第3話 そのテの玄人-2
「――なるほど。それは……今以上に?」
グラスの中は氷ばかり。
溶けた氷は、いつも予兆なく音を立てて瓦解する。
「え?」
女は、一瞬、戸惑った顔をした。
「それは……どういうことですか」
やり方としては、簡単だ。
溶けた氷ごと、グラスを飲み干させる。
薄い酒は、量を飲むものだ。
吐き散らかすほど、飲ませたらいい。
「そのままの意味です」
女の戸惑いに、薄く喜色が混じる。
「今のままでも、十分魅力的だと思いますが」
俺はそこで、初めて笑って見せた。
女の左手が頬へ戻りかけて、途中で止まる。
首を傾げることも忘れている。
口元だけが、先に反応していた。
笑っていいのか。
照れていいのか。
疑っていいのか。
そのどれを選んでも、自分がそういうものを欲しがっていたことになる。
人間は、自分だけに向けられたように見える顔に弱い。
たとえそこに、特別な意味などなくても。
誰にでも、同じ角度で出せる、よく馴染んだ笑みでも。
「えっと……」
女は、そこでようやく声を出した。
俺は、答える代わりに、目を少しだけ伏せる。
肯定に見える程度に、淡く。
その目の端で、浅間を覗く。
浅間は、怒りを飲み込んだような顔で、俺の方を見ていた。
目が合った。
瞬間、浅間が目を逸らした。
目を逸らしたところで、この箱庭には、逃げ込める隅はない。
正面では、女が、惚けたような笑みを隠しきれずにいる。
欲望は、安全地帯からは転がり落ちてこない。
少し高いところに置く。
背筋を伸ばさせる。
自分が見られていると思わせる。
そこからは、指先で触れるだけで、もう重力に逆らうことはない。
あとは勝手に落ちてくる。
一杯飲むたび、一枚剥げる。
女は、小首をゆっくりと傾げた。
「あの、全然、そんなことないです、わたし」
「少なくとも私には、あなたがそう見えています」
「営業さんみたいな人に、そんなこと言われると……」
その言葉尻に、湿り気が乗る。
湿っていようが乾いていようが、俺にはどちらでもいい。
俺みたいな営業にとっては、そんなことも、へったくれもない。
次から次へ、注ぐだけのこと。
「はじめ、すごい怖い人かと思ったから……急に、びっくりしちゃって」
「はじめからちゃんと見ていたつもりですよ」
二杯飲めば、二枚剥げる。
浅間は、膝の上で手を握りしめている。
その手が、わずかに震えていた。
顔には出さないでいるつもりらしい。
「見てた、って……」
俺は女の胸元を、手で指し示した。
「たとえば、そのシルクのブラウス。よくお似合いです、とか」
女の視線が、俺の手の先を追う。
それから、自分の胸元へ、視線が落ちた。
三杯目。
三枚剥げれば、だいたい下地が透けてくる。
それが化繊だろうが、シルクだろうが、俺には関係ない。
女がそう扱われた顔をするのなら、それで足りる。
浅間は、俺の指先から視線を外した。
こいつ何やってんだ。
何を見せてくるんだ。
気持ちが悪い。
信じられない。
おそらく、そんなところだろう。
頭に血が昇っている。
顔が、目元から紅潮している。
だが、女からはそう見えない。
若い男が、自分を見て、高揚しているように見えるだろう。
そして、浅間は、決して不細工なつくりではない。
浅間が若く、まだ客前の顔を作れないのは、俺が一番知っている。
こいつは、反応が、そのまま出る。
依頼人の視線が、浅間へ流れた。
やはり、悪い気はしていない顔だった。
使えない顔ではない。
御名答だ、浅間。
「浅間、どこを見ている。失礼だ」
「あ、わたしは全然……大丈夫です」
女は、そう言って、リボンタイを軽く整えなおした。
浅間は、女へ頭を下げる。
下げたうなじに、冷や汗が浮いている。
女は、浅間の様子を、自分に値がついた証のように眺めていた。
たしかに見られた。
見られて、それでも咎められてはいない。
小さく頷いてから、俺の方へ向き直った。
