(四)世間
寝入りばなに、思考が離れていくさまを感じることがある。
自分の意識的な制御下から、小舟をゆったりと漕ぎだすように離れて、有象無象の妄想めいた声がどこからか響いては霧散する。――きっと、夢を見ているのだろう。それをあるがままに眺めていると、やがて自分が消えていくような感覚がした。
ああ、これがいつしか黒影のいっていたことか、なんて漠然と考える。けれど、不思議と恐怖は感じなかった。ふわりと浮かぶようでいながら、ゆらゆら柔らかくたゆたう心地よさの中で、いよいよ深い眠りに落ちるのだと、靄のかかった思考で自覚する。
ここにはないはずの台所から湯の沸きたつ音がした。いっしょに暮らしていないはずの黒影が、なじみのある自宅のソファにあたりまえのように腰かけている。ライが置きっぱなしにしたままの雑誌をてきとうにつまみ上げては、眉間にシワを寄せて眺めているようだ。
我ながらおかしな夢だ。ソウは苦笑した。
――ご飯、できたわよ。
――はぁい。
台所から母の声が響いて、気の抜けた返事をしてライが立ちあがった。
もっとおかしいな、とソウはまた苦笑する。だって母が亡くなったのは、ライがまだ六歳の頃だ。だから、こんなふうに大きくなったライと、あの頃のままの母がいて、ふつうに話して暮らしている、なんて。
(ふつう、ね)
ソウは自嘲した。
まどろみながら、自分の意識が深い眠りに溶けゆくのを感じる。
その、一瞬の暗い虚。
落ちてゆくはずの意識は、唐突に覚醒した。鬱蒼とした森から明るい丘に駆けだしたときのようにして視界は急激にひらけたが、しかし目の前に広がるのは、とくにこれといって代わり映えのしない宿屋の一室だ。暗い。――まだ夜なのだろう。
(また、だ)
ユウメを発ってからもうかれこれ一ヶ月以上、こういうことが続いている。ソウは内心息をついた。じっさいにため息がこぼれなかったのは、自分の身体だけが眠っていて、どうにも動けないからだ。しかもこれは、一晩に何度も起こる。眠ろうとするたび、眠りに落ちる瞬間。意識の半端な覚醒は律義にも訪れる。
指先から、小さな泡が沸きたつようにぷつぷつと痺れが弾けた。瞬間、痺れは枝葉を広げるように大きく首元まで伸びて、呼吸を圧迫する。と、同時に、腰元を誰かがまさぐっているような感覚が這う。だが、そこには誰もいない。生ぬるくも圧倒的な力で押しつぶすような感触が徐々に徐々に這いあがり、やがて、首元を掻くように、鎖骨を潰した。
ひゅ、と空気が細く抜けるような音がする。
その音を決まって聞くとき、どうしてか死んでしまうような気がした。――バカだな。どうせ、死んだりしないくせに。
どのみち、ちょっと不快なだけなのだから、そのままほうっておいてもいい気がした。しかし相反して、身体はあがこうとする。まるで死に怯えるように、必死にちからを入れようとしている。
(笑っちゃうなぁ。ほんと)
こんなザマでも、生き足掻く本能がある。わかりたくもないが、黒影が言っていた「本能から生じる、生への渇望」をこんなふうに毎晩感じるハメになるなんて。でもそれも、最近は辟易としていた。いいかげん、めんどうだ。しかたなく身体をちゃんと起こしてやろうとする。動かない指先を、どうにか動かそうと試みる。動け、起きろ、起きろ、動け。何度も反芻して、半ば眠っている身体に自分の意識をねじ込むように足掻いた。ひび割れた生木の皮を無理やりに引きはがすときのような音が、どこかで嫌ににじむ。引きはがす側なのか、引きはがされる側なのか。どちらにせよひどく不快で、大変な労力のいる作業だった。
ときおり、こんなことをわざわざする必要があるのか、と思うことがある。このまま意識を手放したら、きっと思ったよりぐっすり眠れるのかもしれない。
だが、抗うことをやめてしまったら、それは弟を見捨てることになる気がした。
この責任を手放すことは、いまの自分にとって人間であることを捨てるのと同義だ。だから、あらがう。
