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第3話 そのテの玄人-1

 蝿川は、厭きていた。


 商談が開始して、一時間を過ぎている。

 正確に言えば、一時間十二分。


 浅間は、蝿川の方に視線を向ける。

 浅間が何を言いたいのか、蝿川は分かっているようだった。


(この方、同じ話を行ったり来たりしています)

(いつまでこの状況が続くんですか)


 蝿川は、この一時間超、ため息を一度もついていない。

 小さな身振り手振り、頷きのタイミングに遅れが生じることもない。


 だが厭きている。

 かなり、厭きている。


 しかし、その態度を噯にも出さず、ひたすらに聞いていた。

 あるいは、応えた。


 さ、し、す、せ、そ。


 さすがです。

 知りませんでした。

 素晴らしいです。

 センスがいいですね。


 蝿川は、依頼人の仕草をもう十分に拾っているようだった。


 何かを思い出しているときには視線が左へ動く。

 後ろめたいことがあるときは左手で頬を覆う。

 同意を求めるときは首を少し傾げる。

 右の人差し指の爪を撫でるのは、答えを選べていない時だ。


「だから……どこにいても、すごくいい感じに見える、っていうか」


 同じ動作が、何度も何度も反復される。

 蝿川は、それでもじっと見続けていた。


 蝿川は、相槌を打つタイミングで、腕時計を覗いた。

 午後二時十三分。

 これで、一時間十三分。


「そうなんですね」


 蝿川は、待っていた。





――


 この日の正午過ぎ。


 決まりきった事務処理もそこそこに、早めに昼食を済ませ、蝿川は手洗いへと向かった。

 十三時からの商談に向けて、身嗜みを整えるためである。


 今回の依頼人は、女性向けファッション雑誌の占いページに掲載されていたという広告を見て、相談に来たらしい。

 そのことは、相殻から既に聞いていた。


 雑誌名を聞いたところ、二十代後半から三十代がターゲットの、OL向けの内容だった。

 古い言い方をすれば、赤文字系に近い。

 今どき、その分類がどれほど通じるのかは知らない。


 ただ、妙齢の女が欲しがる正解なんて、そう大きくは変わらない。

 それくらいの前情報があれば、事足りる。


 手を洗う。


 冷水で顔を洗いなおす。

 顎のラインを、指先で確かめる。

 前髪を、手のひらで撫で付けなおす。

 ネクタイを締め直す。

 人差し指でディンプルを整え、タイピンを挟む。

 結び目の下に、浅い影ができる。

 だらしない襟元は、普段とあまり変わらない。

 だが、崩れているのと、崩しているのでは訳が違う。


 蝿川は、昨晩飲みに行ったキャバレークラブのことを思い出していた。

 名前は覚えていない。

 けれど、隣についた女が、グラスを置く時の角度だけは覚えている。

 指先を揃えて、少しだけ手首を返す。

 ただ水滴を拭くだけの仕草が、まるでこちらのために何かを整えたように見える。

 ああいうのは、使える。


 もう一度、手を洗う。


 腕時計の盤面をハンカチで拭う。

 十二時四十四分。


 仕舞いに、オードパルファンを半量だけ吹く。

 香りを潰さぬように、指先で軽く馴染ませる。

 木と苔と、湿った土を模した匂い。

 百貨店の一階を通り過ぎた後に、脳の奥に染みついてくる、濃い男物の香り。


 つけすぎると、下品になる。

 足りないと、残らない。

 直視に困るものは、纏うだけに限る。


 蝿川は、手洗いを出た。

 廊下で待たせていた浅間に声を掛ける。


「おい、来い。顔」

「……それ、やめてもらえませんか」


 浅間は、もたれていた壁から身体を起こし、不服そうに、その顔を上げた。





――


 今回は応接室Bで通すことにした。


 ここは、メインの応接室ではない。

 Aより手狭で、テーブルも一回り小さい。

 椅子と椅子の距離が、かなり近い。

 窓も採光用の小窓しかないため、さしずめ小さな箱庭、といったところだろう。


 この親密と侵食を取り違えそうになる距離感。

 それが、今回の客にはちょうどいい。


 ここは逃がすほど広くない。

 けれど、追い詰めるほど狭くもない。


 広い部屋に置けば、散る。

 声が薄まる。