自分はちゃんとしている。
自分は場に適している。
自分は悪目立ちしていない。
自分は減点されない。
自分は好印象の範囲に収まっている。
これがこの女なりの正解だ。
正解ではあるけれど、その実、願いの芯は、もっと澱に沈んでいる。
それは、安い酒場の濁った氷に似ている。
「あなたにも、色んな顔があるのでしょう」
「……あります、ね」
欲望の輪郭をなぞるのならば、何も無理にこじ開ける必要はない。
自分で開いたと思わせればいい。
「色んな顔は、それでも、全てあなた自身だ」
「そう、なんです」
濃くなりたいわけではない。
強く残りたいわけでもない。
ただ、自分の魅力を、あるがままとして、知らしめたい。
吐きたかったら、吐くといい。
「でも、見せつけたいとか、知ってほしいとか、そういうことじゃなくて……」
「ええ」
「自慢したいとか、そういうことでもなくて」
「でしょうね」
「ただ、伝わってほしいんです、どこでも。誰にでも」
「そうですよね」
「見たひとが、勝手に分かってくれたらいいなって」
「難しくもないことです」
女は、止まった。
「……そんなこと、できるんですか」
「はい。できますよ」
女の喉が、小さく動いた。
けれど、視線はもう泳がなかった。
右の人差し指も、爪の縁を撫でていない。
「だから、それって、自然な感じで、ですか」
「もちろん」
自然。
便利な言葉だ。
人間は、自分の望んだ結果だけを自然と呼びたがる。
「わたしの、気遣いとか、そういうのを、みんなが気づいてくれるんですか」
「あなたが、そう望むのなら」
俺は、懐から名刺入れを出した。
そこから紙片を一枚、静かに引き抜く。
女の視線が、それを追った。
もう、頬を覆う手はない。
首も傾げていない。
「あなたの魅力が、しかるべき場面で、しかるべき相手に伝わるように」
テーブルの、ちょうど中間に名刺を置く。
女の腕が、躊躇を含んだ早さで、そこに伸びる。
「信じなくても構いませんが」
俺は、女の指先が名刺の縁へ近づいていくのを待った。
浅間は、瞬きもせずに、こらえるように唇を噛んで、見つめている。
「試してみますか?」
「……」
右の人差し指の爪が、名刺の端を撫でる。
紙の角が、音もなく、ほんの少し捲れ上がった。
遅れて、小さく千切れた。
女は、それに気づいていない。
気づく必要もない。
こちら側では、それでもう十分だった。
浅間は、茫然と黙っていた。
「……お願いします」
女は、そう言った。
言ってから、少し恥ずかしそうに笑った。
「わたし、変わりたいとか、そういうのじゃないんですけど」
「ええ」
「でも、なんか……ちゃんと、伝わったらいいなって」
「伝わりますよ」
俺は、最後にもう一度だけ笑った。
今度は浅く、あまり甘くならないように。
「では。そのように、承りました」
商談は、それで終わった。
依頼人は、来た時よりも少しだけ背筋を伸ばして応接室を出て行った。
バッグの口からは、例の雑誌の赤い文字が覗いたままだった。
しかし、その顔には、もう先ほどまでの緊張や、艶めかしさはない。
飲んだ。出した。すっきりした。
ずいぶん、満足そうな表情だった。
応接室の扉が閉まる。
浅間は、しばらく動かなかった。
「浅間」
声をかけると、浅間はびくりと肩を揺らした。
先ほどの紅潮と打って変わり、ずいぶん顔色が悪い。
目元だけが赤く、口元が白い。
「景気の悪い奴だな、マジで」
「いや、えっと」
声が掠れている。
「……すみません、あの」
浅間は、言い終わる前に立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「少し、席を外します」
返事を待たずに、浅間は応接室を出て行った。
足取りは速い。
だが、走るほどではない。
まだ客前の廊下だということだけは、どうにか覚えているらしい。
少し遅れて、廊下の先で聞き慣れたドアの音がした。
