第4話 ドントビーアフレイド-3
「……次は、自分の番だと、思ったんじゃないですか」
「たぶん、そうです」
それから「こ、」と言いかけて、彼女は、やめた。
もしかしたら、それは、怖い。
そう言いたかったのかもしれない。
「……ここに来るような大人の悩みに比べたら、たぶん、めっちゃ小さいことだと、思うんですけど」
単純な強がりとも思えなくて、あまりに痛かった。
彼女は、それこそ、大人みたいな折り合いを選ぼうとしていた。
「僕は、年齢としては大人ですけど、つい最近まで大学生でした」
「大学生?」
他人には小さな火の粉に見えても、それが自分にふりかかれば、熱くて、痛い。
「君の考えてることは、たぶん、大人だからとか子供だから、というのは、関係ないと思うんです」
「だとしたら、大人になっても、こういうのがあるってことですか?」
「えっと」
「それ、すごく嫌です!」
そんなことを言いたいわけではなかった。
伝えたかったのは、そういう絶望では、絶対になかった。
ただそう受け取られても、仕方のないくらい、曖昧な言い方だった。
「……ごめんなさい。ちょっと、私、変なこと言いました」
「違います。僕の言い方が、悪かった」
「将来とか、大人になったときのことを考えると、すごく不安になるんです」
彼女の声が、細く、震えている。
「私、お母さんに、思春期だからね、って言われました」
「……そういう名前は、つくかもしれません」
その名前で丸めて済むことなら、彼女はきっとここにはいない。
大きく貼られたラベルのせいで、内側を確かめることができなくなる。
「自分の気持ちが、時々ぐちゃぐちゃになるんです」
その言い方に、苛立ちが滲む。
「一年のときまでは、こんなに急にムカついたり、悲しくなったり、眠いとか、頭痛いとか、走れないとか。辛くなったりすること、なかったの」
怒りから、焦りへ。
焦りから、悲しさへ。
「だから、私が変なのかなって。悪口を言ってるあの子たちが普通で、私だけが変なのかもしれない」
俺は、自分のことを思い出す。
あの日、たかが鳩の群れを見ていただけだった。
それなのに、やたら真面目なことを思いついていたような気もする。
気もする、のは。
結局、それを言葉にできなかったからだ。
この子は、俺とは違う。
ずっと遠くまで考えている。
「……だから、せめて、友達とは穏やかに過ごしたいから」
だから、これは、とても嫌な確認だった。
「“ちょっと、嫌われたくない”、だったんですよね」
もうこれ以上、願いにかたちを与えたくはなかったから。
「……そう書いたけど、そうじゃないかもしれないの」
ああ。
「もっと、私があの子たちみたいに。痛いこととか、ごまかせたら、こんな気持ちにならなくて、済んだのかな、って」
この子は、こんなにはっきり、言葉にできてしまうんだな。
彼女は、いよいよ泣き出してしまった。
声を上げないように、静かに。
肩が震えて、しゃくりあげて、苦しそうだった。
普通でいたい。
普通に過ごしたい。
ささやかな願いは、普通と呼ばれるものの重みで、少しずつずれていく。
ずれて、ずれ続けて、なぜかここにいる。
彼女は、リュックの中から、ハンカチを探しているようだった。
涙が次から次へとこぼれ出て、それを止めたくても止まらないんだろう。
苦しいものが、涙ですべて流れ出たらいいのに。
残念ながら、俺はそうはいかないことを知っている程度には、彼女よりも大人だ。
さっきまで気丈に話していたのが嘘みたいに、彼女はただ、持ちきれない荷物を背負った子供に見えた。
子供に見えているのに。
この子は、言葉にできてしまった。
ここじゃなかったら、良かったのに。
蝿川さんみたいに、適当にやれば良かったのに。
俺が、聞かなければ、良かったのに。
もう俺は、この子に寄り添うだけの側にはいられなくなってしまった。
俺は、ハンカチをポケットから取り出して、一度だけ迷ってから、テーブルの端に置いた。
「……洗ってありますから」
「ありがとう、ございます」
この子は、俺のハンカチで涙を拭った。
涙を吸って、角の水色が、濃い色になった。
「だけど、もしも、本当に望むなら……」
