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第2話 大人のマナー-2

「ただいま戻りましたー」


 十時を少し過ぎたころ、蛸井さんが戻ってきた。

 銀行の封筒で首元を扇ぎながら、もう片方の手にはコンビニのアイスコーヒーを持っている。


 ちなみに、俺は、まだマニュアルのリンクを開いたり閉じたりする作業に没頭している。

 本来の目的を忘れかけている。


「もー、あっついあっつい。銀行、空調負けてた」


 蛸井さんの、よく通る張りのある高い声が、三階に響く。

 その一言で、外に置いてきたはずの暑さが、また社内に戻ってきた気がした。

 文字でパンクしかけている頭に、ちょうどよく響く温度だった。


「負けてたってなんだよ」

「空調どころか全てにおいて敗北。もうさ、暑いしさ、人はうじゃうじゃいるしさ、振込は詰まってるしさ……五十日、最悪。キライ」

「ネットバンキングにすりゃいいじゃん」

「現ナマだってあるんですー」

「ふーん」

「それにしても会社は涼しいねー。最高だねー。もう一生外出したくないねー」


 蛸井さんは、席に戻りがてら俺のモニターを覗いた。


「……なに、浅間っち。回路見てんの?」

「え、あ」

「マニュアル?」


 返事をする前に、蝿川さんが横から蛸井さんを奪った。


「それより、蛸。どうだった?」

「急になに?どうって?」

「昨日の。激早成立のやつ」

「ああ」


 俺の蛸井さん。


「ん。まあまあだったよ。……あ、ちょっとパソコン貸してね」


 そう言うと、蛸井さんはコーヒーを置き、俺のPCのマウスを操作し始めた。

 一瞬で切り替わっていく画面。

 すぐさま表示される、例のログ。


「回収値ぴったり3U、商談所要時間52分。蝿川くんのUは0.13」

「浅間のは?」

「0.32。ま、初めてだからしょうがないね。残工程分、あたし含め合計0.25。以上」

「他残存項目は?」

「それは営業が各自確認すべき範囲です。あたしは結果の数字だけだよ」

「ま、後で直接聞くわ」

「蝿川くんのコストが少なかったね。粗利、ざっくり悪くなさそうね」


 蛸井さんは、マウスからそっと手を離して、片手を小さく立てた。


「ありがとう、浅間っち。勉強してたのに借りちゃってごめんね」

「……どこまで読んだか、忘れちゃいました」

「あら……」

「ぷ。お前、それちゃんと読んでねーからだろ」


 蛸井さんは悪くない。蝿川さんは……。

 向こうの方から、保田さんが小さく笑ったような声が聞こえた。


「ふふ。蝿川くん、優しく教えてあげてね」

「十分優しいっすよ」


 放置されていたのに。蝿川さんの優しい、とは。

 蝿川さんに視線を飛ばしたが、当の本人は保田さんの方を向いていて、こちらを見もしなかった。


「でさー、浅間っち、どうだった?」

「え?」

「蝿川くんの商談、同席したんでしょ」


 蛸井さんは、ようやく自分の席に戻れた。

 蛸井さんの席は、俺と蝿川さんの、背中合わせの島の真ん中だ。

 両隣のデスクには、色々な資料が積み重なっている。


「参考になった?」

「えーと、はい……あ、とても」


 依頼人の顔と、蝿川さんの笑顔が、交互に頭によぎった。

 参考どころか、すごく勉強にはなった。

 だけど、それ以上に気分の悪いものだった。

 とは、とても言えない。


「生の商談記録、珍しいなと思って眺めました」

「……珍しい?」

「そうだよー。ふだん、わざわざ生で残さないんだけど。音声記録あるし……」

「蛸ー」


 蝿川さんが、蛸井さんを止めた。

 俺は蝿川さんの方を見た。


「……じゃあ、昨日のあれは、俺は何を入力していたんですか?」

「……一般的な新人研修ですが?」

「わざわざ書かせる必要、あったのかなー?」


 蛸井さんが、アイスコーヒーを混ぜながら言った。

 氷がかちゃかちゃと鳴る。


「蝿川くん、自分の報告、楽にしたかっただけでしょ」

「蛸ぉー」


 この人は、もしかしたら、俺が思っていたより、教育係に向いていないのかもしれない。


「教育だって、マジ教育」

「便利に言わない」

「教育にもなるし、浅間も案件整理できて、俺も報告楽になる。ウィンウィンじゃん」

「浅間っちはどう思いますかー?」


 急に振られて、俺は少し詰まった。


「……どうなんでしょうか。ウィンなんでしょうか」

「あはは。正直でよろしい」

「お前さー、上司は立てるもんだから」

「はいはい。便利な時だけ上司にならない」


 蛸井さんは、ひとしきり笑ったあと、少しだけ真面目な顔をして、俺に言った。


「ねえ、浅間っち。どうせ君が書くんだったら、昨日のやつ。ちゃんととっときなよ」

「報告書ですよね?」

「それもそうだけど、報告書に書けないほう」

「……?」

「たとえば……上司のやり口がウザいとかキショいとかキモいとかヤラしいとか」

「俺の悪口?」


 蛸井さんは、蝿川さんを無視して続けた。


「あとは、嫌な感じがした、とか。なんか、そういうのもさ」

「それ、残すんですか」

「んー。ていうかさ、君には主観も必要なんじゃないのかなって。ちょっと思っただけ」