「あー……なるほど」
さすがに、そこまでは読み取れない。
俺は、あくびをして、首を鳴らした。
真新しいヒールの音は、もう聞こえない。
受付の方へ、声を軽く張る。
「……相殻、片付けよろしく」
三人分の飲みかけのグラス、水滴。
そして、名刺の千切れた端。
まずい酒でも、お酌付きで次々飲めば、さて勘定はいかほどになるのか。
――
応接室を出てすぐ、俺はトイレへ駆け込んだ。
嘔気と小便と、どちらも強烈だった。
手洗い場の奥にある小便器まで行くのも待てずに、ベルトに手をかけはじめる。
その時になって、ようやく、自分の手が震えていることに気づいた。
やばい。
漏れそうなのに、脱げない。
さっきのことを考えようとした。
けれど、そんな余裕はなかった。
尿意が、全部押し流した。
力任せにベルトをもぎ取り、ジッパーを下ろす。
幸い、間に合った。
個室にこもるほどの吐き気じゃなくて、よかった。
だけど、気持ちが悪い。
でも、たぶん、これは吐きたいのとは少し違う。
胃の中身が上がってくるというより、応接室Bの空気が、鼻にも口にも、胃にも肺にも、身体の内側ぜんぶに無理やり入ってきたような感覚だった。
さっきの光景が戻ってくる。
蝿川さんの指先。
依頼人の視線。
目が合った瞬間の、蝿川さんの顔。
あれは、分かっていた顔だった。
自分が怒っていることも。
気持ち悪がっていることも。
なのに、俺はいったい何に使われたのかが分からない。
だけどあの人は、ひっくるめて、ぜんぶ分かっていて使った。
「……なんだよ」
小さく呟いた声が、タイルの壁に当たって返ってくる。
出し切るまで。
思い出すには十分な時間だった。
どうにか身支度を整えて、洗面台の前に立った。
鏡に映った顔は、自分で思っていたより、だいぶ疲れた顔だった。
蛇口を捻る。
水が出る。
手を洗う。
指の間を擦る。
爪の縁を洗う。
なるべく丁寧に洗いたかった。今は。
顔も洗っておこう。
なんとなく、それがいいような気がする。
手のひらに溜めた水を、乱暴に顔へ押しつける。
額から頬へ、水が落ちる。
目元の火照りが、少しだけ引いた。
鏡の中の自分は、それでもまだ赤い顔をしていた。
そのとき、ふと、匂いがした。
洗面台の縁から漂ってきた。
木と苔と、湿った土の匂い。
蝿川さんの香水だ。
この匂いも、悪かった。
昼間のオフィスではそうそう嗅ぐことのない、やたら濃くて悪いにおい。
……違う。
同じ匂いのはずだった。
ものすごく似ている。
けれど、同じにおいではない。
ここに残っている匂いは、もう少し乾いている。
応接室Bに満ちていたにおいは、もっと湿っていた。
香水の奥に、何か別のものがあった。
甘さではない。
汗でもない。
もっと奥の方で、忘れられて、熟れ切って、わずかに傷んだもの。
腐臭。
そんなはずがない。
もう一度、水を出す。
手を洗う。
顔を洗う。
もう訳が分からない。
怒っていたのか。
恥ずかしかったのか。
酔っていたのか。
ぜんぶだったのかもしれない。
排水口へ流れていく水の音を聞いていた。
俺はしばらく、鏡の前から動けなかった。
――
わたしは、今日はいつも通り出勤した。
昨日、相談に行くのに有給を使ってしまったから、残りがあと四日。
少し心許ない日数になってしまった。
美容室も、ネイルも、予約を取るのがちょっと大変だから。
観葉植物に水をあげる。
誰かが昨日、あげていたみたいだ。
鉢皿から水が少しこぼれてしまった。
余計なことをしたのかもしれない。
そう思いながら、コピー機の横に空き箱を畳んで置いた。
畳んでいるときに、爪が少し欠けてしまった。
それもしょうがないかな、仕事だし。
「また紙、補充してくれてる」
コピー機の前で、誰かが言った。
わたしは気づかないふりをして、給湯室へ向かった。
聞こえていないくらいが、ちょうどいい。
