迫り来る罪の気配
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
秘密の逃げ道からヨゼフは逃亡していた。
余り身体を動かすのが得意でないヨゼフの体力は既に尽きかけていた。しかし自分が捕まる訳にはいかない。いや、捕まって国によって牢に入れられるならばまだどうとでもなる。殺されてはどうしようもないのだ。
やがて逃げ切れたと安堵した後、不意に壁を叩いた。
「ばかな……」
呟く。
ギリギリと歯を食いしばる。
「ば……かな……! わた、私の"進化しせし獣"が敗れるなど!! ありえんありえんありえぇぇん!! あぁぁぁ!! だが現実だ!! くそ! くそっ!! 科学者として目の前の現実から目を背ける事は出来ん! くそっ、ちくしょう! くそったれ! あの方になんと報告すれば……」
何度も壁を叩き、がりがりと爪を噛む。強く噛むあまりに血が出てしまった。それすらヨゼフは厭わない。
「くそくそっ! どれだけの魔獣の素体を使ったと思っている! あれだけの数を集めるのにどれほどの金を費やしたと! くぅぅ、だがデータは取れた! 魔族の検体を失ったのは痛手だが、仕方ない。ならば後は……」
「何処に行こうというのかしら?」
カツンと、乾いた足音が鳴る。
ヨゼフは逃げ道の先から底冷えするような、まるで極寒の如く冷気が先から漂っているのを感じた。
「好きなだけやって、命をいじり、弄び、歪ませて、奪って。都合が悪くなったら即とんずらだなんて許されるとでも思っているのかしら?」
現れたのはフードを被った一人の女。
顔は見えない。だが、フードの隙間から凍てつくように冷たい赤い瞳が此方を見ている。
なぜ此処がというよりも先に、ヨゼフは女の背後を見た。
そこには先に逃げ出したはずの研究員、騒ぎに乗じて檻が割れ脱走した"合成獣"。その全てが凍っていた。
この研究所に強襲をした時、キキョウはいなかった。
アヤメはイフィゲニア奪還の際にキキョウには別の役割を任せた。
キキョウの役割、それはこの研究所から逃げ出す者は全て捕える事。
あれだけ強力な"合成獣"、制御が外れた個体が一体でも逃せば人里で甚大な被害をもたらすのは間違いない。
戦いでは激戦が予想される。その際に逃げ出す個体がいないとも限らない。
更には働いている研究員も問題だ。データを持ち出されたらまた別の所で"合成獣"を生み出される。
それを阻止するためにキキョウは突入の際にいなかった。全ては"魔獣研究所"から逃亡者を出さない為に。
脱出した研究員や都度なるイフィゲニアの攻撃で一部崩壊した箇所から外へ逃げ出そうとしたキメラをキキョウは全て凍らせた。最早彼らは氷の彫刻と化している。
研究員は生きてはいるが、呼吸しか出来ず今尚低体温症に苛まれ、四肢が不自由になるのは間違いなく、酸素不足から記憶も混濁している。恐らく今後実験をすることは不可能となった。
アヤメでは無理だ。
アイリスでも不可能。
エドアルドだろうと出来ない。
だがキキョウならそれが出来る。
何故ならば彼女は元八戦将。
かつて街を氷漬けにしたその攻撃範囲は研究所そのものを凍らせられるほどに強力だ。
上空から氷の華に乗り、逃げ出す全ての生物を彼女は氷漬けにした。アヤメ達を除けば、この研究所から出られた者は一人もいない。
彼女はヨゼフと同じく秘密の通路から逃げ出した研究員を彼女の渾名となった【氷霧】によって把握して捕縛し、この通路の存在を知って来たのだ。
「くそっ、こうなればッ!」
追い詰められたヨゼフは注射器を取り出すと自らの腕に注入する。
「あ、ぐあぁぁあぁぁぁぁッッ!!」
「……驚いた」
ボコボコと肉体が盛り上がり、ヨゼフの身体が何倍にも膨れ上がる。筋肉は増大し、爪は鋭利に、身体からは数多の触手が生えてきた。
流石のキキョウも軽く目を見開き驚く。
「ふぅ、ふぅ、何たる不完全で醜い姿! これを使うまで追い詰められるとはッ!」
"合成獣"よりも劣る、己を強化する薬。失敗作だがそれでも自我を保つ事が出来る。もっとも、元の姿に戻るのは不可能だがそれはおいおい考えれば良い。
「今この場を切り抜けさえすればッ」
「無駄」
魔獣の突進にも匹敵する威力の突撃。
だがキキョウは大地を凍らせて動きを止めた。更には上空から氷の槍が降ってきてヨゼフを貫く。