「なあ蛸。お前、俺の悪口言ったの?」

「ん?自意識過剰?」


 主観。

 ログ読み研修では、主観を交えたことを蝿川さんに叱られた。

 ここでは、俺には主観が必要なんだと、蛸井さんに言われた。


 記録にはならないけど、消さなくていいもの。

 いいや、残していいものがある。

 蛸井さんは、そう言いたかったのだろうか。


 それで、俺は一つの違和感を思い出した。


「……蝿川さん。あの、ひとつ、聞いてもいいですか」

「あ?」

「依頼人からは、あの後コンタクトが無かったのに、成立しましたよね」

「またその話?」

「あれ、どういうことなんですか?」

「なに言ってんのお前」


 蝿川さんは、呆れたような表情に見えた。


「コンタクトが無きゃ、成立しねーだろ」

「え、それ、本人から、連絡も何も無かったじゃないですか。道端で急に成立なんて……」

「名刺渡したろ」

「渡しました」

「受け取ったろ」

「……受け取っていました」

「なら、入口が残ってんじゃん」


 入口。

 その言葉で心当たりがあるのは、名刺しか無かった。

 相手の手元に残った、あの紙片。


「入口って、名刺のことですか」

「あれもひとつ。まあなんでもいいんだけど」

「なんでもいいって?」

「向こうにこっちが残ってりゃ、入口になるんだよ」


 向こうに、こっちが残る。

 意味は分かる。

 でも、何が残ったらそうなるのかは、分からない。

 それは、ここに来たことなのか、名刺そのものなのか、商談の記録なのか。


「……でも、本人は迷ってました」

「迷ってたって、なんでお前にわかんの?」

「名刺、一度持ち帰ったじゃないですか」

「その時はな。その後に、依頼人が何を考えたかなんて、俺たちに関係ないだろ」


 蝿川さんは、あの時と同じ表情をしていた。

 心底、面倒くさそうな顔。


「本人が乗った。こっちに届いた。俺らが受けた」


 蛸井さんは、静かにうなずいた。

 蝿川さんは、そこで軽く笑った。


「はい、成立。ウィンウィン。」


 その語気は、いやに楽しそうだった。


「……俺らが、受けた」


 願いを叶えるということ。

 俺は、それがどういうことか、知っているはずなのに。


「んで、同意形成が済んだら、俺らはそこまで。そっからは法務の仕事」

「法務、ですか」

「クソめんどいジジイが出てくる」

「え?ジジイ?」

「……ちょっと待って。蝿川くんって千切さんのこと、そう思ってたの?」


 蛸井さんが、笑いを噛み殺すようにため息をついた。


「いや全然思ってねーけど、契約っつったら法務だろ。一般論、うん一般論」

「法務の人が全員めんどくさいわけじゃありません」

「だから、一般論だって」


 さっきよりも少し控えめな、保田さんの笑い声が聞こえた。


 千切さん。ジジイ。めんどい。法務。

 契約締結に関することは法務が担う。

 それは、確かに入社研修でも聞いていた。

 法務って難しそうだし、年季の入った人が担当でも、おかしくないんだろうけど。

 ……あれ、この会社。

 定年と退職金って、ちゃんとあったっけ。


 話は逸れたけど、聞きたかったことは、あらかた聞けたような気はした。

 同時に、何かを聞きそびれているような気もしている。


「はい、サルでもわかる優しい成立講座おわり」


 だけど、何を聞きそびれたのかが、分からなかった。


「んなことより、さっさと報告書終わらせろよ」

「ねえ、さっきのお詫びにさ、あたしが使い方……あ!」

「あれ」


 画面に視線を戻すと、さっきまでログを表示していた電算のウィンドウが消えていた。


「……アプリ、落ちましたかね?」

「は?」

「落ちる?」


 蝿川さんと蛸井さんが、顔を見合わせる。

 保田さんは、椅子を引いてこちらへ来た。


「……ちょっと、見せてね」


 保田さんは俺のPCの前に座ると、アプリの再起動を試した。

 黒いイルカのアイコンを一度クリックする。

 何も起きない。


 もう一度。

 やはり、何も起きなかった。

 いつもは爆速で起動するくらい軽いのに。


 保田さんが何度かクリックして、ようやく起動ダイアログが出た。

 そこには、いつもは見ない砂時計が表示されていた。


 保田さんが、画面を見たまま呟いた。


「珍しい、というか……」


 蝿川さんも、さっきまでのだるそうな顔を少しだけやめた。


「……これ、落ちたとこ初めて見たっすね」

「あたし、砂時計見たのも初めてかも」

「そうね」


 保田さんは、少しだけ黙った。


「……すぐ戻ると思うの。あとでもう一度、試してみて」


 そう言って、保田さんは自分の席には戻らず、廊下の方へ出ていった。


「僕、変なところでも押しましたかね?」

「……んー、どうだろうね。わかんないけど」


 蛸井さんは、画面を見たまま、小さくため息をついた。


 俺がわかるのは、アプリが落ちたことが、おかしな事態だということだけ。

 だけど。

 とりあえず、報告書、どうしたらいいんだろう。


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