 狭すぎれば、縮む。

 身構える。


「本日、担当いたします。営業部の蝿川と申します」

「同席させていただきます。営業部の浅間と申します」


 たっぷり間をとって、頭を下げる。

 浅間は、少し遅れて、追いつくように頭を下げた。


「……よろしく、おねがいします」


 依頼人は、椅子の前に立つ俺たちを見上げながら、そう言った。

 抑揚に欠けた言い方に、どうもそぐわない幼さが滲んでいる。


 依頼人は、まあ予想通りの風体をしていた。


 歳の頃は、やはり妙齢。二十代後半だろう。

 化粧は今どきで、流行りの色に染めた長い髪を、ハーフアップにしている。

 薄手のブラウスは、身体のラインをほどよく拾う。

 同じ布のリボンタイまでついていて、品を押しつけるような雰囲気があった。

 平均的な身長に、標準よりもいくらか細身の体型。

 ただし、健康的な痩せ方ではない。


 発音の幼稚さが、女としての意図を含んでいるのかどうかは、身体の端を見ればだいたい分かる。


 上から眺めると、スカートの下から伸びるふくらはぎに、うすく脂肪が乗っているのが見て取れた。

 揃えられた指先。ネイルの根元には、三ミリほど地爪が露出している。

 膝を閉じる習慣は、あまり身体に入っていない。

 パンプスに汚れはないが、下ろしたてだろうか。

 足の親指の付け根が、ほんのりと赤くなっている。


 椅子の横に投げ出されたバッグからは、例の雑誌らしき表紙がはみ出ている。


「本日は、お越しいただきありがとうございます」

「はい……」


 音が立たないように椅子を引き、腰掛ける。

 浅間もそれに続いた。


 俺は、この時点で、まだ笑わない。


「では、お話をお聞かせいただけますか」


 アイスブレイクも入れない。

 警戒は残しておいた方が、これには後々効く。

 信頼も信用も、今は育てる必要がない。


「……ええと、あの。わたし、こういうの初めてで……。何から話せばいいのか」


 依頼人の視線が、戸惑うように左へ動く。


「なんでも結構です。思いついたことからでも構いませんよ」

「そうですか?」

「ええ」


 依頼人は、俺と浅間を交互に見た。


 浅間は、か弱そうな女を前にして、この室内の緊張を持て余している。

 顔の役割を誤認したのか、愛想笑いをかまそうとしているらしい。

 口端が、半端に引き攣っている。


 一瞬、浅間を見た時間が長かった。

 まあ、それでいい。


「実は、占いのページを読んでたときに、ここの広告見つけて」

「そうでしたか」

「なんでも願いが叶うって。嘘かなって思ったんですけど」


 左の手のひらが頬を覆う。


「はい」

「『印象がよくなりたいあなたに』って、一緒に書いてあって、それで」

「ええ」

「なんか、パーソナルカラー診断とか、そういうのかなー、みたいな感じで来ちゃったんですけど」

「はい」

「ちょっと違う感じですね」


 小さく、首を傾げる。


「なので、願いが叶うって何かな、って。とりあえずそこから知りたいかなって」


 また、小さく首を傾げる。


 印象がよくなりたい、という文言につられて来た依頼人。

 よくある願い。

 見た目通り。


 人間であれば、この依頼人に限らず、ほぼ誰だって一度は躓く類の面倒臭さだ。

 こういうレッテルを選んで着ている女なら、尚のこと。


 本人の纏うものは、別にどれも間違ってはいない。

 正解を選んでいるはずなのに、一挙一動にさまざまな不正解がついて回っている。

 では、正解をセレクトできる、その根拠はどこにあるのか。

 バッグからしな垂れる、表紙の赤い文字。


「そのままの意味です」

「へえ……」


 依頼人は、親指で人差し指の爪の縁を撫でている。

 感心した顔と、困った顔の中間を作っている。

 それは、理解できなかったことを悟らせないための反応でしかない。


 つまり、薄い。

 場末の店のハイボール並みに薄い。

 氷で薄まって、炭酸すら抜けている、あの味気のなさが口蓋に残る。

 例の味。


「本当にそのままです。ここでは、あなたの願いを叶えることができます」

「うそ。やばい」


 依頼人は、眉を寄せながら笑った。


「ご安心ください。最初から具体的である必要はありません」

「ちょっと信じられません」

