第4話 ドントビーアフレイド-2
深呼吸を一回。ノックを三回。
「失礼します」
応接室で、依頼人は既に待っていた。
グラスの中の飲み物が、少し減っていた。
「お待たせしました」
俺は頭を下げた。
なるべく笑った顔でいようとは思っている。
だけど、ドアを閉める段になって、蝿川さんがこの部屋にいないことを実感した。
不安というより、緊張が勝つ。
胸は鳴っていたけれど、愉快なものではなかった。
蝿川さんが場を散らかしているのに、どこか張り詰めているような、あの感じではない。
初めて一人で商談に入ることへの、もっとシンプルなプレッシャーだった。
せめて、嫌な空間には絶対しない。
バレないように、もう一度、鼻で深呼吸した。
依頼人は、どこにでもいる中学生に見えた。
サイズのきちんと合った夏の制服、清潔感のある佇まい。
ネイビーのスカーフが、適切な曲線を描いている。
ただ、それに似合わない場所と、時間帯と、物々しい革張りのソファに、浅く腰をかけている姿を除いては。
「今日はよろしくお願いします。営業部の浅間です」
依頼人は、小さく会釈をした。
肩の少し下で切りそろえられた髪が揺れた。
彼女は、リュックを抱えるように膝の上に乗せている。
そこについた小さなキーホルダーは、泣きそうな顔をした、ピンク色のウサギ。
俺でも知っているくらい流行っていて、特別目立つものでもない。
すごく、普通だった。
たぶん、本人もそう思っている。
「あの、鞄。横に置いてもらって大丈夫ですよ」
「はい」
彼女は、素直に隣に置いた。
リュックはそこそこ重たそうで、座面がたわんだ。
中には教科書やノートや、タブレットなど、学校で使うものが詰まっているのだろう。
蝿川さんの言ったとおり、彼女は学校には寄れず、ここに来てしまったのかもしれない。
その時点で、俺が思っていたより、ずっと普通じゃないのかもしれない。
……そもそも、よく知りもしない人を、俺の中の普通に当てはめようとする俺の方が、よっぽど勝手なのだろう。
俺は、静かに椅子に腰掛けた。
蝿川さんは、いつも依頼人の正面ではなく、少し斜めに座っていた。
たぶん、あれは相手を怖がらせないためのかたち。
俺も、その角度に倣った。
依頼人の資料は、テーブルの上に置かなかった。
もう中はよく読んだし、自分が書いたものが常に目に入っていたら、なんとなく彼女も落ち着かないだろう、と思ったから。
「今日は……」
そう言ってから、次の言葉が出てこなかった。
今日は、暑いですね。
今日は、迷わず来られましたか。
今日は、学校はどうしたんですか。
最初の一言は、意外と難しい。
そして、どれも違う気がした。
バイトの控え室の会話みたいになりそうだった。
蝿川さんなら、こういうとき、何を言うのだろう。
軽く。
やわらかく。
相手が返しやすい言葉を、何でもない顔で置くのだろう。
「今日は、朝ごはん食べましたか?」
「え?」
「あ、いや。僕は……食べそこねちゃって」
自分でも、ずいぶん子供じみた取っかかりになったと思った。
それと同時に、俺がこのくらいの歳のころ、聞かれたくなかったことを必死で思い出す。
依頼人は、膝の上で握っていた両手を、少し緩めた。
「トーストと、目玉焼きを……食べました」
「目玉焼き……いいなぁ。醤油派ですか?塩派ですか?」
分からない。
何を、どういうふうに聞けばいいのか。
分からないが、分からないまま黙っていると、相手はもっと不安になる。
沈黙に乗っかるには、俺にはまだ経験が足りない。
「えっと……トーストだったから、マヨネーズでした……」
「あれだ、ラピュタパンだ」
「ラピュタパン?って言うんですか?」
あ。
通じなかった。
「僕は……そう呼んでます。あはは」
自分の声が、思ったより頼りなかった。
「僕、目玉焼き作るの、すごく下手で。いつも突っつきすぎてスクランブルエッグになっちゃうんですよ」
「そうなんですか。うちは、お母さんが作るから……」
彼女は、きまずそうに視線を少し逸らした。
たぶん、学校に行けないまま、ここに来たことを思い出してしまったのだろう。
この歳の頃に、聞かれたくないこと。
正直、俺が振った話の言葉尻で、どこを踏むのかが予測できない。
「そっか。作ってくれるんですね、そうか……」
「普通は……そうだと思いますけど」
普通という言葉が、なんだか刺さる。
彼女は、何か言いたそうに、伏せた瞼の奥で俺に視線を戻した。
「……あの。学校は、とか、聞かないんですか」
「え?」
「制服で、絶対おかしいと思いますよね」
今度は、俺の方をまっすぐ向いて、はっきりと言った。
「いやそんな」
「普通じゃないって、思ってますよね。私のこと」
彼女の方が、よほど大人かもしれない。
観念させられた。
「おかしくはない……くはないですけど」
小手先でどうにかできないことくらい、自分でもよくわかっているつもりだ。
「……大丈夫なのかな、とは思ってました。ごめんなさい」
俺は、素直に言った。
「大丈夫って、よく分からないんですけど」
「そうですよね」
彼女の瞳が、じわりと揺れた。
「とにかく今。僕は、あなたのことを心配しています」
「……通報とか、しませんか」
「しませんよ。ここは、そういう人が来るところなので」
そういう人が来るところ。
彼女の顔が、一際険しくなった。
この言い方は良くなかった。
「あの。……僕に言えるのは、何か事情があるから、ここまで来たんだろうなってことくらいです」
