第2話 大人のマナー-1
昨日も暑かったけど、日ごとに暑さが増している。
日本はもう終わりだ。特に東京は、もうすぐ溶けて無くなるだろう。
そんなことを、たぶん十年は毎年考えている。
今年の暑さは、過去十年で最高の出来。
記憶に残る、すばらしい出来栄え。
……ボジョレー、飲んだこと、ないけど。
だいたい、初春の時点では冷夏になるって言ってたじゃないか。
天気予報が外れるのは、傘を持っていない日だけで十分だ。
東日本橋の駅を出た時点で、シャツの背中は湿っていた。
ワイシャツの下に、何を着ればいいのかわからない。
タンクトップか、白Tか。
学生時代にはなかった悩みが、こんなところにもあるとは思わなかった。
信号待ちの間に、軽いめまいがした。
昨晩は、昨日の商談と暑さのせいで、何度か目が覚めた。
喉が渇いて、水を飲んだ。
また横になって、しばらく天井を見ていた。
扇風機は、ぬるい空気をかき回すだけだった。
常夜灯の中で、モーター音だけが響いていた。
空調の音。
同じだな。
思い出してしまう。
悪夢は見なかった。
だけど、浅い眠りのまま、朝が来た。
朝は来る。なにがあろうと、飽きもせずに毎朝毎朝。
明けない夜はないとはいうけれど、夜を明かすために、人は願いを持ち込むのだろうか。
たとえば、深夜の真っ暗な部屋で、スマートフォンのバックライトが、顔を白く照らす光景。
それが昨日の依頼人の顔で、あまりに容易に浮かんだものだから、自分にうんざりした。
会社に着くころには、首の後ろを汗が伝っていた。
乞糸商事株式会社、おはようございます。
古いレンガ調の五階建てのビルは、今日も見た目だけは涼しげに立っている。
見た目だけは。
一階の車庫には、いつも同じサクシードが停まっている。
ワイパーは立てられっぱなしで、フロントガラスには枯れ葉や砂埃が溜まっていた。
しばらく使われた形跡がない。
……洗車の業務指示が降らないことを祈る。
すりガラスの扉を押し、社屋の中に入る。
カードキーとか顔認証とか、そんなものはもちろん無い。中小なので。
エアコンの残り風が、一階にも届いていた。
ありがたい。
手のひらで、うなじの汗を拭った。
階段を上る。
二階には受付と応接室があり、三階には執務フロアがある。
その上にも部屋はあるらしいが、用もなく上がる場所ではない。
「おはようございます」
「おはようございます」
受付カウンターには、すでに相殻さんが座っていた。
開店準備さながら、三角席札の埃を払っている。
いつも早めに出勤しているようで、俺より遅く来ているのを見たことがない。
「暑いねえ」
「暑いですね」
「夏だねえ」
「夏ですね」
相殻さんの声には、いつも独特の間がある。
「今日もがんばろうねえ」
「がんばります」
何を、とは聞かなかった。
聞く前に、もう返事をしていた。
暑さにやられているのか、寝不足のせいか。
それとも階段を上ったせいか、また軽くめまいがした。
そのまま、三階へ上がった。
「おはようございます」
廊下の時点で、エアコンがよく利いている。
オフィスの奥からは、キーボードを叩く音がした。
「おはよう」
総務部長代理の保田さんだ。
この方も、いつも出社が早い。
たぶん、保田さんのおかげで、階段の先はいつも天国になっているのだろう。
上った先に冷房がある。
それだけで、だいぶ救われる。
オフィスはわりと快適だ。
古いビルとはいえ、床は張り替えられているし、蛍光灯も妙に明るい。なんならLEDかもしれない。
とにかく、外見の物々しい印象ほどは、内装はくたびれてはいない。
自分の席に鞄を置いて、椅子に座る。
PCのスイッチを入れる。
蝿川さんはまだ来ていない。
今日はアポがあるのかどうかも聞いていない。
オフィスチェアを少しだけ引いて、足で床を蹴った。
そのまま、ゆっくりクルクル回る。
冷えた空気が、頬を撫でていく。
俺は、今日は何をやるんだろう。
昨日の商談について、聞きたいことは山ほどある。
でも、誰に何から聞けばいいのか、わからない。
頭で整理しようにも、目を閉じると、空調とタイピングの音が戻ってくる。
