表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

第2話 大人のマナー-1

 昨日も暑かったけど、日ごとに暑さが増している。

 日本はもう終わりだ。特に東京は、もうすぐ溶けて無くなるだろう。

 そんなことを、たぶん十年は毎年考えている。


 今年の暑さは、過去十年で最高の出来。

 記憶に残る、すばらしい出来栄え。


 ……ボジョレー、飲んだこと、ないけど。

 だいたい、初春の時点では冷夏になるって言ってたじゃないか。

 天気予報が外れるのは、傘を持っていない日だけで十分だ。


 東日本橋の駅を出た時点で、シャツの背中は湿っていた。

 ワイシャツの下に、何を着ればいいのかわからない。

 タンクトップか、白Tか。

 学生時代にはなかった悩みが、こんなところにもあるとは思わなかった。


 信号待ちの間に、軽いめまいがした。


 昨晩は、昨日の商談と暑さのせいで、何度か目が覚めた。

 喉が渇いて、水を飲んだ。

 また横になって、しばらく天井を見ていた。


 扇風機は、ぬるい空気をかき回すだけだった。

 常夜灯の中で、モーター音だけが響いていた。

 空調の音。

 同じだな。

 思い出してしまう。

 悪夢は見なかった。

 だけど、浅い眠りのまま、朝が来た。


 朝は来る。なにがあろうと、飽きもせずに毎朝毎朝。

 明けない夜はないとはいうけれど、夜を明かすために、人は願いを持ち込むのだろうか。


 たとえば、深夜の真っ暗な部屋で、スマートフォンのバックライトが、顔を白く照らす光景。

 それが昨日の依頼人の顔で、あまりに容易に浮かんだものだから、自分にうんざりした。


 会社に着くころには、首の後ろを汗が伝っていた。


 乞糸商事株式会社、おはようございます。


 古いレンガ調の五階建てのビルは、今日も見た目だけは涼しげに立っている。

 見た目だけは。


 一階の車庫には、いつも同じサクシードが停まっている。

 ワイパーは立てられっぱなしで、フロントガラスには枯れ葉や砂埃が溜まっていた。

 しばらく使われた形跡がない。

 ……洗車の業務指示が降らないことを祈る。


 すりガラスの扉を押し、社屋の中に入る。

 カードキーとか顔認証とか、そんなものはもちろん無い。中小なので。


 エアコンの残り風が、一階にも届いていた。

 ありがたい。

 手のひらで、うなじの汗を拭った。


 階段を上る。

 二階には受付と応接室があり、三階には執務フロアがある。

 その上にも部屋はあるらしいが、用もなく上がる場所ではない。


「おはようございます」

「おはようございます」


 受付カウンターには、すでに相殻さんが座っていた。

 開店準備さながら、三角席札の埃を払っている。

 いつも早めに出勤しているようで、俺より遅く来ているのを見たことがない。


「暑いねえ」

「暑いですね」

「夏だねえ」

「夏ですね」


 相殻さんの声には、いつも独特の間がある。


「今日もがんばろうねえ」

「がんばります」


 何を、とは聞かなかった。

 聞く前に、もう返事をしていた。


 暑さにやられているのか、寝不足のせいか。

 それとも階段を上ったせいか、また軽くめまいがした。

 そのまま、三階へ上がった。


「おはようございます」


 廊下の時点で、エアコンがよく利いている。

 オフィスの奥からは、キーボードを叩く音がした。


「おはよう」


 総務部長代理の保田さんだ。

 この方も、いつも出社が早い。

 たぶん、保田さんのおかげで、階段の先はいつも天国になっているのだろう。

 上った先に冷房がある。

 それだけで、だいぶ救われる。


 オフィスはわりと快適だ。

 古いビルとはいえ、床は張り替えられているし、蛍光灯も妙に明るい。なんならLEDかもしれない。

 とにかく、外見の物々しい印象ほどは、内装はくたびれてはいない。


 自分の席に鞄を置いて、椅子に座る。

 PCのスイッチを入れる。


 蝿川さんはまだ来ていない。

 今日はアポがあるのかどうかも聞いていない。


 オフィスチェアを少しだけ引いて、足で床を蹴った。

 そのまま、ゆっくりクルクル回る。

 冷えた空気が、頬を撫でていく。


 俺は、今日は何をやるんだろう。

 昨日の商談について、聞きたいことは山ほどある。

 でも、誰に何から聞けばいいのか、わからない。


 頭で整理しようにも、目を閉じると、空調とタイピングの音が戻ってくる。

