜になると、同じように彼女の気配がそばにある。まるで、憂いと慈しみをもっているかのように。
黄金色に染まった田園風景に挟まれた農村地帯を歩いていたとき、ソウはふと黒影の不可思議な行動について、ナギにこぼした。
ナギは「いまさら気づいたんですか」と意味ありげに笑う。ますます訳がわからずに首をかしげていると、さすがのナギもあきれたのか、眉をこまらせて、
「もう、ずっとですよ。魔幽大陸にいたころから」
と、言った。
「嘘でしょ」
思わず見かえす。
「本当ですよ。最近はとくに、ですけど」
言いながら、ナギは先を歩く黒影を見やった。ソウもまた、つられて彼女の背中を見つめる。
「ソウくんがうなされてるとき、黒影ちゃんはいつも、ずっとそばにいるんです」
「まさか」
視線を感じたのか、彼女は足を止めて視線を寄越した。ここ数日、ふもと街へ近づくにつれ、黒影は不機嫌さを増していたが、どうやらそれは、兄への用事を早く済ませてしまいたいという裏返しのようだった。
「なんだ」黒影はいらいらしたようすで言った。ソウは、その黒いまなざしを見つめた。いつもならとうぜんするはずの斟酌すら忘れて、彼女の真意をさがしてしまった。
いよいよ痺れを切らした黒影が「置いていくぞ」といらだたしげに言い放つ。ナギが苦笑した。
「ふだんがあれですからねぇ。ソウくんが思ってるよりも、黒影ちゃんは、周りを見てるんですよ」
「それはまぁ、知ってるけど……行動原理がわからないというか」
いまいち答えがつかめず、思案に耽ったそのときだった。
秋晴れの空を裂く悲鳴が響いた。
畑の向こう。森の口からほうほうのていで、いくらかの村民が逃げ出してきた。瞬間、口端をグンとあげた黒影がとびだしていく。――魔種だ。一歩遅れて、ソウは駆けだした。
「ミャマラットの群ればい!」
村民が叫んだと同時に、木々に停まっていた鳥がいっせいに空へ羽ばたき、白い毛玉がとびだしてきた。血の色を残す薄紅の丸い瞳がぐりぐりと動き、「ギィィッ!」と鼓膜をひっかくような不快な鳴き声をあげる。白い毛は逆立ち、針のようにピンと張ってふるえた。刹那、白亜へ影が落ちる。その首根っこへ黒い刀身が滑る。かたい針状の隙間へたがえることなく刺しこまれた曲線美は、そのまま頸椎ごと叩き斬った。
ゴロゴロ、ギィギィ。次から次へと、森から転がるようにして飛び出す健脚の魔種は、ミミズのような環形の尻尾をぬらりと光らせ、歯ぐきからとびだした長い歯を剥き出しにした。ソウはざっと状況を一瞥しながら、魔導武具を抜いて、優先順位の高いものから一匹ずつ処理をしていく。ミャマラットは通常、野山などに広く分布している齧歯類の魔種であり、大きくても手のひらていどのはずだ。地方の環境によっていくらか変わることもあるが――このあたりで、そういった話を聞いたことがない。なにか原因があるのだろうか。
「ははははははははっ!」
白色を獰猛に喰らう黒。噴きでた赤が、黄金の稲穂を濡らす。
ふいに、女の声がキャアと響いた。赤子を連れていた母親だった。ぎゅうと赤子を抱きしめる母親は、脚をガクガクと震わせながら、眼前の白を目いっぱいに見上げていた。恐怖で足がすくんで動けないのだろう。ソウは魔導武具で、進路上邪魔なミャマラットを最低限蹴散らして滑りこんだ。
ミャマラットが齧歯を剥きだしにしたとき、ソウはすでに、地を蹴っていた。たんと高く跳び、ミャマラットの頭上から丸い耳を越えて、片刃曲刀の尖端を深く突き立てる。静かに雷撃を放って、内側から焼き殺す。その場には、魔種の焦げた死体が転がった。
母親がその場にへたり込んださまを一瞥して、ソウはやや離れた黒影を見やった。向こうは黒影の独壇場となっていた。近隣住民は無事避難したようだから、残りの魔種はこのまま彼女に任せても問題ないだろう。刃に付着した血をはらって、曲刀をおさめた。そのときだった。
ドタバタとやけに大きな足音が響く。そちらを目視すると、必死な形相をした男がこちらへ駆けこんでくるのが見えた。脚はあまり速くないらしく、片膝が悪いのか身体の軸がぶれていて、不均等な走りかたをしていた。
「ミツゥゥゥゥゥゥウウ!!」
叫びながら母子の元へ駆けこんだ男は、六十前後といったところで、女とは親子の年齢ほど離れているように見える。だが、ミツと呼ばれた女のほうが「あなた」と声をあげたから、二人は夫婦だろうと、ソウは理解した。
「ケガは。ケガはなかね?」
「大丈夫よ。魔狩さんが、助けてくれたけん」
夫妻は同じような言葉訛りで話しながら、二人の視線がこちらへ向く。――どこかで聞いたことのある訛りだ。ソウはすぐに思いだした。マヌーゲルで会った、鉱山奴隷の少年と同じ訛りだ。きっと彼は、この周辺の生まれ育ちだったのだろう。そこまで考えたときだった。
「ソラ……?」
目を、見ひらく。なにか聞きまちがえただろうかと男を見てみれば、男もまたひどくうろたえたような、おどろいたような顔をしている。まるで、ソウがなんであるか仔細にとらえようとしているみたいだった。
「いや。ちがう。ソラじゃなか」
男は咽喉をふるわせながら、かすれた声で言った。
「あなたは、俺の母を知っているんですか?」
その瞬間、男の表情が変わった。そこには、うっすらと絶望が立ちこめたようでもある。徐々に視線が下がり、ふと、留まった。りん、と鈴の音が鳴く。男は、猫の面を見ていた。
「ああ、やっぱりソラは……」
男は、うつむいて頭を振った。
ソウは、一歩前へ出た。
「教えてください。俺の、母さん……ソラという人が、いったいなんだったのか」