俺がこの子にかけていい言葉は、そんなに残されていない。
「周りと、君の気持ちのずれを、少しだけ減らすことはできます」
「……ずれ?」
「そうです。これは、君を取り巻く環境が、大きく変わることはありません。ただ、今よりも」
君の人生が、淡くなる。
そこまで言葉にしようとして、できなかった。
「……過ごしやすくは、なると思います」
ずるい言い方。そんなことは、分かっている。
だけど、大人だから。
この子に、もっと卑怯なことを言わなきゃいけない。
「でも、それが君のこれからにとって、いいかどうかは、僕は答えられない」
「……」
息が止まるほどの、沈黙だった。
嗚咽だけが響いた、沈黙だ。
「……提案を、しました」
それに耐えられなかったのは、この子ではない。
「……僕は、やっぱり。ごめんなさい。おすすめが、できないです」
俺だった。
「……だから、今日、この場で決めないでほしい」
「……え」
俺は、名刺入れを出す。
手癖のついてない、ほぼ新品の名刺入れ。
俺が、本当に無力だったら良かったのに。
名刺入れと、その中身は、相反している。
俺がここにいる以上、この子の願いを叶えることができる。
それが、ひどく情けない、と思った。
だから、正しい使い方をしたいと思った。
「ごめんね。ハンカチ、一度返してね」
彼女は頷いて、差し出した。
受け取る。
湿った水色。
それは涙の温度が移っていて、ほんのり温かかった。
俺はそれを広げて、その中に、一枚、名刺を挟みこむ。
なるべく丁寧にたたみ直してから、彼女にもう一度、渡した。
「この中に、僕の名刺を挟んでおきました」
「……名刺?」
「はい。この名刺は、君がここに来た証明です」
どこまで、この子を守れるだろう。
次に来るなら、家族が一緒に来てくれたら。
「ハンカチ、返しても、返さなくてもいいです。この中の名刺ごと、捨てちゃってもいいです」
いや、来なくていい。
この痛みごと捨てて、忘れてくれていい。
「だから、今決めないで。どうか、持ち帰ってほしいです」
俺は、必死にこの子に伝えた。
間違わず、正しく、伝わるように。
「ここだけで決めないで」
何度も何度も、似た言葉を繰り返した。
かけられる言葉の、限りを使った。
「家族……、そう、お母さんとか。もういちど、聞いてみてほしい」
彼女は何も言わなかった。
ただ、頷くことを繰り返していた。
「それからでも、遅くないです。ぜんぜん」
ハンカチと、俺の顔を、交互に見ながら。
「……はい」
「君の意思で、決めてください」
言い切ったときには、彼女は、泣き止んでいた。
「嘘だろ」
九時。
俺は定時通りに出勤した。
いつもどおり、回路電算を起動したら、ダッシュボードに昨日の結果が載っていた。
【履行済】
タイムスタンプは、八時三十八分。
時計を何度も見直した。
スマホの画面も、壁の時計も、パソコンの時計も、電話機の時刻も。
「やるじゃん。数字、かなり出たね」
それは、蛸井さんの声だった。
こんなことを言われるんだったら、じゃあ、叱られていたほうが、ずっとましだった。
――
私は、あの日のことを思い出していた。
いつもと同じように暑かったこと。
地下鉄に乗ったこと。
自販機でジュースを買ったこと。
リュックにつけていたキーホルダーを、帰り道に落としたこと。
あの日の夜は、お母さんとお父さんに、もう本当に怒られた。
あんなに怒られたのは、はじめてだった。
私は、泣いたのがバレないように、目の赤みが落ち着くまで、門限をたっぷりやぶってから、家に帰った。
LINEも、電話も、たくさん着歴が残っていた。
怒られるのは分かっていたから、せめてLINEの既読はつけていた。
余計に怒られるんだろうな、っていうのも、分かっていた。
でも、何も返さないよりは、ましだと思った。
だから、ふたりとも、私のことを家で待っててくれたんだと思う。
ただいま、とドアを開けたら、お母さんが玄関まで小走りできた。
お母さんの目が、少し赤くなっていた。
怒られるまえに、そんな悲しい顔を見たのも、はじめてだった。
どこに行ってたの。
何をしてたの。
学校からも連絡が来てたよ。
学校、行きたくなかったの?