「……っ!」
ソウはとび起きた。目を見ひらいたまま、傷痕の残る指先で咽喉に触れる。かさぶたのような雷撃傷が、喉仏をわずかにひっかいた。なにも変わっていることはない。生きているし息をしている。触れる感触も温度も確かなもので、ここはちゃんと現実のはずだ。枕元に置いていたナイフを引きぬいて首筋へあてがう。ひやりとした冷たさに怯える身体が、ようやく現実を教えていた。こんなことをいちいち確認しなければならないなんて、――バカみたいだ。
まだ指先が痺れているような心地がして、それがひどく不快だった。うずくまって、蝋燭の火を消すように、細く長い息を夜へこぼしては、肩を落とした。
くそったれな、現実だ。
朝方。山凍地方の宿場町で、ソウたちはある話題を耳にした。沸騰している話題の中心になっているのは、第一の神子アリス。どうして三十年以上も前に生まれてすぐ消息不明になった神珠族が、と思ったが、どうやら首都ユウメを救った者こそ、まさにそのアリス様だったという。ソウはより詳しい話を求めて、通りの店先に置いてあった情報誌を拾い、目を通した。
『織国首都ユウメ。願いは獄炎に消え』
紙面はオクリビの願い事が無惨に失われたことから始まり、たった一夜で街を壊滅せしめたのはかの有名な〈獄炎の魔族〉であったことが報じられている。ソウもその名はよく知っていた。近年、各地に現れては街をたわむれに焦土と化す凶悪なバケモノだ。
(ふぅん?)
不思議なことに、その〈獄炎の魔族〉とやらは、神子アリス様によって討伐されたのだという。その後、神子アリス様は瓦礫と化した街を前に、多くを失い悲しみに打ちひしがれていた人々へ献身的に尽くし慈愛を与えた。そうして焦土に希望が見え始めたころ。あろうことか、妖魔の手先が現れ、神子アリス様をさらっていったのだという。
神子を崇めるような文がしきつめられた紙面は、『こんなことは許されない。許してはならない』という強い調子とともに、狡猾な妖魔や魔族への激しい憎悪で締めくくられていた。
さらにはらはらと頁をめくると、ここ最近の周辺事情が記載されている。
――山凍地方最大の氷河イクシィソーズ、例年より早い氷河路開通。商人喜びの声。
特集 これからの季節に行きたい宿場町と土産物。
――国際神樹保全連盟〈オブシディアン〉の魔鉱石産出時期発表。
特集 神樹の物語
――続報 魔導遺跡バリアブル再調査計画。魔狩協会と冒険者組合 特別取材。
すっかり興味をなくしたソウは、情報誌を元の棚へもどした。
「どこも、同じような話題で持ちきりだね」
なんてことないようにふりかえると、黒影は依然として後ろのほうで不機嫌そうな顔をしたままでいて、ナギは「そうですねぇ」とうなずいた。とくに話題を広げる気もなかったので、ソウは街路を歩きながら、いつも通りあれこれと話題を提供し、博識なナギの話に耳をかたむけてはおどろいてみせた。
ふと地元の話になったところで、ソウは黒影へ話を投げる。このところ、彼女はすこしおかしかった。ときおり目が合うとしばらく視線を合わせ、ちょっと経ってから静かに視線を外し、そのままいつも通りソウの言葉を無視することを続けていた。無視はいつものことだとしても、罵倒はおろか睨むこともしないでただ視線を外すということは、さすがに妙だ。
数日前にこのことをナギに相談してみたが、思いあたるふしはないという。しいていうなら、ユウメを発つ前くらいからようすが変わったと話したが、けっきょくなにも核心は得られなかった。
ふと、なにを思ったのか黒影が足を止める。ふりかえった彼女は、ふたたびソウを、じっと見つめた。
「……ソウ、キサマはこれからどうする」
「俺? 憂国に帰るけど、それがどうかしたの?」
「バケモノと自覚してもか」
ソウは目を見ひらいた。となりで、ナギが「黒影ちゃん」と諫めるように言う。
(なんだ。ナギさんもわかってたんだ)
