第1話 見つかりたい男-2
依頼人は、テーブルをはさんだ上座の応接ソファの真ん中に、所在なさげに座っている。
半開きのブラインドから、正午に近づいて高くなった陽光が差し込み、テーブルの上に細い影を並べていた。
近すぎない。
離れすぎてもいない。
ただ、俺と蝿川さんと依頼人の間に、緊張のガスみたいなものが、薄く充満していた。
息苦しい。
率直な俺の感想だ。
テーブルの上には、蝿川さんの名刺入れと、折り畳まれた薄い資料が一枚。
俺の膝には、記録用のPC。
資料はまだ開かれていない。
依頼人は、両手を膝の上で組んでいた。
手を握りしめているせいか、指先が白くなっていた。
唇も、わずかに震えている。
「……広告を、見ました」
まるで息継ぎするかのように、依頼人はようやく口を開いた。
「……見つかりたいんです」
その言葉は、思っていたよりずっと小さかった。
俺は思わず眉根を寄せた。
蝿川さんは、ただ頷いた。
「はい」
至極平らかな、軽い返事だった。
けれど、流した感じではなかった。
「誰かに、ちゃんと。」
「誰に?」
その問いだけが、少し速かった。
依頼人が止まる。
俺は、タイピングする手を遅らせた。
誰かに。
誰に。
確かに。
見つかりたい、という願いは抽象的すぎる。
何を見つけられたいのか。誰に見つけられたいのか。
当然、必要な確認だと思った。
けれど、そう聞かれた依頼人は、確認を受けたというより、見られたくないものを見られたような顔をした。
「……誰、というか」
「ええ」
「別に、そういう、決まった相手がいるわけではなく」
蝿川さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。
依頼人を馬鹿にしたようにも見えない。
ただ、今の沈黙と、言い直しと、膝の上で開いた指先を、まとめて見たような顔だった。
「なるほど?」
語尾だけが、上がった。
依頼人の肩が、わずかに縮む。
「いや、変な意味じゃなくて」
「分かりますよ」
蝿川さんは、間髪入れずそう言った。
分かる。
何が分かったのか、俺には分からなかった。
「ただ……ただ、ちゃんと見てほしいというか」
その一言で、許されたと思ったのかもしれない。
くすぶっていたものを、こちらになすりつけるように、依頼人は話し始めた。
「はい」
「自分から言うのも、違うじゃないですか」
「違うでしょうねえ」
「でも、誰にも気づかれないのも、なんか」
依頼人は、そこで一度、言葉を切った。
蝿川さんは、急かさなかった。
ただ、顎を引いて、待っている。
物憂げな表情で、話の続きを促しているようだった。
けれど俺には、その視線がもう依頼人の言葉を追っていないようにも見えた。
蝿川さんは、たぶんもう分かっている。
「つまんない?」
軽い声だった。
依頼人は、俯いていた顔を上げた。
「ああ……。つまんない、というか」
「というか」
そして、蝿川さんは、言わせる。
「別に、すごいことをしたいわけじゃないんです」
「はい」
「有名になりたいとか、そういうのでもなくて」
「ええ」
「ただ、なんていうか」
依頼人の指が、膝の上で組み直された。
今度は、不安で握りしめているのではないように見えた。
自分の言葉が、相手に届いたと思ったときの力の入り方だった。
そこからは、依頼人は堰を切ったように話し始めた。
「普通にしてるだけだと、誰にも気づかれないじゃないですか」
普通にしているだけ。
その言葉だけ、やたら強かった。
「ちゃんとやってても、別に誰も見てないというか」
「ちゃんと」
「仕事とかも、遅れないようにしてるし。言われたことはやってるし。別に、迷惑をかけたことだって無いんです」
「なるほど」
「でも、そういうのって、できて当たり前みたいな感じで」
「そうですね」
「名前も、間違えられるんですよ。派遣だから仕方ないのかもしれないですけど」
依頼人は、そこで少し笑った。
笑ったというより、唇が引き攣ったような笑みだった。
「いや、別に、怒ってるわけじゃないんです」
「分かりますよ」
「訂正するほどでもないですし。空気悪くなるのも嫌ですし」
「ええ」
