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幕間 プロローグ

 梅雨の明けきらない午前。

 研修用に開かれた過去案件のログが、ノートPCに表示されていた。


【履行済】

【回収値:3.2U】

【関係性残存:2件】


 担当者の名前は伏せられている。

 具体的な依頼内容も、わからない。

 表示されているのは、要点を極限に絞ったこの三行だけ。


「――で、これ」


 蝿川さんは画面を指で叩いた。


「問題ある?ない?」

「は、はい……問題ない、と……思います」


 問題があるかないかなんて、これだけ見せられてわかるわけないだろ。

 ……と、言ってやりたい気持ちを抑えこむ。


 入社から三ヶ月。

 会社の仕組みと案件処理の基礎だけを詰め込まれるように教わって、営業部への配属が決まった。

 本格的なOJTが始まって一週間。

 営業部一課、主任。蝿川さん。

 彼の卓越しているのであろう営業技術に基づき、お客様の願いを叶えるための素晴らしい手引について、日々ありがたくも厳しい指導を受けている。

 そして今日は、実績記録から数字を読み取る研修。

 それが始まった途端、これである。


 蝿川さんは、はー、とこれみよがしに大きなため息をつく。

 めんどくせ、といった態度を隠し切れていない。

 あるいは隠していない。


「“思います”いらねーって」

「……はい」

「そこは言い切り」

「……問題ないです」

「じゃあ、はい。なんで。根拠」


 根拠ってなんだよ。

 もっとわかるわけないだろ。

 たった三行の記録だぞ。




「……履行済、と出ているので」

「はい浅い」


 蝿川さんはまた画面を指で叩いた。


【履行済】


「これは終わったってだけ」


【回収値:3.2U】


「これはマージン」


【関係性残存:2件】


「これは取りこぼしか、継続可能性」

「継続可能性?」

「残ってんじゃん」


 いや、その【関係性残存】の意味がわからないんだって。

 履行されたのなら、問題はなかったのでは、と考えてしまう。


 意図がよく理解できない一方で、蝿川さんは「残っている」と言った。

 取りこぼしと、継続可能性。

 つまり、リピートのことだと思う。


 この記録は、ただの失敗にも見える。

 次の案件につながる可能性にも見える。


 なるほど。

 そういう見方をするのか。


 うん、今の俺にわかるわけがない。


 理不尽さに腹が立つけど、今の俺には出てこない視点なのは、確かだ。


 それでもあえて考えるなら、これは過去の案件だ。

 きっと、取りこぼしで終わった記録なのだと思う。


「一応聞いとくけど。問題ない、に至った根拠どうぞ」

「……依頼内容は、履行されており」

「うん」

「かいしゅ……マージンは出ており」

「うん」

「残存関係性はあるものの、顧客の主目的には影響せず、結果、残存は取りこぼし……と」

「うん。それ、ログに書いてあんの?」

「……いえ」

「じゃ、それ推測。根拠なーし。お前の主観」


 正論である。

 普通に返されて、普通にきつい。

 言い返したいことはある。でも、今の俺では何を言っても言い訳にしかならないことは分かっている。

 蝿川さんにバレないように、口の内側を噛んでこらえる。

 たぶん、ちょっとバレている。


 蝿川さんはふう、と、今度は控えめにため息をついた。


「ま、主観が悪いって話じゃねえけど」


 蝿川さんは、俺の顔を一瞥して、椅子の背にもたれ直した。

 ふんぞり返った、という方が近い。


「客前じゃ使う。売る時も使う」

「はい」

「判定に混ぜるな」


 蝿川さんは、肘掛けを指で叩きながら言った。


「条件見ろ。満たした。満たしてない。以上」

「はい」

「そのアホ面は内輪だけにしとけよ。客前で出すなら考えろ」

「はい?」


 そこで、蝿川さんはニヤリと笑った。


「売れねえから。」


 今なんつったこの人。アホ面?