ソウは肩のちからを抜いて息をついた。隠すことも説明する手間も、むしろ省けてしまったように感じたからだ。それと同時に、必死に事実を見過ごして、他人も、自分さえも騙そうとしてきた自分は、はたから見ればひどく滑稽なものだったのではないかとすこしだけ思った。
息を吐きながらソウは言葉を返した。
「なおさらだよ」
いまさら。
「帰らないなんて選択肢は、俺にない」
山凍地方のふもとは、秋色に染まっている。比較的歩きやすい舗装路には赤や黄の葉が。風がびゅうと吹くとバラバラと青空へ身を投げ、カラカラと音を立てながら石畳を打ち、その上をすれちがった馬車が轢いていく。
大きな問題もなく順調に半月が過ぎたころ。立ち寄った明国の魔狩協会支部で、ソウはいつもの通り報告をすませ、次の支部までの日数計画も提出した。そのとき、めずらしく黒影とともに支部長室へ呼ばれることになった。なにか緊急の案件だろうかと手短に挨拶をすませる。
支部長から手渡されたのは一枚の書状だった。
「これは……?」
調査協力願。ざっと文面に目を通すと、魔導遺跡バリアブル再調査計画に際して、調査協力を願うものだった。宛名は魔導研究者〈白蠟〉。――黒影の、兄へ宛てたものだ。黒影は、あからさまに眉根を寄せた。口を一文字にむすび、これ以上にないほど目もとの影を濃く、険しくしながら、全身のありとあらゆるところから不快さをあらわしていた。
支部長は、道すがらその書状をもっていくように言いつけた。
了承したうえで「さしつかえなければ、私が同行する必要……理由を教えていただけないでしょうか」と訊ねると、支部長はこまった顔をしながら、ランクS〈黒影〉の表情をちらと伺った。黒影の拒絶か、あるいは横暴をおそれたのだろう。――が、当の本人がなにも言っていないところを見るに、不承不承、従う気ではあるのだろう。
支部長は今回の件にあたって、「組織的に関わるのだから、身内でない者も同行したほうがいい」ということや「直接バリアブルを見た者が説明した方が協力を得られやすいだろう」という、ごく真っ当な理由を口にした。
ソウは、黒影とともに協会を出ると、宿でナギと落ち合った。相談の結果、ソウは黒影とともに、山間部にあるという〈白蠟〉の研究施設へ。その近くの街までナギが案内してくれるという。その後、ソウと黒影は書状を渡しに施設へ向かい、ナギはその足で明国の首都へ。そこで、二人が来るまで過ごすということで、ひとまずの方針は決着した。やることはてきぱきとこなし、話し合いもトントン拍子で進んだため、たいした疲労もなかったはずだが、ソウは寝台へ倒れこむなり、もう明日は起きたくないと願うほど、身体が重怠くなっていたことに気がついた。
どっと疲れた心地でまどろんでいると、またあの感覚が訪れる。意識がおちていく瞬間に、視界だけがひらけて、手足は動かず、身体中に痺れがまわり、呼吸が圧迫される。だいぶ疲れていたから、今日こそはなにもなく眠れるんじゃないかと期待していたものの、バカらしいほどに見当外れだった。
ここでもか。ソウは辟易としながら、どうにか意識を引きはがそうと試みる。身体はやはり、ちょっとやそっとのことでは動いてくれない。まるで、自分と身体がバラバラになって乖離していくのに、神経だけがつながっているみたいだ。
意識のなかで、考えていた。
自分は何者だろうか。
自分は、ソウという人間であるはずで。
母と父のもとに生まれて、〈ふつう〉の社会で生きてきた。
ふと、暗闇に母さんが佇んでいる気がした。真っ白な、奇麗な髪が腰元まで伸びた母。いつもいつまでも優しくて。ソウは母の幻影をぼうと見つめた。母さんがふりかえる。記憶の中では、いつもどこか後ろめたそうな気持を抱えこんでいるような表情をしていたという印象があったはずだ。――なのに最近、うまく思いだせない。精細な母の表情をどうにか思いだそうと記憶をさぐっても、ふとした瞬間に花瓶が割れた音がする。気がつくと、母の幻影は割れた花瓶に変わっていて、冷たい水が床を食み、壊れたガラスの尖端が、ギラギラと責めるようにソウへ向いている。