 昨日と同じ。


 正直、あまり思い出したくないシーンだ。

 どうせ思い出すなら、蝿川さんのご指導を、待つしかない。


 回りながら、壁際のホワイトボードに目をやった。


 蝿川、空欄。

 蛸井、AM銀行。

 浅間、内勤。


 空欄。

 予定、書けよ。



「――おざーす」


 そう思ったところで、蝿川さんが紙袋を片手に入ってきた。


 おお、ちゃんと来たか。

 いや、来てくれないと、俺が一日困る。

 時計を見る。始業まで、えらくギリギリだった。


 朝イチだろうと、終業前だろうと、この人の声はいつもだるい。

 そのくせ、本人はこの暑さの中でも、いつも涼しい顔をしている。

 だらしない襟元にそぐわない、妙な清潔感がある。


 汗もようやく引いてきたので、支給のジャンパーに袖を通す。


「お、おはようございます」

「……お前、何遊んでんだ」

「遊んでません」

「回ってただろ」

「回ってません」

「朝から元気だな」


 昨日のおかげさまで、こっちは寝不足なんだから、俺は全然元気ではない。


 蝿川さんは、緑色のロゴが描かれた紙袋から、カフェラテと甘そうなパンを取り出した。

 いかにも東京の会社員という感じが、なんだか鼻につく。


「予定、空欄でしたよ」

「あそ」

「ホワイトボードです」

「じゃあ書いといて」

「知りませんもん、蝿川さんの予定」

「あれ、蛸。休みっすか」


 蝿川さんは、俺と目も合わせないまま、席につきながら保田さんに尋ねた。

 蛸。

 蛸井さんのことだ。


「今日は二十五日よ」


 保田さんは、画面から顔を上げないまま、ホワイトボードの方を指した。


「あー、銀行か」


 あー、給料日だ。

 すっかり忘れていた。嬉しい。

 蛸井さんは経理だから、振込とか支払いとか、そういう諸々があるんだろう、たぶん。


 それからしばらく、朝の業務が始まった。

 蝿川さんは席についてからも、ラテを飲みながらスマホばかりいじっている。


 そんな蝿川さんを横目に、とりあえず俺も業務を開始した。

 メールアプリを確認し、誰からもメールが来ていないことに納得する。

 それはそうだ。

 支給された名刺百枚、耳を揃えてまだ箱の中にあるんだから。


 ただ、今日からは少しやることが増えた。

 昨日の商談記録を、報告書としてまとめる。


 とはいえ、昨日の午後には、あらかた形にはしていた。

 それをシステムに入力しろ、という程度の雑な説明だけは受けている。


 モニターの端にある、黒いイルカのアイコン。


 回路電算 v3.2。

 ひどく簡素で、シンプルというか、わかりにくいというか、不親切というか。

 古くさい見た目をした、社内アプリ。


 誰かが社内で作ったものらしいけど、この会社のこういうところは、金がかかっているのか、かかっていないのかわからない。

 地味なダッシュボード。

 そして、勤怠、日報、営業支援、社内連絡、操作マニュアル。

 あとは、よくわからない項目と、俺が押せないボタンがいくつか。


 だいたいの仕事は、ここから始まって、ここへ戻る。

 昨日の午前の研修内容も、回路電算から引っ張ってきたデータだと聞いていた。


「蝿川さん、昨日の報告書上げたいんですが」

「あ?回路?」


 蝿川さんは、こちらを一瞥したあと、すぐにスマホに視線を戻した。


「日報から案件記録。営業支援でもいいけど」

「どっちですか」

「どっちでも入る」

「どういうことですかね、それ」

「どっちでも。回路だから」


 効率化……されている、ということなのだろうか。

 それとも、そういうものなのか、単に適当なのか、他所の社内アプリを触ったことがない俺にはわからない。


「僕、この操作、初めてなんですけど」

「マニュアルあんだろ。読めよ」


 蝿川さんは、ひらひらと手を振った。


 この人は、本当に俺に関する仕事をしないな。

 昨日の商談中の、気色の悪い声音が嘘のようだ。

 やっぱり、人の心がない。


 俺は諦めて、電算の【操作マニュアル】を開いた。


 そこにもまた、細かい目次と、やたら枝分かれした項目ツリーが並んでいた。

 予想はしていたが、非常に見づらい。

 しかも、検索機能が見当たらない。

 ここから一個ずつ項目を確認していくのか……。

 これ、クレームを入れる先はあるのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