表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

第4話 ドントビーアフレイド-2

 深呼吸を一回。ノックを三回。


「失礼します」


 応接室で、依頼人は既に待っていた。

 グラスの中の飲み物が、少し減っていた。


「お待たせしました」


 俺は頭を下げた。


 なるべく笑った顔でいようとは思っている。

 だけど、ドアを閉める段になって、蝿川さんがこの部屋にいないことを実感した。

 不安というより、緊張が勝つ。

 胸は鳴っていたけれど、愉快なものではなかった。


 蝿川さんが場を散らかしているのに、どこか張り詰めているような、あの感じではない。

 初めて一人で商談に入ることへの、もっとシンプルなプレッシャーだった。

 せめて、嫌な空間には絶対しない。

 バレないように、もう一度、鼻で深呼吸した。


 依頼人は、どこにでもいる中学生に見えた。

 サイズのきちんと合った夏の制服、清潔感のある佇まい。

 ネイビーのスカーフが、適切な曲線を描いている。


 ただ、それに似合わない場所と、時間帯と、物々しい革張りのソファに、浅く腰をかけている姿を除いては。


「今日はよろしくお願いします。営業部の浅間です」


 依頼人は、小さく会釈をした。

 肩の少し下で切りそろえられた髪が揺れた。


 彼女は、リュックを抱えるように膝の上に乗せている。

 そこについた小さなキーホルダーは、泣きそうな顔をした、ピンク色のウサギ。

 俺でも知っているくらい流行っていて、特別目立つものでもない。


 すごく、普通だった。

 たぶん、本人もそう思っている。


「あの、鞄。横に置いてもらって大丈夫ですよ」

「はい」


 彼女は、素直に隣に置いた。

 リュックはそこそこ重たそうで、座面がたわんだ。

 中には教科書やノートや、タブレットなど、学校で使うものが詰まっているのだろう。

 蝿川さんの言ったとおり、彼女は学校には寄れず、ここに来てしまったのかもしれない。


 その時点で、俺が思っていたより、ずっと普通じゃないのかもしれない。

 ……そもそも、よく知りもしない人を、俺の中の普通に当てはめようとする俺の方が、よっぽど勝手なのだろう。


 俺は、静かに椅子に腰掛けた。

 蝿川さんは、いつも依頼人の正面ではなく、少し斜めに座っていた。

 たぶん、あれは相手を怖がらせないためのかたち。

 俺も、その角度に倣った。


 依頼人の資料は、テーブルの上に置かなかった。

 もう中はよく読んだし、自分が書いたものが常に目に入っていたら、なんとなく彼女も落ち着かないだろう、と思ったから。


「今日は……」


 そう言ってから、次の言葉が出てこなかった。


 今日は、暑いですね。

 今日は、迷わず来られましたか。

 今日は、学校はどうしたんですか。


 最初の一言は、意外と難しい。


 そして、どれも違う気がした。

 バイトの控え室の会話みたいになりそうだった。

 蝿川さんなら、こういうとき、何を言うのだろう。

 軽く。

 やわらかく。

 相手が返しやすい言葉を、何でもない顔で置くのだろう。


「今日は、朝ごはん食べましたか?」

「え?」

「あ、いや。僕は……食べそこねちゃって」


 自分でも、ずいぶん子供じみた取っかかりになったと思った。

 それと同時に、俺がこのくらいの歳のころ、聞かれたくなかったことを必死で思い出す。


 依頼人は、膝の上で握っていた両手を、少し緩めた。


「トーストと、目玉焼きを……食べました」

「目玉焼き……いいなぁ。醤油派ですか?塩派ですか?」


 分からない。

 何を、どういうふうに聞けばいいのか。


 分からないが、分からないまま黙っていると、相手はもっと不安になる。

 沈黙に乗っかるには、俺にはまだ経験が足りない。


「えっと……トーストだったから、マヨネーズでした……」

「あれだ、ラピュタパンだ」

「ラピュタパン?って言うんですか?」


 あ。

 通じなかった。


「僕は……そう呼んでます。あはは」


 自分の声が、思ったより頼りなかった。


「僕、目玉焼き作るの、すごく下手で。いつも突っつきすぎてスクランブルエッグになっちゃうんですよ」

「そうなんですか。うちは、お母さんが作るから……」


 彼女は、きまずそうに視線を少し逸らした。

 たぶん、学校に行けないまま、ここに来たことを思い出してしまったのだろう。

 この歳の頃に、聞かれたくないこと。

 正直、俺が振った話の言葉尻で、どこを踏むのかが予測できない。


「そっか。作ってくれるんですね、そうか……」

「普通は……そうだと思いますけど」


 普通という言葉が、なんだか刺さる。

 彼女は、何か言いたそうに、伏せた瞼の奥で俺に視線を戻した。


「……あの。学校は、とか、聞かないんですか」


「え?」

「制服で、絶対おかしいと思いますよね」


 今度は、俺の方をまっすぐ向いて、はっきりと言った。


「いやそんな」

「普通じゃないって、思ってますよね。私のこと」


 彼女の方が、よほど大人かもしれない。

 観念させられた。


「おかしくはない……くはないですけど」


 小手先でどうにかできないことくらい、自分でもよくわかっているつもりだ。


「……大丈夫なのかな、とは思ってました。ごめんなさい」


 俺は、素直に言った。


「大丈夫って、よく分からないんですけど」

「そうですよね」


 彼女の瞳が、じわりと揺れた。


「とにかく今。僕は、あなたのことを心配しています」

「……通報とか、しませんか」

「しませんよ。ここは、そういう人が来るところなので」


 そういう人が来るところ。

 彼女の顔が、一際険しくなった。

 この言い方は良くなかった。