鈴の音がする。
父が好んで着ていた色の上着を思いだす。
手のひらの痺れが、雷撃の痕を執拗に掻く。
白くて。
青くて。
なにが正しいのかわからなくて。
なにからまちがったのか、答えられなくて。
なにもかもが遠のいていく。
自分という人間のカタチが。
あたりまえのなにもかもが。
ありふれた常識が。
こなすべき日常が。
ふつうの社会で生きること。
ふつうのなかで息をすること。
そんな自分で、居続けること。
「ソウ」
瞬間、ひたいをなでた冷たさが、ソウの身体に蔓延っていた苦痛を和らげた。
「……あ、れ?」まばたきをする。彼女を見あげる。黒影は、ソウの寝台に腰かけていた。蒼白の顔にある切れ長の黒いまなざしへ。その長いまつげへ、思わず手を伸ばす。するりとこぼれた横髪が、ソウの手へ触れた。黒い髪をたどるように、指先が彼女の痩せた頬に触れる。白い肌だ。手のひらの雷撃傷が、彼女の肌を傷つけてしまうかもしれないと。ソウはクセのように手をやわく丸めた。指の背で、いつもろくに寝ていないだろう彼女の下まぶたをなでる。黒くはっきりとしたまつげは、思ったよりも繊細だった。黒影はとくに拒むこともせず、かと言って視線をそらすこともなく、じっとこちらを見つめている。
「なんで、見てるの」
訊ねて。ソウは声が出ることに気がついた。身体の痺れは残っていたものの、自分の身体のなにもかもが、ちゃんと自我の制御下にあり、いうことを聞いてくれる。ここは現実なのだと、ソウは理解した。おもむろに手をおろしたとき。彼女の小指に触れあった。
「ねぇ。君は、俺がバケモノだと思う?」
わかっていながら、あえて訊いた。きっと彼女にとっても、自分にとっても、この質問は意味がないだう。
黒影は言った。
「ワタシはキサマのことをなんと呼べばよいのか、ときおり迷う」
「どうして?」
「他人に望まれ〈理想的な善良〉であり続ける〈ソウ〉という人間だからだ。ソウ、と呼ぶことで、キサマが他に向けるような、無駄に気色の悪い笑みをワタシへ向けてくるのではないかと想像すると、たいそううんざりする」
「そんなこと?」
「それほどのことだ」
「ふぅん」
ごろりと仰向けになって、ソウは天井を見あげた。
「べつに、そのままでいいよ」
すこしだけ、頭を転がして。ひたいを彼女の手のひらへ寄せる。殺しあうこと以外、なにも求めてこない彼女の冷たさが、いまは心地よかった。
「俺は自分自身のために俺を利用してるだけだしさ。愛想笑いも、優しいと勘違いしてもらえるようなことを言うのも、どれも俺にかわりない。ただ、演じているだけ。それにさ。ソウ、っていう存在がどういうものかは、多くの場合、他人がかってに、良くも悪くも、その人にとって都合よく判断・解釈するでしょ。それはさ、その人がソウっていうヒトはこういうモノなんだって、分類してるだけなんだ。安心したい。だから、みんなやる。俺を見てる他人の人数と同じだけ、ソウっていう存在にたいする見方があるんだよ。それって、ちょっと不思議じゃない? 俺はたった一人なのにね」
ソウは嗤った。
「だから、みんながバケモノだっていえば、俺の中身がどんなだって、きっと関係ないんだよ。母さんのことだっておんなじ。母さんは、たまたま白い髪をしてたから目の敵にされた。それだけだ。それだけのはずなんだ。だから、きっと母さんがなんだって、排斥する理由があれば……」
自分に言い聞かせるように、何度も頭の中で反芻しながら口にする。
「正義っていうのを建前に、自分を守る理由があれば、みんなそれでよかったんだ。だって、正義をふりかざせば、自分は関係ないって。自分はなにも悪くないって。そんなふうに思えるから。罪悪感なんてなにもなく、正しく残酷に攻撃できるから。――俺だって、そうしたよ」