「がぁぁぁっ!! ば、馬鹿なッ! たかが氷に追い詰められるなど!? 出口はすぐそこだと言うのにっ!!」
「残念だけど貴方はこの薄暗い廊下で終わるのよ」
キキョウが触れた先からパキパキと身体が凍りつく感覚にヨゼフは半狂乱になる。
「よせ! やめろ、わかっているのか!? "合成獣"さえあれば人類はもっと魔王軍に対して対抗できる! 人類は勝てるのだ! それが何故わからん! 私は人類の為にこの崇高な使命を果たすのだぞ!?」
「その為に死体を積み重ねるの? 何千何万とたった一つの命を造る為により多くの命を犠牲にするの?」
「必要な犠牲だ! 未来を繋ぐための! その為に私が態々失われた技術の復興という大業を成そうとしているのではないか! 私は! 人類の為にしているのだ!!!」
「どうしてかしらね。此方には貴方のそれがご醜い自己愛にしか見えないわ」
徐々に身体が凍っていく。
迫り来る終わりにヨゼフはなおも騒ぎ立てる。
「こ、こんな終わりなど認められるか! 私はまだ、実験したい! それにまだ完璧に"進化しせし獣"を作り上げていないッ! た、助けて下さいッ、ーー」
誰かの名を呼ぼうとするも最後まで口にする事は叶わず、完全にヨゼフは凍りついた。
「安心しなさい。死にはしないわ。もっとも、次目覚めた時は冷たい牢屋の中でしょうね……」
その言葉を最後に氷の中でヨゼフは完全に意識を失った。
完全に凍りつき、氷の彫刻と化したヨゼフ。
冷えた空気が漂い静かになる中、キキョウは氷に反射した自らを見ていた。
「悪事を働けばいずれ報いがくる。誰であろうと、その定めからは逃れられない。貴方は罪を犯しすぎたのよ。そしてそれは此方もよ」
罪は消えない。
自分は数多くの人を不幸にした。アヤメに会うまで殺しはせずとも多くの人の人生を狂わせた。壊した。失わせた。
きっと業の深さなら、ヨゼフと変わらない。
いや、それ以上だろう。
「だけど、此方は逃げない」
いずれくるであろう報いに対し、既にキキョウは覚悟を決めていた。
「……危なかった」
遠く離れた森の一角ででヒノハは呟いた。
一度被っていた外套を脱ぎ、微かに凍り始めていた霜を手で払い落とす。
「あの方から渡された幻世の外套が無かったら捕捉されていましたね。キキョウと言いましたが、あの『大魔法使い』何という強さ」
今まで出会った事の無いほどに危機感と焦燥感に駆られた。
外に出た際に漂い始めた冷たい空気に、ヒノハは自らの姿を隠した。
そこで見たのは、"合成獣"を一切近付かせず凍り付かせるキキョウの姿。鎧袖一触、誰も彼女に近付くことすら出来ず、物言わぬ氷の彫刻と化した。
全てを凍らせる終焉の吹雪の中心にて立つキキョウ、その表情はぞっとするほど冷たかった。
「あんなのが存在するだなんて」
ぶるりと身体を震わせる。
リンネに付き従っていた際には、アヤメやエドアルドの方の強さに目が行き、キキョウは基本的に小さなエルフの方に泣かされていたから大した事はないと判断していたがそれは大きな過ちだった。
あのパーティで最も強いのは、あの女だ。
「それにしても……」
彼らが来たということは、恐らくはリンネ達は生きていたのだろう。そうでなければ、こうも直ぐに現れた事に説明がつかない。ヨゼフは衣類の一部をグリゼルダにもぎ取られ、己の所属を示す刺繍を奪われたがそれが何を指し示すかまでは知らないはずなのだから。
「……お嬢様、ランドルフ。嫌いでは、ありませんでしたよ」
何故、リンネを腹ではなく胸を突いたのか。
スライムの存在を認知しているのに、確実に殺すならば腹を刺すべきだった。だけど彼女はそうしなかった。
それはヒノハに残っていた情だった。
しかし、本当の彼女の主人はただ一人。
忠誠心は別の方に向いていた。だから、別れることには何の戸惑いもない。
「いずれにせよ、彼らの事を報告する必要はあるでしょうね。かつての人類の遺産である、人間の"合成獣"実験も、まぁ一先ずは成功と言っても良いかもしれません。喜んで頂けると良いのですけど」
再び外套を被り、ヒノハは闇の中に消えた。
こうして "魔獣研究所"は人知れず崩壊した。
歪な技術もまた闇に葬られた。一人によって持ち出された物を除いて。
キキョウの役割は研究所から逃亡者を出さない事でした。やろうと思えば研究所そのものを凍りつかせる事も可能です。
最も、その場合内部にいるイフィゲニア諸共凍りつきますが。