自分から言うことじゃないのは分かってる。
でも、誰かが気づいてくれるなら、それは悪いことじゃない。
「ほんと、気が利くよね」
「ね。ちゃんとしてる」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
もしかしたら、昨日の冗談みたいな相談が、本当のことになったりして。
指先が、少し浮いた。
「でも、ああいうのさ」
次の声は、少し小さかった。
「気づいてほしくないふり、うまいよね」
足が止まった。
「わかる。誰も見てないところでやってます、って感じ」
「いや、助かるんだけどね」
「助かるんだけど、気づかれるところに置いてあるじゃん。補充後の空き箱とか」
笑い声は、大きくなかった。
悪口というほどでもなかった。
だけど、それは、わたしのことじゃないかもしれない。
だからこそ、振り返れなかった。
とある日は、給湯室で、息抜き用の紅茶を淹れていた。
同僚は、食べ終わったお弁当箱を洗っている。
「ねえ、まつ毛変えた?」
「え、わかる?」
「うん。前より、ちょっとカールきついね」
水の音に混じるくらいの、普通の声だった。
きつい。
その言葉が、耳の奥に残った。
褒められたのかどうか、すぐには分からなかった。
分からないまま、昼休みのあいだ、何度もスマートフォンの黒い画面に自分の目元を映した。
くぼんできたまぶたには、確かにカールが強く見えた気がした。
別の日は、合コンの予定が入っていた。
本当は行きたくない。
こういうところで、痛い目を見るのはもう嫌だから。
だから、正解の格好を選ぶ。
男性に安く見積もられないように、きちんと整えていく。
派手すぎず、地味すぎず。
若作りに見えず、老けて見えず。
安く見えず、気合いが入りすぎても見えない。
どれも、間違っていないはずだった。
「あ、先輩。それ、新作のリップですね」
「そう。こないだ買ったばかりなの」
「気合い入ってますね」
後輩は、悪いことを言った顔をしていなかった。
その目元には、皺もくすみもなく、綺麗にハイライトが載っていた。
「そうかな。普通だよ」
だから、わたしは笑うしかなかった。
場がほどよく温まってきたころ。
お手洗いに立ったとき、男子トイレの前で、聞こえてしまった。
「あの子、顔はいいけどちょっと歳いってんね」
「スタイルもいいんだけどな」
「お前それ本気で言ってる?あの子の膝の裏、見た?」
もしかして、わたしのことだろうか。
膝の裏って、なんだろう。
自分の膝の裏なんて、見たことがない。
女子トイレの個室で、スマートフォンのカメラを起動した。
何度も角度を変えて、ようやく写った。
白っぽい筋が、皮膚の下で折り重なっているように見えた。
皺なのか、影なのか、最初は分からなかった。
ダイエット、すごくがんばった。
がんばって、綺麗になったと思っていた。
そんなところに痕跡があったなんて、わたしは本当に知らなかった。
――確かに、あの日から、だった。
良かれと思ってやったことが、すべて周りに筒抜けになっている。
見てもらいたいところより、取り繕った過程ばかりが、額に入れられている。
前までは、こんなこと、耳に入ることも、気にしたこともなかったのに。
欠けた爪も、強いまつ毛も、新しい口紅も、膝の裏の肉割れも。
他人からの評価が積み重なっていく。
わたしであって、わたしじゃない努力に対する、いやらしい評価ばかりが。
何をやっても、裏目に出る。
正解の裏は、不正解?
じゃあ、不正解の裏は、正解なの?
好きの反対は、無関心なんじゃなかったの?
わたしは、あの日、何をしに行ったんだっけ。
あのひとに、何を願ったんだっけ。
あのひとは、わたしの何を聞いたんだっけ。
わたしは、どうしたらいいか、わからなくなってしまった。
わからなくなってしまって、泣いてしまった。
いっそ、泣き顔ごと愛してくれる人を、さがそうか。