「あの。……僕に言えるのは、何か事情があるから、ここまで来たんだろうなってことくらいです」


 沈黙。

 彼女を馬鹿にしたつもりではなかった。

 それが伝わったかどうかは、この静けさからは分からない。


「で、えっと、大丈夫っていうのは」


 分からなかったから、話を続けるしかなかった。


「僕が君くらいのときに、学校に行きたくない日が、やっぱりあって」

「……」

「外ふらふらしてたら、警察に補導されかけたりとか……したので」

「そのときは、何してたんですか」

「近所の神社で、鳩を見てました」

「鳩?」

「そのとき、からあげクン食べてて。ちぎってやってたんですけど……これ共食いじゃん、って気づいちゃったんですよね」

「……それはちょっと、ウケます」


 彼女の顔が、ほどけた。


「鳩、引くくらい寄ってきました」

「え、怖」

「怖かったです。そのあと警察に声をかけられて、体調不良で早退中って言って、走って逃げました」

「体調不良って言ったのに?」

「実際、胃もたれしてたので、体調不良ではあったんですよ」


 なんとか、笑ってくれた。

 それなら、それでよかった。


「そういうこと、たぶん、誰にでもあると思います」

「さすがに鳩は変すぎます」

「鳩は……忘れてください」


 子供でも大人でも、誰にでも、そういうことはある。

 彼女は、そのはざまの年頃だから、もっとある。


 問題は、その行き先が乞糸商事だったということ。

 ここに彼女が座っていることだった。

 それぞれの人に、それぞれの理由があるんだと思うんです。

 そう続けようとして、飲み込んだ。

 説教じみた言い方だと思った。


 俺は、この子の願いを、聞かなくちゃいけない。


 笑いがひとしきり収まるのを待ってから、俺は、姿勢を少し正した。


「あなたの願い、読みました」

「……そうですよね」

「僕に、話せそうですか」


 彼女は、大きく息を吸って、背筋を伸ばした。


「……学校自体が、嫌なわけじゃないんです」

「学校そのものは、嫌ではない」

「朝、教室に入るのが、嫌なんです」


 声が、一段落ちる。


「嫌というか、もやもやするというか」


 小さな指先が、スカートのプリーツを摘んだ。


「もやもや?」

「教室、朝は友達がもう先に着いてて、みんなでホームルームまで喋るのがルールみたいになってて」

「はい」

「私も初めはお喋りしたくて、朝早く行ったりしてたんです」

「ええ」

「クラス替えしたばっかだったし、はやく仲良くなりたくて、おすすめの配信者の話とかして、それは結構楽しくて」

「楽しかった」

「あと、部活の話とかも。私、バド部なんですけど、二年のリーダー誰やる?とか」

「バドミントンやってるんですね」

「うちの学校、結構強いから、練習たいへんなんです」

「大会とかも出るんですか?」

「去年は、卒業しちゃった先輩たちが、関東大会にでました」

「おお、関東はすごいです」

「そうですよね。うん。それで、だから、学校は楽しいんです」

「分かります」

「ですけど……あの。そう。教室の雰囲気が…」


 一拍、言い淀んだ。


「……ゴールデンウィークが終わった頃から……だと思う」

「二ヶ月前、くらいですか」

「なんか……友達たちの言ってることが、ちょっと変だなっていうか」

「変?」

「……変わったなって思い始めて」


 手首にかかっているヘアゴムを、しきりに触っている。


「どういうふうに?」

「内容が、誰かの悪口ばかりになったんです」


 語尾が、弱くなっていく。


「しかも、毎日、違う子の」


 悪口。

 俺は、なるべく静かに、聞くしかなかった。


「はじめは、先生とか先輩がうざいなとか、そういう話だったんです」

「そういう話は、ありますね」

「それが、その朝、たまたま寝坊して、そこにいなかった子の話になって」

「はい」

「言い方がきついとか、持ってるものとか、見た目のこととか、あとはその子の家のこととか」

「……はい」

「私も、そう思うでしょ、って聞かれて」

「はい」

「うん、としか言えなくて」

「うん」

「なのに、その子が来たあとは、その子とも、いつも通り話してたんです」


 そこまで、ほぼ一息で話し切った彼女は、小さなため息をついた。


「それが、きっかけだったんだと思う」

「……それから、ずっと続いてるんですか?」

「続いてる、とは思います。たぶん」

「たぶん?」

「先々週くらいから、私は……朝、早く行くのをやめたから、分からないんです」

「行かなくなった」


 彼女は飲み物を、一口含んだ。

 丁寧に、飲み込んでいた。


「……お母さんにも、言ったんです。みんなが、最近おかしいってこと」

「はい」

「そしたら、あんたは悪口に参加しなきゃいいんだよ、早く行くのやめて、普通の時間に、普通に学校に行ってみなよ、って」

「……なるほど」

「お母さんの言ってることは、ほんと、それなんです」

「……そう、ですね」

「でも、そういう話じゃ、なかったんです」


 そうだろうな。

 そういう話じゃ、ないんだろうな。


 大人の論理で丸めてしまえば、嫌な場所にいなければいい。それが結論。確かにそうだ。


 家族としては、どうしようもなくなる前に、逃げ道がちゃんとあることを示したつもりだったのだと思う。

 それでも、逃げ場がないまま、逃げ道だけを、彼女にお守りとして持たせるのは、少し酷だと思った。


 あの狭い教室。

 そこが嫌な場所になっていく実感。

 朝だけで済めばまだいい。

 彼女が話した悪口が、それ以上の事態になる想像は、十分についた。

 たった一年。

 たった一日。

 それが十三歳にとって、どれだけ長く感じるだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