昨日と同じ。
正直、あまり思い出したくないシーンだ。
どうせ思い出すなら、蝿川さんのご指導を、待つしかない。
回りながら、壁際のホワイトボードに目をやった。
蝿川、空欄。
蛸井、AM銀行。
浅間、内勤。
空欄。
予定、書けよ。
「――おざーす」
そう思ったところで、蝿川さんが紙袋を片手に入ってきた。
おお、ちゃんと来たか。
いや、来てくれないと、俺が一日困る。
時計を見る。始業まで、えらくギリギリだった。
朝イチだろうと、終業前だろうと、この人の声はいつもだるい。
そのくせ、本人はこの暑さの中でも、いつも涼しい顔をしている。
だらしない襟元にそぐわない、妙な清潔感がある。
汗もようやく引いてきたので、支給のジャンパーに袖を通す。
「お、おはようございます」
「……お前、何遊んでんだ」
「遊んでません」
「回ってただろ」
「回ってません」
「朝から元気だな」
昨日のおかげさまで、こっちは寝不足なんだから、俺は全然元気ではない。
蝿川さんは、緑色のロゴが描かれた紙袋から、カフェラテと甘そうなパンを取り出した。
いかにも東京の会社員という感じが、なんだか鼻につく。
「予定、空欄でしたよ」
「あそ」
「ホワイトボードです」
「じゃあ書いといて」
「知りませんもん、蝿川さんの予定」
「あれ、蛸。休みっすか」
蝿川さんは、俺と目も合わせないまま、席につきながら保田さんに尋ねた。
蛸。
蛸井さんのことだ。
「今日は二十五日よ」
保田さんは、画面から顔を上げないまま、ホワイトボードの方を指した。
「あー、銀行か」
あー、給料日だ。
すっかり忘れていた。嬉しい。
蛸井さんは経理だから、振込とか支払いとか、そういう諸々があるんだろう、たぶん。
それからしばらく、朝の業務が始まった。
蝿川さんは席についてからも、ラテを飲みながらスマホばかりいじっている。
そんな蝿川さんを横目に、とりあえず俺も業務を開始した。
メールアプリを確認し、誰からもメールが来ていないことに納得する。
それはそうだ。
支給された名刺百枚、耳を揃えてまだ箱の中にあるんだから。
ただ、今日からは少しやることが増えた。
昨日の商談記録を、報告書としてまとめる。
とはいえ、昨日の午後には、あらかた形にはしていた。
それをシステムに入力しろ、という程度の雑な説明だけは受けている。
モニターの端にある、黒いイルカのアイコン。
回路電算 v3.2。
ひどく簡素で、シンプルというか、わかりにくいというか、不親切というか。
古くさい見た目をした、社内アプリ。
誰かが社内で作ったものらしいけど、この会社のこういうところは、金がかかっているのか、かかっていないのかわからない。
地味なダッシュボード。
そして、勤怠、日報、営業支援、社内連絡、操作マニュアル。
あとは、よくわからない項目と、俺が押せないボタンがいくつか。
だいたいの仕事は、ここから始まって、ここへ戻る。
昨日の午前の研修内容も、回路電算から引っ張ってきたデータだと聞いていた。
「蝿川さん、昨日の報告書上げたいんですが」
「あ?回路?」
蝿川さんは、こちらを一瞥したあと、すぐにスマホに視線を戻した。
「日報から案件記録。営業支援でもいいけど」
「どっちですか」
「どっちでも入る」
「どういうことですかね、それ」
「どっちでも。回路だから」
効率化……されている、ということなのだろうか。
それとも、そういうものなのか、単に適当なのか、他所の社内アプリを触ったことがない俺にはわからない。
「僕、この操作、初めてなんですけど」
「マニュアルあんだろ。読めよ」
蝿川さんは、ひらひらと手を振った。
この人は、本当に俺に関する仕事をしないな。
昨日の商談中の、気色の悪い声音が嘘のようだ。
やっぱり、人の心がない。
俺は諦めて、電算の【操作マニュアル】を開いた。
そこにもまた、細かい目次と、やたら枝分かれした項目ツリーが並んでいた。
予想はしていたが、非常に見づらい。
しかも、検索機能が見当たらない。
ここから一個ずつ項目を確認していくのか……。
これ、クレームを入れる先はあるのだろうか。




