# 第二章「決意と盟約」
ハイヴェンは家へ戻り、庭の塀を抜ける。
そして家の扉を開けた瞬間、母親へと目を向け、不思議そうに尋ねた。
「母さん、いつから頭が足の位置にあるんだ?」
その直後――
姉のナイリスの怒鳴り声が、彼の耳を貫いた。
「この馬鹿! 今までどこにいたのよ!! 今日は訓練が早く終わったでしょう! とっくに……四時間も前には帰ってるはずでしょ!!」
そこでようやく、ハイヴェンは気づく。
自分が両足を掴まれ、逆さまに吊り下げられていることに。
母親はかすかに笑みを浮かべ、ナイリスをなだめようと口を開いた。
「少し落ち着きなさい、ナイリス。きっと友達と遊んでいたとか、そんなところでしょう?」
ナイリスは母親へ目を向け、しばらく黙り込む。
そして再び――
いまだ自分の手に逆さ吊りにされているハイヴェンを見た。
「どこで?」
「誰と一緒だったの?」
「その子、何歳?」
「どこに住んでるの?」
「近所なの?」
ハイヴェンはようやく、その手から自力で抜け出した。
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その日の夕方。
夕食の最中、ハイヴェンがふいに口を開いた。
「明日から、二か月間アンティラ山脈へ訓練に行く。」
「最終試験に備えるためだ。」
二人の表情が変わる。
その場を、重苦しい沈黙が包み込んだ。
そして数秒後――
母親のヨシナは険しい表情を浮かべ、怒りを露わにする。
「まだ、あんな馬鹿げたことにこだわっているの?!」
「最終試験に合格して、軍の道へ進んで……軍に入って、一体何が得られるというの?!」
「ここには、あなたに必要なものが全部あるでしょう!」
「お金も、家族も、影響力も……名門一族としての特権だってある!」
「赤きエメラルド・ユルヴァナの兆しが現れるのが遅くても、クレターへ昇るのが遅くても構わないわ。ここには、あなたをヘクター位にまで押し上げられるだけの資源があるのよ!」
「わざわざ苦難の道を歩く必要なんてないでしょう!……」
ハイヴェンが、その言葉を遮る。
「何度も言っただろ。俺は――」
だが、最後まで言い切るよりも早く――
バンッ!!
ナイリスの拳が、テーブルを叩いた。
「ハイヴェン!……」
一度声を荒らげた彼女だったが……
次の瞬間、その声は静かに落ちる。
「それが……あなたの最終的な決断なの?」
「ナイリス、説明させてくれ。俺はただ――」
「答えて。」
怒りを滲ませた声が、再び彼の言葉を断ち切る。
「それが、あなたの最終的な決断なの?」
ハイヴェンは彼女から目を逸らさない。
そして、迷いなく答えた。
「そうだ。」
「これが……俺の選んだ人生だ。」
ナイリスの目が、一瞬大きく見開かれる。
そして――
その口から、かろうじて言葉がこぼれた。
「……好きにすればいいわ。」
彼女は席を立つと、そのまま家の外へ出ていった。
ヨシナも後を追う。
やがて――
一本の木のそばで、沈んだ様子のまま座り込んでいるナイリスを見つけた。
ヨシナは彼女へ近づきながら言う。
「気にしなくていいわ、ナイリス。」
「きっと、あの子もすぐに考え直すわよ。」
「Anyway、ハイヴェンは自分から誰かを傷つけようとするような子じゃ――」
「違う!……」
ナイリスが、その言葉を遮った。
ヨシナは思いもよらない返事に驚き、足を止める。
ナイリスは静かに続けた。
「あの目……」
しばし、沈黙する。
彼女の頭に蘇ったのは――
ハイヴェンが、
「そうだ。これが……俺の選んだ人生だ。」
そう言い切ったときの顔だった。
やがてナイリスは視線を落とし、呟く。
「前にも見たことがある……」
「ああいう目をする人間は……」
「一度、自分で何かをやると決めたら……この世界のどんな存在にだって、止めることはできない。」
ヨシナの表情が強張る。
そして、その声は途切れ途切れになった。
「でも……」
「でも……もしあの子が、その道を進み続けたら……」
「遅かれ早かれ……あの忌まわしい過去の真実を、すべて知ることになる……」
ナイリスは立ち上がる。
数歩前へ進み――
顔を上げ、夜空に浮かぶ月を見つめた。
深く息を吸う。
そして――
「ハイヴェンには、強い魂がある。」
「どれほど深い闇に囲まれようとも……決して砕くことのできない魂が。」
「たとえ、いつかあの狂気と向き合うことになったとしても……」
「私は信じてる。」
「ハイヴェンなら……また立ち上がれるって。」
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ハイヴェンは、ベッドの上で眠っていた。
ゆっくりと……
目を開く。
その瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
そして彼は気づく。
右手が、宙へ伸ばされている。
まるで――
何かを必死に掴もうとしていたかのように。
ハイヴェンは身体を起こし、片手で顔の半分を覆う。
「また……夢を見ていたみたいだ。」
「そして、また……」
「何も覚えていない……」
カーテンに閉ざされた窓へ視線を向ける。
「寝坊したみたいだな。」
「もう朝か……」
ベッドから立ち上がり、窓へ向かう。
カーテンを開くと――
その先には、見事な景色が広がっていた。
庭を埋め尽くす桜の木々。
その間を縫うように、小さな川が流れている。
川には一本の橋が架かり、宮殿の二つの区画を繋いでいた。
ハイヴェンはしばらく、その美しい景色に見入る。
だが――
カンッ。
カンッ。
一本の木の下から響く金属音が、その静けさを破った。
目を凝らす。
木の陰から――
長い黒髪の先が、わずかに見えている。
ハイヴェンは少し驚いたものの、すぐに着替えを済ませ、部屋を出る。
「Anyway、もう遅れてる。」
「急がないとな。」
家を出たハイヴェンは、金属音の聞こえる木へ向かって庭を歩いていく。
そして――
足を止める。
口元に、からかうような笑みを浮かべた。
「ついに竪琴を捨てて、鍛冶に乗り換えたのか?」
「そっちのほうが、本当に姉さんには似合ってるよ。」
ナイリスの手が止まる。
彼女は剣を持ち上げ、しばらくその刀身を眺めながら答えた。
「自分で試してみれば分かるわ。」
ハイヴェンの表情が、わずかに引きつる。
「……冗談だよ。」
「もちろん姉さんには、いろんな才能がある。」
「姉さんが一番だ。」
ナイリスが振り返る。
ハイヴェンと真正面から向き合った彼女の右手には、一本の剣。
そして左手の指先を、その刀身へと添える。
次の瞬間――
剣に刻まれた紋様が輝き始めた。
鮮やかな青いオーラが、その刀身を包み込んでいく。
ナイリスは鋭い視線をハイヴェンへ向ける。
「こんなこと……したくはなかったんだけど。」
「私にそうさせたのは、あなたよ……」
「くそっ! 本気だ!」
ハイヴェンは瞬時に身構え、防御の姿勢を取る。
同時に、腰の剣を全力で抜こうと手を伸ばした。
「せめて俺も――」
だが――
指先が柄に触れることすらなかった。
ハイヴェンの身体が、硬直する。
そして背後から――
ポン。
肩に手を置かれた。
ナイリスが耳元で、からかうように囁く。
「何してるの……?」
「…………」
ハイヴェンは両手を上げた。
「分かった……分かったよ。」
「降参だ。」
そして苛立ったように続ける。
「そもそも、尊敬されるピーク・ヘクターともあろう人が、ユルヴァナすら持ってない若者をいじめるなんて恥ずかしくないのか?」
「ピーク・ジュターが十人いたって、姉さんの技を一発も耐えられないだろ!」
「俺に何ができるっていうんだよ?!」
ナイリスは額に手を当てる。
「あなたって本当に……」
「戦いのことになると、急に口数が増えて文句ばっかりね。」
そして小さく息を吐いた。
「その頑固さが……余計に心配なのよ。」
「Anyway……ほら。」
そう言って、剣を差し出す。
ハイヴェンの目が限界まで見開かれた。
「何だって?!」
「でも、それ……姉さんの剣だろ!!」
「そうよ。」
ナイリスは淡々と答える。
「今日から、あなたのもの。」
「いや、待て!」
「これはクリシダの剣だぞ!」
「王国級の四重ヨルカーヴァの中でも、最も希少なものの一つじゃないか!!」
「比類のない伝説級の逸品だ……」
「俺なんかが持つには、本当に分不相応だ!」
ナイリスは、どうでもよさそうに首を傾げる。
「え? そうなの?」
「昔から、良い剣だとは思ってたけど。」
「…………」
ハイヴェンは呆然としながら、わずかに首を傾げる。
「え……?」
「良い剣……って、それだけ?」
「ちょっと、私を責めないでよ。」
ナイリスは不満そうに言い返す。
「私はあなたみたいに、歴史の研究に夢中じゃないんだから。」
「Anyway、この剣には手を加えて、二重ヨルカーヴァとして使えるようにしてある。」
「今のあなたでも……たぶん使えるはずよ。」
ハイヴェンは左右を見回す。
そして――
自分の胸を指差した。
「俺に言ってる……?」
「説明するわ。」
ナイリスは彼を見る。
「ハイヴェン。」
「あなたには、まだユルヴァナがない。」
「でも、その代わり……桁外れの量のアルケトラを持ってる。」
「運用効率だって悪くない。特殊ヴィラを、苦もなく発動できるほどにね!!」
「正直、私は今まであなたみたいな人を見たことがない。」
「これだけの資質を持っていながら、今になってもユルヴァナを持っていないなんて……本当に不可解よ。」
