第4話 ドントビーアフレイド-1
ああ、もうマジで嫌だ。
回路電算を睨みつけながら、報告書を叩き入れる。
何度も頭を抱えているものだから、今朝セットした髪は、もうひどい有様だった。
整髪料でどうにか形にしていた前髪は、ほとんど意味をなくしていた。
指を入れるたびに、固まっていたところが妙な方向へ割れる。
手に戻ってきたワックスが、指の腹にまとわりつく。
そのベタベタした手で、キーボードを打ち付ける。
それでも、手を止めることができない。
止めたら、戻ってくる。
膨満感。吐き気。
あの吐き気を、においを、まるごとこの報告書に書いてしまいたい。
なんなら、胃液のシミをつけて提出して、保田さんに訴えたっていい。
縦読みで、蝿川さんへの文句を書いたっていい。
だけど、俺は分かっている。
それには何の意味もないことを。
この会社にとっては、あれが、ごく当たり前のこと。
そんなことは分かっている。つもりではある。
ただ、あの人のやり口は、悪すぎた。
あの人の一挙一動に、依頼人は、俺の想像できるうちで最悪の反応を返していた。
止めたかった。
止められなかった。
それが、仕事だから。
さらに腹立たしいのは、ごく当たり前の結果が、もっと当たり前のように、数字に整理されて表示されていることだった。
簡素なゴシック体に置き換わってしまえば、あれほど気持ち悪かったものが、こんなにも味気なくなるのかと、俺は少し虚しくなった。
【履行済】
案件分類:存在認識強化
主訴:自然認識/好印象維持/減点回避/評価接触
回収値:2.7U
名誉回収:null
存在性残存:継続中
総合収益率:58%
継続係数:11%
入力欄の最後で、カーソルが点滅している。
所感。
感想じゃ、だめでしょうか。
[マジで嫌でした。]
ここまで打ってみて、一回消す。
[特になし。]
問題がない?
問題しかない。
でも、問題ない。
そこには俺の納得なんかは要らない。
履行が済んで、回収があったのなら、もうそういうことにしておくしかない。
結局、俺は胃液を吐くこともなく、大きなため息をつくだけで終わった。
とりあえず、手を洗いに行こう。
席を立ったとき、廊下の方から声がした。
「失礼しますう」
受付の相殻さんが、ファイルを持ってオフィスに入ってきたところだった。
いつも朝に見るときと同じように、穏やかに微笑んでいる。
俺は、思わず頭を下げた。
相殻さんも、同じように小さく頭を下げる。
相殻さんは、俺の横を通り過ぎて、蝿川さんのデスクに向かった。
「主任。お客様が見えましたよ」
蝿川さんが、椅子の背にもたれたまま手を伸ばす。
「ちょーだい」
ファイルを受け取った蝿川さんは、その中身にざっと目を通した。
腕時計を確認して、少し間を空ける。
「これ、アポなしだろ」
「そうですねえ」
「……なんだよ、サボりか」
サボり?誰が、何を。
俺もつられて、掛け時計を確認した。
今は、朝の十時半過ぎ。
「“ちょっと、嫌われたくない”」
蛸井さんが、背中合わせの席から、蝿川さんの手元を覗き込む。
「なにそれ」
「そのまんま」
「ちょっと、って。ずいぶんカワイイお願いじゃん」
蝿川さんは、ファイルの端を指で弾く。
「中二。十三。」
相殻さんは、にっこりと笑ったまま頷いた。
「……はー、ガキンチョかー」
あからさまに、営業用の艶が抜けた声だった。
ただ、ファイルを眺めるその顔は、片眉があがり、既に何かを吟味するような表情だった。
子供が来るんだ。
その子供の目の前に、蝿川さんは、ちょうどよく座る。
その構図が、ぴったりと浮かんだ。
息が吸いにくくなった。
蝿川さんなら、どんな人が相手でも、うまくやる。
艶があろうと、渇いていようと、この人なら、うますぎるくらいに、通してしまう。
うまく聞いて。
うまく笑って。
うまく頷いて。
ちょうどいい言葉を見つけて。
まるごと、たぶらかして、かどわかす。
中学二年生。
十三歳。
ちょっと、嫌われたくない。
それだけが、頭の中で変に大きくなっていく。
その子がどんな子なのかは、まだ何も知らない。
何に困っているのかも、何を怖がっているのかも、何も分からない。
中学生。
蝿川さん。
それが、ほんとうにだめな気がした。
マジで嫌だ。
「あの」
俺は、先に声だけが出ていた。
「あ?」
蝿川さんが、ファイルから視線だけを上げる。
どうしよう。
そこではじめて、ようやく一瞬、考えた。
「…………僕、行きます」
蝿川さんの手が、ファイルの上で止まった。
