第2話 白井河原合戦の残響と、羽柴秀吉との義兄弟誓約
時期:元亀二年(1571年)八月 〜 元亀三年(1572年)八月
白井河原の激闘は、北摂の地を血で染め上げた。中川清秀の主な所領内、摂津国島下郡(現在の茨木市周辺)で合戦らしい合戦があったのは、これが最初で最後だったのかもしれない。
中川清秀は、母から受け継いだ「長巻き直しの脇差」をその手で固く握り締め、荒木村重とともに摂津守護代・和田惟政・甥の茨木重朝の軍勢を討ち取った。母が豊能は多田院からの輿入れ道具として、そして守り刀として持参した、一族の祈りが込められた中まき直しの脇差の歴史ある刃が、中川家の運命と歴史を切り開く最初の一穴をうがったのである。
傀儡政権とはいえ池田党として出撃した荒木村重、清秀の従妹兄弟、この二人はこの地に確固たる覇権を打ち立てた。
摂津三守護の統合をはかるミッションは成功を収めたが、勝利の歓喜も束の間、東は美濃尾張から来て、電撃的な上洛を果たした織田信長という巨大な軍事システムに組み込まれた瞬間ともなったのである。
時代の変革期の強大な圧力が都から距離多く設置の地にも巨大な津波のように押し寄せていたのである。
茨木城の薄暗い武具蔵。中川家の鉄砲頭・加藤甚五郎は、並べられた二百挺の火縄銃を検分していた。百八十挺は現役の標準的な四匁筒であったが、隅に追いやられた二十挺は、口径が小さく弾丸が合わない旧式の廃物であった。
加藤甚五郎、残るは北摂守護伊丹氏との戦。その機会が遠からぬ日に訪れると考えており、鉄砲隊を早くに整備したい。
先の戦で鉄砲隊がいたのは事実であるが、鉄砲は池田氏のものであり、荒木軍の所属となっている。
当時の鉄砲の価値は1丁が2両から2.5両前後。令和の価値でいえば、1両30万円として、60万円から80万円ほどの中古車1台分であろうか。
180丁が使えるとして、それを扱う兵士の要請もしなければならない。また、火薬などの消耗品の確保をしておかなければ、先の戦で鉄砲を倉庫に収めたまま使用できなかった茨木軍の二の舞となる。
加藤甚五郎は中川清秀はもちろん、本田菊之進や山脇源太夫に急ぎ相談しなければならないと気が急くばかりであった。
元亀三年(1572年)八月、
茨木城内の櫓にて。「瀬兵衛殿! ワシと貴殿は、今日から腹を割った実の兄弟じゃ!」 まだ織田家の一将軍に過ぎなかった木下藤吉郎(後の秀吉)は、くしゃくしゃの笑顔を浮かべて清秀の肩を抱いた。
清秀は、目の前の小柄な男の眼光に潜む並々ならぬ野気を感じ取りつつも、強くその手を握り返した。信長に臣従しつつ、北摂の領民と自らの直轄領を守るためには、この急速に頭角を現しつつある織田家の変わり者でもあり実力者ともなった秀吉と縁を結ぶことが最善の策であった。
二人は起請文を焼き、その灰を酒に混ぜて飲み干す「血の誓約」を交わした。同格の義兄弟となったのである。
その頃、中川館の片隅には、妙見党の手引きによって伊予から預けられた幼い小富士朗がいた。
谷口寅之助が言っていた伊予の水軍からの預かり物でもあり、水練の手本でもある少年である。
姓は来島、名は小富士朗、瀬戸内の村上水軍3軍のうちの1家、来島水軍の幹部の子弟である。
伊予の言葉と北摂の言葉は少々異なる。小富士朗は自分の立場や、伊予の国が摂津の国と比較すれば、国力が乏しいことを察している。
自然、言葉少なになり、それがゆえに小さき立場で孤立しがちになってくる。
言葉数の少ない瀬戸内の少年を実の弟のように可愛がったのが、清秀の妹・せんであった。このとき、おせん24歳、小富士朗12歳である。中川秀政が4歳であるから、おせんにしてみれば、小富士朗は年の離れた弟であり、甥の秀政よりも親しい存在であったかもしれない。
「小富士朗、海が恋しいやろ。今日は鯛を手に入れたからな」。昨夜、小富士朗が月をぼんやり眺めながら瀬戸内の家族が恋しくなっていたのを見たのか見てないのかは分からない。
しかし、せんはここぞというタイミングで、小富士朗のために、北摂の山あいでは手に入りにくい海の白身魚を領内の楽市で調達し、松山の鯛めしを模した温かな炊き込みご飯を振る舞った。
湯気の立つ飯を頬張る少年の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「せん姉ちゃんおいしいな」小富士朗の目から涙がこぼれる。
「小富士朗、泣くほどおいしいのか。食べてくれてありがとう。姉ちゃんも食べようかな。」おせんは小富士朗の涙の意味を知っているが、それにはふれず一緒に並んで夕飯を食べた。
戦国の殺戮の嵐の中で、茨木の館には確かに温かな人の営みが脈打っていた。