もう本当に、色々たくさんのこと。
言われて、叱られて、怒られた。
私は言った。
「ううん。学校が嫌なわけじゃない。そんな気分だっただけ」
適当な嘘をついた。
でも嘘じゃない。半分は本当のこと。
鳩の話でもしたらいいのかな、と、怒られているのに、やたら眠たい頭の隅っこで、ぼんやり考えていた。
あの会社と、浅間さんのことは、言えなかった。
お母さんに言いたくなかった。
ハンカチは、ポーチの中に隠した。
浅間さんのお願いを聞くことは、できなかった。
これ以上、お母さんに心配をかけたくなかった。
翌朝、私はお父さんに車に乗せられて、学校まで送られた。
お父さんは、まあそういうときもあるよな、って、こっそりかばってくれた。
私は、車登校って楽でいいな、って思った。
学校から少し離れたところで、車を降りた。
振り向くと、お父さんは、車の中から私を見ていた。
門に着いて時計を見上げると、いつもより、少し遅い時間だった。
上履きに履き替えた。
下駄箱は空いていた。
階段を登った。
リュックが、重かった。
教室の前に、着いてしまった。
着いてしまった。
まだ、先生は来ていない。
もうすぐホームルームが始まる時間。
廊下は、静かだった。
そのぶん、教室の中の騒がしさが、耳に入ってきた。
今日は、あの子たちは、なんの話をしていたんだろう。
怖くなった。
どうしたらいいのか、わからなかった。
動けなかった。
助けてほしかった。
リュックの中から、ポーチを出した。
その中に隠していた、きれいにたたまれた、青いハンカチ。
勇気がほしかった。
ハンカチを握った。
ちがう洗剤の匂いがした。
紙が、一枚落ちた。
それを、拾った。
まっぷたつに、千切れた。
くらくらした。
そこから先のことを、よく憶えていない。
その日、頭の中に残っていること。
教室のカーテンが、同じように風に揺れて、ふくらんでいたこと。
明日は、私の誕生日だ。
お母さんは毎年、私の好きなメニューをたくさん作る。
ハンバーグとか、クリームパスタとか、唐揚げとか。
それから、国道沿いにあるケーキ屋の、ちょっといい苺のケーキ。
一年のときも小六のときも、その前から、それはずっとそうだった。
プレゼントも、用意してくれているのを知っている。
何度も調べて、写真を見せて、お父さんには、間違えたら怒るからね、と、念押しまでした。
そうだったのに、今になって、そんなに欲しいとも思わない。
なんで欲しかったのかは、それは思い出せる。
それだけじゃない。
楽しかったことは、憶えている。
悪口も、不思議と怖いと思わない。
怖かったことは、憶えている。
なんだかどれも、遠くて、淡い。
遠くて、淡くて、静かで、心地が良い。
明日のことを考えても、胸は躍らない。
だけど、未来のことを考えても、何も怖くない。
あの日から、薄くて見えない何かが、心の奥にくっついている。
だけど、それを振りほどく気にも、拭きとる気にもなれなくて。
ああ。拭くといえば。
あの人のハンカチ、どこに隠したんだっけ。
ポーチが、真っ白なシャツの隣で、洗濯竿に揺れている。




