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第1話 見つかりたい男-3

「唐揚げ定食一つ」

「あ、僕は日替わり定食で」


 ピークタイムを過ぎた定食屋だった。

 先客が退席した後のテーブルには、ちらほら食べ終わった食器が置いたままになっていた。

 テレビの音、味噌汁と古い揚げ油のにおい、ぬるついた床。

 蝿川さんは、席に着くなり首を鳴らし、ネクタイを緩めた。


 俺は、まだ呆気にとられていた。

 依頼人を見送ったあとも、応接室で立ち尽くしていたのだと思う。


 蝿川さんの「飯行くぞ」の一言で、時計を見た。

 そこでようやく、昼休憩の時間にまで商談が食い込んでいたことに気づいた。

 空腹を忘れてしまうくらいには、あの空間に呑まれていた。


 我に返ったときには、名刺はもうテーブルの上にはなかった。


 蝿川さんは、店員が持ってきた水を一口飲んだ。

 氷のない水。曇ったコップ。


「お前さ」

「はい」

「考えとけって言ったよな」

「はい?」

「そのアホ面」

「……そうですね」


 そのアホ面、使えるように考えとけよ。


「考えてました」

「嘘つけ。目逸らしただろ」

「逸らしました」

「逸らしたよな」


 一挙一動、こっちの方も確認されていたらしい。

 蝿川さんは、俺を睨んだ。


「考えた結果がそれ?」

「……売れるのが、どのアホ面かわかりませんでしたから」

「は」


 睨んだ目が、丸くなった。

 怒らせたか。


「お前、案外そういうタイプ?」


 蝿川さんは、くっく、と笑った。

 皮肉を返したつもりだったので、笑われるとは思わなかった。


「今の返しはちょっとあり」

「……ありがとうございます」

「褒めてはいない」

「そうですか」


 どっちなんだ。

 完全に怒るだろうと思って言ってみたから、拍子抜けした。

 なんだかこの空間で俺だけ不機嫌なやつ、みたいな感じになった。

 俺、感じ悪いじゃないか。


「はい、定食お待ち」


 盆の上に乗って、定食が運ばれた。

 乱雑にテーブルに置かれ、蝿川さんのコップが揺れる。


「うっす」


 蝿川さんは、揺れたコップをそっと指で押さえた。

 水は、こぼれはしなかった。


 おしながきをよく見もせずに頼んだものだから、今日のおかずは知らなかった。


 米が乾いていた。

 日替わりは焼き魚だった。

 魚も乾いていた。


 ああ、なんかこっちも、まずいんじゃないか。


「……そんで、使えなくもない」


 蝿川さんは構わず話を続けながら、箸袋を破った。


「客が勝手に読む」

「読む?」

「お前次第でな」


 割り箸の割れる音が、やたらと耳に響いた。


「俺次第?」

「これやばいかも、まずいかも、やっちゃったかも」


 唐揚げを、箸でひとつ摘んだ。


「やめたほうがいいかも、ねえどうしよう、どうしたらいいかな」


 唐揚げが、箸に挟まれたまま持ち上がっていく。


「そこでお前の顔が目に入る。」


 箸先が、唐揚げごと、俺の方へわずかに向いた。


「お前が、愉快なアホな面をしてればしてるほど」

「愉快なアホ面……」

「これって、そんなに大したことじゃないのかも、って」


 蝿川さんは、唐揚げを口に運んだ。


「思いますかね……」


 俺は、箸で焼き魚をつついた。

 蝿川さんは、よく咀嚼して飲み込んだ。

 水を一口。


「逆に、恍惚のアホ面を見せてみろ」

「恍惚のアホ面……」


 唐揚げは、油ぎって、そのくせすごく硬そうに見えた。


「じゃあこれ、すごくいいことなんじゃねーの、って」


 水をもう一口。


「勝手に飲み込むわけ」

「……飲み込む」

「そう」


 蝿川さんは、箸先を軽く揃えた。


「お前のあれは、食えないやつ」

「……そうでしょうか」

「見せるも何も。ただ漏れてただけ」


 漏れてただけ、に何も言い返すことができない。

 できないから、食事を口に運ぶことで誤魔化した。


 俺は、焼き魚のかけらを、ようやく口に運んだ。

 これも硬い。

 それなのに、皮がぶよぶよしている。身はぱさぱさしている。

 小骨はそのまま。

 飲み込みづらい。


 味は、しなかった。


「……お前、箸へったくそだな」


 困惑している間に、唐突に無作法をなじられた。

 箸使いまで指導してくださるのか、この人は。


 蝿川さんは、自分の小皿を俺の方へ寄せた。