「だから、こっちが合わせるんですけど」
蝿川さんは、ゆっくり頷いた。続きを待つ合図のように。
依頼人はそれを見て、前のめりになる。
「でも、合わせてることって、見えないじゃないですか」
「見えないですね」
「そうなんです」
依頼人の声が、少しずつ速くなっていく。
その声色は、怒っているようにも、嬉しそうにも聞こえた。
「こっちはちゃんと気を遣ってるのに、誰もそれを知らないというか。結局、言った人とか、目立つ人だけが得するんですよね」
「目立つ人」
「いや、得っていうか。そういう人は、周りが勝手に気づくじゃないですか。先日も、職場で、妊娠した女がいて」
妊娠した女。
「みんな、すごく気を遣ってて。もちろん、それはいいことだと思います。おめでたいことですし、体も大事にした方がいいと思いますし」
「はい」
「でも、そういう時に、……自分が何かを言っても、別に残らないんですよ」
蝿川さんの指が、テーブルの上の名刺入れに触れた。
まだ開けない。
「おめでとうございますって言っても、おそらく聞こえてはいるんです。でも、それだけで」
「それだけ」
「はい。それだけなんです」
依頼人は、自分で言ってから、一拍、黙った。
たぶん、その言葉が思ったよりしっくり来たのだと思う。
「そう、それだけなんです。いつも、いつも」
蝿川さんは、そこで一度だけ、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
語尾は上がらなかった。
今度の「なるほど」は、確認ではなく、受領に聞こえた。
「つまり」
蝿川さんは、まだ結論を言わなかった。
依頼人をじっと見つめていた。
それがひどく悠長で、まるで、続きを依頼人の口から出させるために、わざと空白を置いたみたいだった。
「誰かに、ちゃんと気づいてほしいんです」
依頼人は、その空白に乗った。
「誰かに」
蝿川さんは、表情を変えずに続けた。
「はい」
「ちゃんと」
「はい」
「でも、自分から言うのは違う」
「……そうです」
「見てください、って言うんじゃなくて」
「はい」
「向こうから気づいてほしい」
依頼人は、息を吐き、また俯いた。
その顔に、恥ずかしさと安心が同時に浮かんでいた。
自分では言いたくなかったことを、相手が代わりに言ってくれた時の顔に見えた。
「そうです」
それは、小さな声だった。
「……そういうことです」
「じゃ、見つかっちゃいましょうか」
蝿川さんは、笑顔で答えた。
いともあっさりと。
「え?」
聞き直すように、依頼人は再び蝿川さんを見た。
「いいですね、とても素晴らしい願いです」
蝿川さんは名刺入れを開き、緩慢な動きで、名刺を一枚、引き抜いた。
依頼人の視線が、蝿川さんの手元に落ちた。
「できるんですか」
「できますよ」
蝿川さんは、名刺の角を指先でなぞった。
「見つかっちゃいましょうよ」
「……」
「誰かに、ちゃんと。向こうから」
依頼人は、蝿川さんの手元と、その言葉に釘付けになっていた。
「社内でも、プライベートでも。いいねでも、コメントでも、視線でも、場合によっては身体でも」
身体でも。
その言葉だけ、記録に打つのをためらった。
俺は、固唾を飲んだ。
「みんなが、あなたの深ーいところに、興味を持つ」
俺は、そこで少しだけわかった気がした。
蝿川さんは、依頼人の願いに、別の何かを混ぜている。
「そういう世界です」
依頼人は、黙っていた。
空調ファンの音が聞こえる。
タイピングの音を鳴らすことすら憚られる。
テーブルの上の資料は、折り畳まれたまま。
説明は、たぶん足りていない。
「……そんなこと、できるんですか」
依頼人は、再度確認するように、同じことを聞く。
蝿川さんは、またも平らかに、軽く答えた。
「できますよ」
さっきと同じ言葉が、その口調とうらはらに、妙な重さを持って応接室に沈んだ。
「今は、ちょっと見えにくいだけなんで」
「見えにくい」
「はい。埋もれてるんですよ」
「埋もれてる」
「そう。別に、ないわけじゃない」
蝿川さんは、囁くように声を落とした。
「見つかってないだけです」
依頼人の表情が、変わった。
ほんの少しだった。