「信じられなくても大丈夫です」

「だって、意味がわからないです」

「ですので、信じなくても結構です。ただ、せっかくお越しくださったのですから」


 再び、右の人差し指を、親指で撫でる仕草。

 まるで、爪の触り心地を確かめているようだった。


「お話だけでも、聞かせてください」


 浅間は、いよいよ怪訝そうな目尻を隠しきれていない。

 だが、言いつけどおり、口を結んだまま、依頼人の落ち着かない手元を見つめていた。




 そこからは、依頼人はよく話した。


 ――悪く見られたくない。

 職場での話。

 けっこう、仕事はがんばってる方ですし、小さい気遣いもできるタイプだと思ってます。

 営業さんが外回りから帰って来たら、最初に声かけられるのって、なぜだかわたしなんですよね。


 ――必死に見えたくない。

 合コンでの話。

 本当は行きたくなかったけど、どうしてもって連れて行かれた合コンがあったんです。

 なんか合コンって、必死になって異性を探しているように見えるじゃないですか。

 わたし、そういうのは自分に合ってないって思うんです。


 ――ちゃんとして見られたい。

 成人としての話。

 わたしも、そろそろ人生設計を考えなきゃいけないなと思っていて。

 まだ二十代だし焦ってはいないんですけど、家庭のある友だちを見てると、そろそろかなって思うんです。仕事と家庭の両立も考えないといけないし、女って大変ですよね。


 ――微妙に浮きたくない。

 友人間での話。

 その友だちと話してると、話が合わないなって思うことが増えてきちゃったんですよね。

 家庭にずっといるひとと、外で働いてるひと。やっぱり価値観が変わるのかなって。


 ――減点されたくない。

 美容院での話。

 最近、頭皮ケアとか、白髪とか、髪以外の話をされることが増えたんです。

 今までそれで悩んだことなんてないのに、年齢だけで言われてるみたいで嫌なんです。


 ――場をうまく通りたい。

 ファッションビルでの話。

 店員さんに必ず声をかけられるんです。でも、少し面倒なんですよね。

 ベージュかホワイトで悩んでると、もっとお肌の色味に似合う色がありますよ、と奥からピンクを出して来てくれたりとか。


 ――なんとなく良い印象でいたい。

 誰にでも好かれていたいという話。

 わたしは、人間がすごい好きなほうで。職場でも、友だちの集まりでも、どこでも。

 わたしがいたら、なんとなく場が明るくなるみたいな、そういう印象でいたいんですよね。



「なんか、わたし、こんなにいっぱい願いがあったんですね」

「そのようですね」


 ひとしきり話し終えたあと、依頼人は左手で頬を覆いながら、視線も左に泳いだ。

 まだ話し足りない。

 けれど、話しすぎたとは思っている。

 そういう顔だ。


 さて。

 商談が開始して、一時間を過ぎている。

 正確に言えば、一時間十二分。


 浅間は、俺の方に視線を向ける。

 浅間の言いたいことなど、とうに分かっている。


 この方、同じ話を行ったり来たりしています。

 いつまでこの状況が続くんですか。

 どの願いを汲み取るんですか。

 そういう顔だ。


 俺は、この一時間超、依頼人を落胆させるような態度は一度も取っていない。

 小さな身振り手振り、頷きのタイミングは、ただの反射でしかない。

 それで気を良くするなら結構だ。

 依頼人は、まだまだ話を続けられそうではある。

 しかし、核心はずいぶん遠いところを回っている。


 つまり、まだ厭きていることを悟られていない。

 それだけ、厭きている。


 浅間にはまだわからないだろう。

 こういう薄くて味の足りない手合いには、それなりのやり方がある。

 どうせ回る核心なら、酔いと一緒に回るようにすればいい。


「だから……どこにいても、すごくいい感じに見える、っていうか」

「そうなんですね」


 相槌を打つタイミングで、腕時計を覗いた。

 午後二時十三分。

 これで、一時間十三分。


 どこにいても、すごく、いい感じに。


 俺は、じっと待っていた。

 この女が、ようやく、願いを正しく言い間違える瞬間を。

 そこへ、酔いを一滴落とすタイミングを。

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