「……はい」

「で、次。これ。もう一回」


 キーボードを、雑に見えるのに正確な手つきで叩いた。

 今の暴言を飲み込む間もなく、画面が切り替わった。

 とにかくこの人はテンポが早い。たぶん、仕事は本当にできる人なんだろう。


【履行済】

【回収値:4.8U】

【存在性残存:13件】


「では、こちら。問題ございますか、ございませんでしょーか」


 語尾だけが、ふざけていた。

 俺は一瞬、蝿川さんの顔を見た。

 笑っている。

 完全に、面白がっている。


「……問題、ございます」


 乗ってしまった。

 口に出してから、自分でも少し腹が立った。

 蝿川さんの口元が、ぴくりと動いた。


「ございますか」


「回収値は出ていますが、……残存が多数あります」


「で?」

「同一願望での再流入、または別願望化の可能性が……ございます」


 蝿川さんは、そこで耐えきれなかったらしい。


「ぷ」


 笑った。

 今、こいつは笑った。


「ございますよね」

「……あります」


 蝿川さんは、まだ笑っていた。


「はいよろしい」


 絶対よろしくない。

 くく、と肩を揺らす蝿川さんを眺めながら、俺は成長とともに、何か大切なものを明け渡してしまったのではないか。

 と、少し思った。


「――おーおー。やってんなぁ」


 コーヒーの香りと共に、後ろから声がした。


「おー、っす。お疲れ様です、部長」


 振り向くと、マグカップを持った狼野部長が立っていた。

 蝿川さんは、姿勢を正した。

 さっきまで俺に向いていた雑な角度が、部長の方へ変わる。


 この人は、人事部長の狼野さんだ。

 俺の、入社試験の面接官でもあった。

 会社の中では相当の古株とのことで、営業部の会話にもよく混ざってくる。


「楽しそうだな、蝿川」

「だるいっすよ、新人。しかも人間ペーペー」

「まあそう言うなよ」


 そうだ。そう言うなよ。

 というか、本人の前で言うな。

 こっちはちょっとした屈辱を受けた後だ。

 しかも、そのペーペーを採用したのは、この人なんだから。


「浅間、残存の意味は理解できたか」

「え、あ、はい」


 不意に話が研修の内容に戻った。

 雑談に混ざりにきたわけではないらしい。

 進捗を確認しにきたんだろう。


「蝿川は雑だからな。いきなり芯を拾うのは、ちょっと難しいだろうな」


 狼野部長は、マグカップを片手に画面を覗いた。

 湯気が、こちらまで流れてきた。


「うん。……残存ってやつは、食い残しでも、機会損失でもない」


 微笑んでいるようにも見える目が、画面を上から下まで、ゆっくりとなぞった。


「削り方が分からないうちは、残る」

「よくないっすよ。回らない」


 蝿川さんが、横から小さく鼻を鳴らした。


「回る範囲に置いておけばいい」

「そういうこと言います?」

「そうだな。それができるんならな」


 蝿川さんは、露骨に嫌そうな顔をした。


「新人の前で」


 狼野部長は、わずかに目を細めた。


「言うよ」

「言わんでくださいよ」

「残るものを見ないで切る方が危ない」

「残したら増えるんすよ」

「増えるものもある」

「全部そう言うじゃないすか」

「全部ではない」

「いや、だいたいそういう顔してますよ、今も」


 狼野部長は否定しなかった。


「そう?」


 こんな顔?とでも言いたげに、俺と目を見合わせる。


「じゃ、浅間。俺からクエスチョンだ」

「はい」

「今のログ、何が残っていると思う」

「……存在性の残存、です」

「じゃ、さっきのログは何が残ってた?」

「関係性です」

「うん。じゃあ、残存って何だろうか」


 俺は、答えようとして止まった。


 残存。

 残って、そこに在ること。


 言葉としては分かる。

 けれど、この会社でその言葉が何を指しているのか、まだよく分からない。


 家族。

 友人。

 知人。

 職場。

 記憶。

 負い目。

 過去。

 未来。

 約束。


 そういったものが、当事者の中に残ること、なのか。

 あるいは、当事者の外に残ってしまうこと、なのか。

 それとも、当事者が置き去りにされること、なのか。


「……つながり……連続性、ですか」

「そうだな」


 狼野部長は否定しなかった。

 否定しないことが、正解だという意味なのか、足りないという意味なのか、分からなかった。


「ただ、つながりは、残るだけなら悪くない」

「はい」

「戻ってくる時に形が変わる。それが、本人にとって難儀なんだ」

「形が変わる」

「それは、願いになる」

「はい」

「願いになれば、うちの案件になる」


 蝿川さんは、退屈そうに腕を組んで黙っていた。


「だから、うちは依頼人の願いを叶える」

「……はい」

「それを生業としている」

「……」

「それは、面接の時にも伝えた通りだな」


 狼野部長は、ん、と一回頷いた後、蝿川さんに視線をやった。


「だから、残っているものを見る。何が残っているか。誰に向いているか。どの形に変わりそうか」


 蝿川さんが、横から言った。


「でも、そんなの毎回見てたら回らないっすよ」

「そうだな」

「だから、ここにある資源を膨らませて、取り切る」

「あるいは、削る、か?」


 蝿川さんの大きなため息が、マグカップの湯気を散らした。


「……部長、やっぱそういう言い方するんすね」


 狼野部長は、目だけで笑った。


「残せ、と言っているんじゃない」

「……」

「残るものを見ないで切るな、継続性に頼るな、と言っている」


 その言葉だけは、少し強く聞こえた。

 蝿川さんは、今度は返さなかった。

 珍しい、と思った。


「ま、こういうやり方もある」


 そう言って、狼野部長は画面から顔を上げた。


「元営業畑からのお説教だ」


 笑って腰をさする素振りをしてから、ようやくマグカップに口をつけた。


「じゃ、続きがんばれよ」


 パーテーションの向こうへ戻っていく背中を見送ってから、蝿川さんは「古」と小さく口元だけでつぶやいていた。


「……お前、これからの商談、同席させてやるから」

「え?」

「そのアホ面、使えるように考えとけよ」

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