でも、明らかだった。
今の言葉は、依頼人が欲しかったものだ。
自分には何もないのではない。
見つかっていないだけ。
蝿川さんの声色が、いやに甘やかで、優しくて。
依頼人の目の輝きを見て、俺は思わず目を逸らした。
「さて。見つかるためには、場所を作る必要があります」
「場所」
「はい」
手元の名刺を玩びながら、蝿川さんは続けた。
「例えば、そうですね。……うーん、今あるものが、ちょっと軽くなるかもしれない」
「軽くなる」
「あなたにとって、もしかしたらしがらみと感じているものかもしれないし、はたまた忘れたい記憶、そういうものかもしれません」
しがらみ。
忘れたい記憶。
蝿川さんの言葉は、説明というより、選択肢を置いているようだった。
どれでもいい。
好きなものを選べばいい。
そう聞こえる言い方だった。
その言い方は、まずいんじゃないか。
「ただね、別に、何もかもなくなるとか、そういう話じゃないですよ」
蝿川さんは、軽く笑った。
「大丈夫です。必要なものまでなくなるわけじゃありません」
頭の奥を、冷たいものがよぎった。
依頼人は、黙っていた。
もしかしたら、自分の中からなくなってもいいものを、探しはじめているのではないか。
「見つかる方に寄せると、どうしても少し整理は入りますね」
「整理……」
「はい」
「今のままだと、あなたを見る場所が少ないんです」
「見る場所、ですか」
「ええ。だから、空ける」
「はい」
「そうです。あなたが見つかるための場所を」
依頼人は、決意のように眉を寄せた。
ほんとうに、心の中を漁っていたんだ。
「それは、人間関係とかですか」
蝿川さんは、やはりすぐには答えなかった。
首を傾ける。
否定でも肯定でも、どちらとでもとれる角度で。
「そういう場合もあります」
「……」
「でも、怖いことじゃないです」
蝿川さんの声は、やわらかかった。
「本当に大事なものって、そんなに簡単には軽くなりませんから」
依頼人は、久しぶりに呼吸を思い出したみたいに、息を吐いた。
その顔に、安堵のようなものが浮かぶ。
俺は、入力する手を止めた。
本当に大事なものなら、簡単には軽くならない。
それは、安心できる言葉に聞こえた。
けれど、逆に言えば。
大切なものを、自分自身で測りきれていなかったとしたら、どうなるのだろう。
「……今、そんなに大事な関係があるわけじゃないので」
依頼人が、小さく言った。
言ってから、一度だけ唇を結んだ。
自分で言った言葉を、自分で確かめているのかもしれない。
「でしたら、問題ないと思います」
蝿川さんは、すぐにそう言った。
早かった。
この人は、待っていた。
そして、待っていたことを悟らせないように、笑った。
「……もちろん、無理にとは言いません」
蝿川さんは、ようやく名刺を指先で持ち上げた。
「こういうのは、勢いで決めるものでもないんでね」
そう言いながら、名刺をテーブルの上に置く。
依頼人の手前より、遠い位置。
手を伸ばせば届く。
けれど、今すぐ触れなくてもいい距離。
「一度、持ち帰っていただいて結構です」
「……持ち帰る」
「はい」
蝿川さんは、名刺から指を離さなかった。
依頼人は、名刺を見ていた。
蝿川さんの名前と、肩書きと、乞糸商事株式会社という社名。
その下に、電話番号と、営業部の文字。
なんの変哲もない、普通の上質紙だ。
「見つかっちゃってもいいかな、なんて思えたら、これ、触ってください」
俺が持っているものと何も変わらない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「急がなくて大丈夫です」
蝿川さんは、軽く笑った。
「そう思えた時で」
依頼人は、小さく頷いた。
分かっているのかどうかは、分からなかった。
だって、俺も、分かっていなかった。
「大丈夫です」
蝿川さんは、そこでようやく、名刺から指を離した。
依頼人は、名刺の端をつまんで、自分の方へ引き寄せた。
触れた、というより、持ち帰るために拾っただけのように見えた。
「見つかる時って、だいたい急に来ますから」
依頼人は、その紙片に釘付けになったまま、小さく頷いた。




