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(二)確認

 落ちていく。

 落ちて、いく。

 前にもこんなことがあった。そのときに見たのは、晴れ渡る空だ。


――白の境界線?


 ちがう。それよりももっと前だ。

 たしか、ライが生まれて一年くらい経ったころで、父さんと、母さん。それからライもいっしょにつれて、山菜を採りにいったときだった。だから、俺は十一歳だった。


 ――……。


 きっと、音がしたはずだった。そのときの記憶はひどく曖昧(あいまい)で、一瞬一瞬を端切れのように覚えているだけだ。なにが起こったのかはわからなくて、ただ、空を見上げていた。

 叫び声が響いた。母さんの声だった。駆け寄ってきた母さんは、いままでに見たことのないくらい必死に叫んでいたけれど、どうしてか、その声はとても遠くから響いているように聞こえた。母さんの白い手が伸びてきた。母さんは、しっかりして、ソウ、お願い、死なないで、となんどもくりかえして叫んだ。裏返った声で、ソウ、ソウ、としきりに呼ぶから、思わず笑ってしまった。


――どうしたの、母さん。そんなに慌てて。ほら、空が奇麗だよ。


 そんなふうに言おうとしたら、ごぽ、と咽喉(のど)の奥から弾けるように溢れた。なんども咳いた。


 ぷつぷつ、ぷつぷつ。

 ひゅー、ひゅー。

 ごぽ。


 変な音が邪魔をする。

 どうしてだろう?


 ぼやけた視界の中で、母さんはいっそう目を見ひらいた。さっきとはちがう表情だった。……なんていうか、信じられないものを見ているような、そんな顔をしていた。

 真っ白な髪が真っ赤に染まっている。母さんが怪我をしたのかと思ったけれど、そこでようやく自分がひどい怪我をしているんだということに気がついた。ああ、そっか、足をすべらせてしまったんだっけ。

 ああ、でも、大丈夫。そんなに痛くないよ。

 そのうちに、どうしたの、とライを抱えた父さんがかけよってきた。母さんはふり向いた。

「ソウが落ちて、それで」

「おちついて」

 父さんは母さんにライをあずけると、背負っていたカバンをいそいで下ろした。慣れたように応急手当用品をとりだした父さんは、こっちを見るなり、すぐに必要なものへ手をつけた。

「まだ生きてる。大丈夫。まだ間に合う」

 こういうときの父さんは、誰よりもかっこいい。

「ちがうの!」

 母さんは狂ったように泣き叫んだ。おどろいたライが、泣きはじめた。

()()()()

「……」

 父さんは、こっちを見た。それまでてきぱきと動かしていた手を急に止めた。

 二人とも静かになった。ライだけが泣いていて、どうして二人ともライをあやしてやらないのだろうと思った。まるで時間が止まったみたいに、うんと長い間、地面を見つめてじっとしていた。その頃には、息をするのもずいぶん楽になっていて、ただちょっと疲れていたから、このまま眠ってもいいかな、なんて考えていた。でも、眠るなら、父さんの背中に乗ってからがいいな。だって、父さんの広い背中に揺られるのは、あったかくて心地がいいから。

 ようやく、父さんが口をひらいた。

「……まずは、家に帰ろう。二人でちゃんと話そう」

「だってわたし、こんなことになるなんて思ってもいなかったの。信じてなかったの。でも、里のみんなが言っていたことは本当だったんだわ」

「ソラさん。おちついて」

「わたしの、わたしのせい。わたしがみんなの言うことをきかなかったから。そのせいで、〈アボリ〉の怒りをかってしまったの。だからこの子は、呪われてしまったのよ。じゃなきゃ、だって、こんなこと!」

「ソウが生きてる。いまはそれだけでいいんだよ」

「考えてよ! じゃあこの先ソウはどうなるの?」

「いいかい。これはソラさんだけで抱える話じゃない。俺は知っててソラさんを望んだし、ソウが生まれることもよろこんだ。大事なことは、いま自分を責めることでも、一心不乱になって神様に赦しを乞うことでもない。もっと、ずっと現実的な話だよ。これからのことをちゃんと考えて、選んで、生きていくことなんだよ。ソウが大人になったら、俺から話すから。大丈夫。ソウは自分で考えて、選べる子だよ」