驚いた、というより、意味を測っている顔だった。
「……どこに?」
「その案件です」
「これ?」
「はい」
「お前が?」
「はい」
「一人で?」
「……はい」
言ってしまった。
口をついた、が、正しい。
俺自身が、たぶん蝿川さんより驚いている。
何を言っているんだろう、と思っている。
けれど、だからといって、取り消す気にはならなかった。
言ってから、これがいちばん冴えている、と思った。
「急に何」
「難しい案件ですか?」
「いや、軽いけど」
「じゃあ」
「いやいやいや」
蝿川さんは鼻で笑った。
「そういう話じゃねえだろ」
そういう話ではない。
それは、分かる。
でも、自分の中で分別をつけたくないものを、分かったように飲み込むのはもっと嫌だった。
「……分かりません」
分からないふりをした。
なるべく表情に出さないように。
間を置いて、誤魔化した。
「分かんねえのかよ」
蝿川さんは、今度は、ぶはっと笑った。
馬鹿にされてる、のかもしれない。
でも、思いのほかそれは嫌な手応えではなかった。
「分かんねえのに、お前、行きたいんだ」
「……はい」
「ふーん」
蝿川さんは、また眉を上げて、意地の悪い表情で言った。
「いいねえ、青いねえ」
「蝿川くん、そういう言い方やめなって」
蛸井さんが、自分のからかいを隠しきれていないまま、制止する。
「褒めてんだよ」
「それ、絶対褒めてないでしょ」
蝿川さんはまだ少し笑っていた。
この人の嫌な笑みなら、毎日見ている。
だけど今、こんなに普通の笑い方もできるんだ、と気づいてしまった。
そうしたら、なおさら、この人に行かせたくないと思った。
その本音も、なるべく隠したつもりだった。
でも、たぶん顔に出ていた。
青いから走りたがる。
そういう理由だと思われるなら、そちらの方が、だいぶ都合が良い。
「ま。あー、うん」
蝿川さんは、ファイルの背を手のひらで叩きながら、パーテーションの方へ声を投げた。
「狼野部長」
「聞いてる」
仕切りの向こうから、声だけが返ってきた。
「人間代表、青コーナー。一人で出たいそうっす」
「青コーナー?」
思わず聞き返す。
「違うの?」
「なんか、殴りに出るみたいじゃないですか」
「蚊みたいなパンチだから平気だろ」
「ほらもう、そういう言い方する」
蛸井さんが呆れたように言う。
「これも褒めてる」
「だから絶対褒めてないって」
二人とは真逆の温度で、狼野部長の沈黙が続く。
部長は、少し考えているようだった。
ここで承認が降りたなら、俺の初めての一人仕事ということになる。
その沈黙の間に、実感が湧いた。
一人で臨むことの不安が、頭の奥に薄くもやをかけた。
俺に、商談を成立させることができるのか。
狼野部長としては、会社としては、そういう話だ。
でも、これは、そういう話じゃない。
蝿川さんを、十三歳の子の前に座らせたくない。
それだけが確かだった。
「青コーナー、入場か」
小さく、うし、という声が聞こえた。
「浅間」
「はい」
「セコンドはつかねえぞ。それでも行くか」
軽い言い方だった。
でも、その言葉の意味は軽くなかった。
お前一人で、やってみろ。
「行きます」
「いやー、大丈夫っすかね」
蝿川さんが、わざとらしく肩をすくめる。
「何がよ、蝿川」
「こいつ、窮したら凶器出すタイプっすよ」
「出しません」
「パイプ椅子とかぶんまわしそう」
「ぶんまわしません」
「どうだか」
「蝿川くんのそういうとこ、ほんとだめだって」
仕切りの向こうから、狼野部長の豪快な笑い声がした。
「浅間」
「はい」
「とりあえず、部屋は壊すなよ。保田がおっかない」
「壊しませんって」
「なら、これは浅間に振る」
蝿川さんは、鼻を小さく鳴らした。
「うっす」
相殻さんにファイルが返された。
相殻さんはそれを、改めて両手で俺に差し出した。
「どうぞ、浅間さん」
「ありがとうございます」
受け取った瞬間、その薄い見た目より、ずっと重く感じた。
表紙を開く。
ヒアリングシートは、簡素で、病院で書かされる問診票のようだった。
氏名、年齢、職業のフォーマット。
そして、大きく取られた枠内には、ここまで握りしめてきたであろう願い。
“ちょっと、嫌われたくない”。
そこに書かれた文字は、丸くて、癖のある、少女の字だった。
「あ、浅間。俺からひとつアドバイス」
「なんですか?」
「髪は直せよ」
蝿川さんは、やっぱり、からかうような嫌な笑顔をしていた。