黒影はなにもいわなかった。ただ、じっとこちらを見つめたままでいる。
「みんながみんなを気にしてる。世間とか、みんなとか。そういう言葉を建前にして、自分の考えをみんなのものみたいにして責任を押しつけたり。ふつうとか、常識とか。あたりまえとか。そういう、なににもならない言葉にすがって、簡単に正しさっていう、不安を語るんだ。よく考えもしないで、かってに排斥して、なんとなく安心して、かってに気持ちよくなって。無意識に味をしめて、くりかえす……けっきょく、言ったことも、やったこともさ。行動を起こしてるのはその人自身で、その人の責任なのに。
だからって、じゃあ、なにもかもその人が悪いの、って。そういう話でもない。選んで行動したのはその人だけど、選択肢なんてない、ことだって、よくあるし。環境とか、いろんなことのせいで、結果的にそうなったってのも、あるだろうし。
もちろんさ。そういう、よくわからないけど、よくわかる〈ふつう〉とか〈あたりまえ〉がぜんぶまちがってるわけでもない、と思う。社会とか、常識とか。規約や規範があるから、俺たちの生活はなりたってるわけで。わかってるよ。それくらい、生きてきたんだもん。俺はそれだけのあいだ、社会の中にいて。人と関わってきて。いろんなことを、なぁなぁにしながら、息をしてきた。
父さんが死んで。母さんを殺した社会が嫌いで。母さんを追いつめた何もかもが憎くて。自分は、そんな母さんに愛された息子で。弟と二人残されて。弟をやしなう、真面目なお兄ちゃんでさ。つらいことだってあったけど、それでもさ。苦労しながらだって、平和に暮らしてて。それでいいんだよ。それだけでよかったんだよ。
なのに、ふつうだとか、ふつうじゃない、とか。バケモノだとか。もうこれ以上よけいなこと、考えさせてくれるなよ。いまさら、こんな……わからなく、なるじゃんか。せめて、事実だと思ってたことくらい、信じさせてくれよ。そうじゃないなら、はじめから俺に答えをくれよ。俺がバケモノなら、母さんはなんなの。父さんはなにを知っていたの。どうして二人とも死んじゃったの。教えてよ。……」
喘ぐように息を吸って、言い捨てるように息を吐きだした。――本当に、バカみたいだ。
言葉が天井の暗がりに消えると、しんと静かになる。触れた小指の温度が、呼吸さえ薄い黒影がすぐ近くにいることを感じさせた。
なにも考えたくなくて。なにも言いたくなくなって。ソウはうっすらとまぶたをあけたまま、虚空を見つめていた。このまま小指を絡めていれば、朝はこないだろうか。もうなにもかもが、面倒だ。朝起きることも。起きて歯を磨いて、髪を梳いて、ご飯を食べたりして。必要なことぜんぶが、面倒だ。けれど、朝がこないなんて、そんなことは、ありえない。ふつうの社会は規則正しく朝を迎える。そして自分は、そのあたりまえの社会で生きる人間でいなければならない。そうしないと、弟を護れない。社会で生きていけない。だからこそ、大嫌いな社会で、正しく息をしなければいけない。歩調をあわせて。呼吸を合わせて。表情を合わせて。感情も、思考も。ぜんぶ、潰して。――それが、家族を護るための、唯一だ。
なのに。
(ぜんぶ)
ほんの一瞬。
どうしようもなく投げ出してしまいたくなる。
細く息をこぼして、横向きにごろりと態勢を変える。触れ合っていた彼女の小指の先を眺める。奇麗に整えられた曲線だ。おもむろに、衣擦れの音がした。黒く長い髪が、寝台の上でかすかに動いたからだった。彼女の鼻先はすでに、どこか別の場所へ向いていた。夜の波間のような瞳は、いつもなにかを見つめ考えているようでもある。彼女は、きっといつだって自分の意思で、思考しているのだろう。――それがすこしだけ、羨ましく思えた。
ソウはまぶたを閉じた。どうせまた、朝になれば起きるのだから。夢の中でもいいから、記憶の父が真実を教えてくれないだろうかと願ったものの、行きつく先は、白いばかりの父の死だった。