 糠漬けが乗っている。

 三かけらの人参だった。

 糠の奥底に忘れられていたように、しなびている。


「やるよ」

「漬物ですか?」


 鮮やかな浅い橙ではなく、沈んだ橙色をしていた。

 どうにも食欲を誘わない。


「ここの日替わり、くそまずいからな」


 それは何より先に言ってほしかった。


 糠漬けなんて、実家でも食わない。

 正直、食べ残しにあずかるみたいで、気が進まない。

 気が進まないけど、わざわざ寄せられたのだから、一枚くらいは、と箸で取る。


「ん」


 慣れない歯触りがした。

 見た目通り、やたら酸っぱくて、やたら塩気が強い。

 でも、人参の味と、土の香りがした。


 そのあとで、さっきまで味のしなかったものも、ちゃんと魚だったことを思い出した。


「……うまいです」

「漬物はな。あとはまるでだめ」


 なるほど。

 昼飯を食わせる気はあったが、うまい飯を食わせる気はなかったらしい。


「あんまだらだら食ってんなよ」


 蝿川さんも、糠漬けを一切れ口にした。

 向こうは茶碗も皿も、ほとんど空になっていた。


「それってつまり」

「ああいう手合い、早えんだよ」

「早いってことは」


 水で焦りを流し込む。


「……あの、成立って」

「あ?」

「一体、どのタイミングで決まるんですか」

「ああ。決めたとき」

「決めたとき?」


 蝿川さんは、さっきの箸袋を、おもむろに持ち上げた。

 それを指先で、二度、三度、ゆっくりと細かく裂いた。

 白い紙片が、テーブルの上にはらはらと落ちた。


「こういうこと」







――


 店を出ると、午後の光が眩しくて、暑かった。


 振り返ると、定食屋の暖簾が揺れていた。

 揺れるほどの風は、体には感じられない。

 ぎとぎととしたにおいが、服に残っている。


 時計を見ると、一時半にかかろうかという頃だった。

 そもそも、長居をする場所ではなかった。


 喉に小骨がひっかかったような、窮屈で詰まる感覚はとれていない。

 たぶん、俺は、いろんな意味でもうここには二度と来ない。


 蝿川さんは、会社の方へ歩きながらスマホを見ていた。


 足が速い。

 歩幅がやたらでかい。

 追いかけるように、その横を歩いた。


 東日本橋に向かって、裏通りを進んでいく。

 労働の往来がそのまま残っている、くたびれた道路。


 それに沿って、勝手に生えてきたような雑居ビルが立ち並ぶ。

 塗装の剥げたシャッターや集合ポスト、古い社名板。

 規則正しく並ぶ窓の中は、どれもかれも、誰かが働いているのか住んでいるのか、いまいち判然としない。


 妙な生活感の檻に湿気が滞留しているように感じて、ますます汗がにじんだ。


 振り返ると、大通りの方には、ガラス張りの派手な高層ビルが、経済の権威を競うようにひしめきあっている。

 それが蜃気楼みたいに遠く見えるほど、この道は静かだった。


 その静けさの中で、蝿川さんのスマホが小さく鳴った。

 蝿川さんは、足を止めないまま、画面を見ていた。


「……おー。成立。お疲れちゃん」


 たったそれだけ。

 何事もなかったかのように、スマホをポケットにしまった。


「せ、成立ですか」

「うるせ。言ったろ」

「もう?」

「そ」

「いつです?」

「今、履行開始って出た」

「連絡は?先方の意思表示は?」

「あったから、成立したに決まってんだろ」


 蝿川さんは、もう興味がなさそうに歩みを続けていた。

 成立。

 履行開始。

 その言い方が、あまりにも軽かった。


 いろいろ聞きたいことはある。

 聞きたいことはあったけど、その軽さと早さに、どれから聞けばいいのか分からなくなった。


「……あの人、ちゃんと考えたんでしょうか」

「さあ?」


 蝿川さんは、振り返らないまま言った。


「さあ、って……」

「成立したなら、そういうことなんだわ」

「そういうことって、どういうことですか」

「思考の深度なんて知らねーよ」


 知らねー、という言葉に、思わず蝿川さんを追い越して、前に出た。

 蝿川さんは、一瞬だけ、足を止めた。


「客が本気で願った」


 心底、面倒くさそうな顔だった。

 今朝の研修のときと、同じ顔だった。


「そんで、こっちに触れた。それだけ」


 大通りでは、車の音がやまない。

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