沈黙。
彼女を馬鹿にしたつもりではなかった。
それが伝わったかどうかは、この静けさからは分からない。
「で、えっと、大丈夫っていうのは」
分からなかったから、話を続けるしかなかった。
「僕が君くらいのときに、学校に行きたくない日が、やっぱりあって」
「……」
「外ふらふらしてたら、警察に補導されかけたりとか……したので」
「そのときは、何してたんですか」
「近所の神社で、鳩を見てました」
「鳩?」
「そのとき、からあげクン食べてて。ちぎってやってたんですけど……これ共食いじゃん、って気づいちゃったんですよね」
「……それはちょっと、ウケます」
彼女の顔が、ほどけた。
「鳩、引くくらい寄ってきました」
「え、怖」
「怖かったです。そのあと警察に声をかけられて、体調不良で早退中って言って、走って逃げました」
「体調不良って言ったのに?」
「実際、胃もたれしてたので、体調不良ではあったんですよ」
なんとか、笑ってくれた。
それなら、それでよかった。
「そういうこと、たぶん、誰にでもあると思います」
「さすがに鳩は変すぎます」
「鳩は……忘れてください」
子供でも大人でも、誰にでも、そういうことはある。
彼女は、そのはざまの年頃だから、もっとある。
問題は、その行き先が乞糸商事だったということ。
ここに彼女が座っていることだった。
それぞれの人に、それぞれの理由があるんだと思うんです。
そう続けようとして、飲み込んだ。
説教じみた言い方だと思った。
俺は、この子の願いを、聞かなくちゃいけない。
笑いがひとしきり収まるのを待ってから、俺は、姿勢を少し正した。
「あなたの願い、読みました」
「……そうですよね」
「僕に、話せそうですか」
彼女は、大きく息を吸って、背筋を伸ばした。
「……学校自体が、嫌なわけじゃないんです」
「学校そのものは、嫌ではない」
「朝、教室に入るのが、嫌なんです」
声が、一段落ちる。
「嫌というか、もやもやするというか」
小さな指先が、スカートのプリーツを摘んだ。
「もやもや?」
「教室、朝は友達がもう先に着いてて、みんなでホームルームまで喋るのがルールみたいになってて」
「はい」
「私も初めはお喋りしたくて、朝早く行ったりしてたんです」
「ええ」
「クラス替えしたばっかだったし、はやく仲良くなりたくて、おすすめの配信者の話とかして、それは結構楽しくて」
「楽しかった」
「あと、部活の話とかも。私、バド部なんですけど、二年のリーダー誰やる?とか」
「バドミントンやってるんですね」
「うちの学校、結構強いから、練習たいへんなんです」
「大会とかも出るんですか?」
「去年は、卒業しちゃった先輩たちが、関東大会にでました」
「おお、関東はすごいです」
「そうですよね。うん。それで、だから、学校は楽しいんです」
「分かります」
「ですけど……あの。そう。教室の雰囲気が…」
一拍、言い淀んだ。
「……ゴールデンウィークが終わった頃から……だと思う」
「二ヶ月前、くらいですか」
「なんか……友達たちの言ってることが、ちょっと変だなっていうか」
「変?」
「……変わったなって思い始めて」
手首にかかっているヘアゴムを、しきりに触っている。
「どういうふうに?」
「内容が、誰かの悪口ばかりになったんです」
語尾が、弱くなっていく。
「しかも、毎日、違う子の」
悪口。
俺は、なるべく静かに、聞くしかなかった。
「はじめは、先生とか先輩がうざいなとか、そういう話だったんです」
「そういう話は、ありますね」
「それが、その朝、たまたま寝坊して、そこにいなかった子の話になって」
「はい」
「言い方がきついとか、持ってるものとか、見た目のこととか、あとはその子の家のこととか」
「……はい」
「私も、そう思うでしょ、って聞かれて」
「はい」
「うん、としか言えなくて」
「うん」
「なのに、その子が来たあとは、その子とも、いつも通り話してたんです」
そこまで、ほぼ一息で話し切った彼女は、小さなため息をついた。
「それが、きっかけだったんだと思う」
「……それから、ずっと続いてるんですか?」
「続いてる、とは思います。たぶん」
「たぶん?」
「先々週くらいから、私は……朝、早く行くのをやめたから、分からないんです」
「行かなくなった」
彼女は飲み物を、一口含んだ。
丁寧に、飲み込んでいた。
「……お母さんにも、言ったんです。みんなが、最近おかしいってこと」
「はい」
「そしたら、あんたは悪口に参加しなきゃいいんだよ、早く行くのやめて、普通の時間に、普通に学校に行ってみなよ、って」
「……なるほど」
「お母さんの言ってることは、ほんと、それなんです」
「……そう、ですね」
「でも、そういう話じゃ、なかったんです」
そうだろうな。
そういう話じゃ、ないんだろうな。
大人の論理で丸めてしまえば、嫌な場所にいなければいい。それが結論。確かにそうだ。
家族としては、どうしようもなくなる前に、逃げ道がちゃんとあることを示したつもりだったのだと思う。
それでも、逃げ場がないまま、逃げ道だけを、彼女にお守りとして持たせるのは、少し酷だと思った。
あの狭い教室。
そこが嫌な場所になっていく実感。
朝だけで済めばまだいい。
彼女が話した悪口が、それ以上の事態になる想像は、十分についた。
たった一年。
たった一日。
それが十三歳にとって、どれだけ長く感じるだろうか。