 父さんが俺を抱きかかえた。それがちょっと嬉しくて、ほほがふやけた。

「俺たちは夫婦なんだ」父さんは優しい声で言った。それから「大丈夫だよ」と母さんとライもまるごと抱きしめる。大きな父さんの腕。あったかい父さん。

 まだおしゃべりのできないライが、「あー」と高い声をあげて俺のほっぺたに触れた。やわらかい手。大事にしなきゃ、と思った。

「独りじゃない。家族なんだよ。俺は、ソラさんのことをわかっていて、それでも結婚した。ソラさんが罪だっていうなら、俺もいっしょだよ。ね、みんなで家に帰ろう」

 心の中でうなずく。大丈夫だよ。母さん。俺もいるんだから。みんないっしょなら、きっと大丈夫。

 母さんはうなずいてライを抱えたままいっそう身を寄せた。母さんはふるえていた。

「ごめんね。ごめんなさい。ソウ。あなたはいつかわたしを恨むかもしれない」

 言ってることが、わからないよ。

「だからどうか、いつか、幸せになって」

 どうして、俺が不幸みたいな言いかたをするんだろう。俺はじゅうぶんに、幸せなのに。

 父さんが笑って、母さんが笑って、ライが笑ってさ。たまに喧嘩したり、怒ったり、怒られたりしてさ。みんなでいっしょにご飯を食べて、おいしいねって言って。

 そういうなんてことのない時間が、いっとう好きなんだ。

「ごめんね。ごめん。ごめんなさい。ソウ……」

 だから、大丈夫だよ。母さん。

 ねぇ、どうしてそんなに苦しそうな顔をするの。

 母さん。


 もう、前みたいに笑ってくれないの?

 ――……。



「……、」

 あの日からだった。ソウを見るたびに、母が後ろめたそうにまつげを伏せるようになったのは。見慣れない天井を眺めながら、ソウは思った。肌がつっぱったような気がして、腕をもちあげる。包帯が分厚く巻かれているが、不思議と痛みはない。

(まるで、重症者のあつかいだな)

 ソウは嗤って、包帯を爪で引っ掻いた。窮屈だった腕はすぐに自由になり、乾燥した空気をよろこんで受け入れている。見覚えのある雷撃傷のうえに、いくらか見覚えのない火傷痕が新しくぶちまけられていたが、症状はもうおちついているらしい。どれくらい寝ていたのだろう。また傷が増えたなぁとぼんやり考えるが、誰に見せるわけもないのだからかまわなかった。ようは、ライに見られなければそれでいい。ライにだけは、心配をかけたくなかった。

 ソウは寝台から降りた。古い建物のようで、床板はいくらかたわんでいる部分がみられる。踵をおろすたびに、板は沈みながらぎしぎしと悲鳴をあげた。身体は包帯だらけだが、不思議と痛みはなかった。魔族と対峙したときに、ひどい怪我を負ったように思えたが、それは案外、気のせいだったのかもしれない。

 窓から外をのぞいてみると、木陰の明るさが降りそそいでいる。いくらかの樹々にかこまれていた。森の中、だろうか。ソウが首をかしげたそのとき、この疑問に答えるように扉があいた。

「黒影」

 彼女はあいかわらず、眉間に深いシワを寄せている。どうやら新しい包帯と、着替えを持ってきたらしかった。ソウはお礼を言いながら、どれくらい寝ていたかを訊ねた。彼女はソウがまる三日寝ていたことを話し、ここは街外れの旧講堂にある一室だと言った。街の中心部は壊滅状態にあり、瘴素が濃く、妖魔がうろついていてとても入れるものではないという。動ける魔狩や冒険者、健常者を中心に、この周辺を緊急的な避難場所として動かしているのだそうだ。

 黒影はあご先で寝台へ戻るように示した。ソウが寝台へ戻ると、彼女はなにもいわずに包帯を取り替えはじめる。冗談めかして「てっきりナギさんが来るのかと思ってたよ」と言うと、黒影はナギがほかの怪我人のようすを見ていると話した。それ以外、彼女はとくになにも言わなかった。

「黒影、ありがとう」

 ソウは腕をあげて、ていねいに巻かれた包帯を示した。正直なところ、傷痕だけで痛みもなかったため、これから困窮するだろう物資を使うことは気が引けたものの、ソウはこのことについて触れなかった。そして彼女もまた、ただ一度これを見ただけで、やはりなにも言わず、ひきずるほどの黒髪を重く揺らして部屋から出ていった。扉が閉ざされ彼女の気配が遠くなったのを確認してから、数分以上ものあいだ天井を眺めていた。

(まる三日、ね)

 おもむろに身体を起こし、部屋をうろつく。ソウの装備品は、近くのテーブルにあった。ソウはいつもの革鞘(ホルスター)から愛用のナイフを引きぬいた。刃先を腕に持っていって、ふと、せっかく替えてもらったものをすぐ汚してしまうのはどうかと思いなおし、手のひらへずらす。血が散らないように、そっとそえて。音もなく線を引いた。肺の底がひやりとこわばった一瞬をこえると、赤い色が刃先の軌跡を追うように姿を現す。熱をこぼして――しかし、そのうちに痛みはすぅと引いていった。ちょっと時間がたつと、傷痕は消えていた。ソウはそのさまを、淡々と眺めていた。確認事項を終えると、刃先を拭って、血が染みた床もてきとうに掃除しておいた。もっとも、古くてすでに汚れているから、だれも気に留めないだろうが。ナイフを元通りに戻して、また寝台へ寝転んだ。

(たった三日、ね)

 名も知らない白髪の男に肺を焼かれた感触だけは、いまもまだ残っている気がした。

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