「普通なら、これほどの素質を持つ人間は天才と呼ばれて……十歳になる前にはユルヴァナを手にしているはずなのに!!」
「それなのに――」
「あなたは八歳の頃からアルケトラを持っているのに、いまだに赤きエメラルド・ユルヴァナの兆しすら、ほんの僅かも見せていない。」
ナイリスは一度、剣へ視線を落とす。
「そこで考えたの。」
「クリシダの剣を改造して、二重ヨルカーヴァにすれば……」
「ジュターでも、大量のアルケトラを燃焼させる代わりに、その力のほんの一部なら引き出せるんじゃないかって。」
「本当にあなたに合うかどうかは、私にも分からない。」
「でも、特殊ヴィラを発動できるあなたなら……多少は望みがある。」
「だから――」
「試してみない?」
ハイヴェンは剣を受け取る。
背筋を伸ばして立ち――
静かに目を閉じた。
意識のすべてを、アルケトラの流れへ集中させる。
そして――
アルケトラを剣へ流し込み、刃を研ぎ澄ませるように満たしていく。
数秒後……
剣に刻まれた紋様が、淡く輝き始めた。
周囲のアルケトラが剣へと集まり――
オーラとなって、その刀身を包み込む。
そして、その勢いは……
少しずつ。
少しずつ――
強まっていく。
ナイリスの目が輝いた。
「成功した!!」
心の中で、思わず叫ぶ。
だが――
その喜びは、ほんの一瞬だった。
オーラが剣を越え……
ほとんどハイヴェンの全身を包み込み始める。
その瞬間――
ナイリスの瞳孔が縮んだ。
「私は、普通のジュターでも扱えるように……かなり出力を落とす改造を施した。」
「特殊なジュターでさえ、大量のアルケトラを燃やしたとして……」
「最大でも、その力の五パーセントを引き出すのが精一杯のはず……!」
「なのに……」
目の前で渦巻くオーラを見る。
「この大きさ……」
「この強さ……」
「もう十パーセントを超えてる!!」
その思考を遮るように――
ハイヴェンの身体が、ぐらりと揺れた。
ガランッ!
剣が手から落ちる。
同時に、全身を覆っていたオーラも消え去った。
「っ……!」
ハイヴェンは片膝をつく。
全身を汗に濡らしながら――
激しく咳き込んだ。
「ゴホッ……ゴホッ!!」
血が、口元から飛び散る。
激しい咳の合間に、彼は自嘲するように呟いた。
「くそ……」
「調子に乗った……」
「ヨルカーヴァから限界まで力を引き出してみたくて……わざとアルケトラの流れを制御しなかった……」
「ゴホッ!!」
激しい咳が、言葉を遮る。
「でも……」
「何だ、この感覚……」
「まるで俺は……」
ようやく咳が収まる。
その直後――
ゴンッ!!
「痛っ!?」
ナイリスの拳が、ハイヴェンの頭へ落ちた。
「この馬鹿!!」
「アルケトラの流れを制御する方法すら知らないの?!」
一瞬言葉を止め――
さらに声を荒らげる。
「……違う!」
「わざとやったのね!!」
「少しばかり人よりアルケトラが多いからって、自分を何でもできる龍だとでも思ってるの?!」
「死ぬ気なの?!」
「…………」
ナイリスは数秒の間、荒く息を整える。
やがて――
深いため息を吐いた。
「Anyway……」
「このヨルカーヴァを使うときのアルケトラの流れを、もっときちんと制御できるようになれば……」
「一分以上は、十分実戦的な力を使えるはずよ。」
「ユルヴァナを持たない人間が遭遇するような危険なら、それだけあれば十分すぎる。」
そして――
ナイリスの声が強くなる。
「でも、もう一度言っておくわ。」
「これは、あなた自身の能力じゃない。」
「これが、あなたの本当の実力でもない。」
「一分。」
「それが限界よ。」
「それより前に必ず退いて、使用を止めなさい。」
「そして使ったあとは、十分に休むこと。」
「偽物の力のために、命まで懸けないで。」
「使うのは……本当に命が危険に晒されたときだけ。」
そう言い残し――
ナイリスは背を向け、家へ向かって歩き始める。
「今日はもう、アルケトラをかなり使ったんだから。」
「アンティラ山脈に着いたら、ちゃんと休みなさい。」
だが――
数歩進んだところで、突然足を止める。
振り返ったナイリスは――
先ほどまでとは違う、鋭い眼差しをハイヴェンへ向けた。
「それから……」
「あのアレスって男。」
「最大限、警戒しなさい。」
「彼は……あなたに、たくさんのことを隠している。」
一瞬の間。
そして――
「それどころか……」
「あの男には、本当にあなたを殺せるだけの力がある。」
「…………」
そう告げると、ナイリスは再び家へ向かって歩き出した。
そして最後に――
振り返ることなく言う。
「Anyway、あまり無理しないこと。」
「あなたには……十分すぎるほどの才能があるんだから。」
「気をつけて行ってらっしゃい。」




