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 N駅を降り、そのまま改札を通って商店街の方向へと向かう。

 暑さもそこそこ通り過ぎ、路傍に咲く金木犀がその豊かな香りで秋の訪れを感じさせていた。

 甘い香りを堪能しているのも束の間、目的の場所が見えてくる。


 喫茶「ステラ」。

 檜で建造されたその建物は、閑静な街並みに溶け込んで落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 何気なく入ったこの店で飲んだ珈琲はとても香り高く、それでいて(くど)くない澄んだ味わいをしている。

 日頃インスタントで済ましている俺でも明らか入れ方にこだわっていると感じるほどだ。

 缶やペットボトルでも気軽に珈琲を楽しめる昨今ではあるが、やはり人の手で直に作った物は別格だと感じる。

 そんな上品な一杯を頂けるこの喫茶店は、人にお勧めの店を聞かれた時に紹介している場所のひとつだ。


 今回、待ち合わせ相手とどこで合流しようかと話し合った際に、丁度この店を思い出し、相手も是非にと二つ返事で了承したという背景がある。

 腕時計の針もちょうど約束の時間を指しており、入口前にいないことから恐らく店内にいるに違いないと踏んだ俺は木製の押し扉に力を入れ店の中へと入った。


 いつもと変わらない落ち着く檜の香りが鼻腔をくすぐるのを感じたと同時に、頭上からチリンチリンと鈴の音が聞こえ、そのタイミングで従業員が「はーい!」と元気よく返事をしてくれた。

 店内を見渡すと既に数人の来店客がいるようで、お昼時の賑わいを感じさせていた。


「いらっしゃいませ! 一名様ですか?」


「あ、いえ、待ち合わせなんですけど、()()()()って方はもういらっしゃいますか?」


「鈴木様ですね! 少々お待ち下さい!」


 バイトの子だろうか?

 いつも案内してくれていたのは小皺のある人の良さそうなおばあさんだったので内心怯んでしまう。

 後ろで髪を結った高校生くらいの女の子は、俺の話を聞くと店の裏へと行ってしまった。

 元気がいいなとついつい年寄りのようなことを思ってしまい、少し心の中で後悔をする。

 一応俺もギリギリ20代後半なんだけどな……。

 ぽっと出の疚しさに似た感情に当惑していると、とことこと女の子は戻ってきた。


「お待たせしました! 鈴木様ですが既にいらっしゃるようです! 私の方でお待ち合わせのお約束をしていらっしゃることは確認いたしましたので席にご案内いたしますね!」


「そうですか。 ありがとうごいます。」


 なんて出来た高校生なんだろう。

 ここまで的確に配慮できるのは純粋に凄いと思うし、何より愛想が素晴らしい。

 きっと日頃から愛されている少女なのだろう。

 一体俺はここまで気を回せるだろうか。

 おっといかんいかん。

 原稿のことも相まってどうしても卑屈になってしまうな。

 これから約束もあるんだし、せめて平常心で行こうじゃないか。


「こちらになります! ではごゆっくりどうぞ!」


「ありがとうございます」


 快活な女の子は俺を入口から二つ左奥のカウンター席へと案内した。

 待ち合わせ相手は何故か入口側に座っていたので今のところ顔は見えない形だ。

 きっと相手も久々に会うからどこか気まずいのだろう。

 だがここまで来ればそんな感情は関係ない。


「や、やぁ、久しぶり、鈴木さん」


「ん? あら、こちらこそ久しぶり山田くん。 卒業以来よね」


 彼女の名前は鈴木夏菜子。

 彼女は俺の同級生で、俺の初恋の人であり、何より、俺が漫画家を目指すきっかけとなった人だ。


「……」


「……山田くん?」


「え? あぁ! ごめんごめん!」


 まず俺は言葉を失っていた。

 彼女は決して派手なタイプの人間ではなかったはずだ。

 いつも窓際で本を読んでいて、()()()()()とはほとんど関わっていない人であった。

 目立たない黒のロングヘアーに茶色いフレームのメガネをかけた何処にでもいる陰気で地味な女子というのが印象的だったはずなのだが。


 しかし、今俺の目の前で座っていた人は俺の知る鈴木夏菜子ではなかった。

 枝毛一つないしっかりと手入れされたブラウンカラーのロングヘアーに、高校時代で見てきたのはまるで偽物であったかのような端正な顔立ち。

 目を凝らしてよく見ると目元や頬、口元に薄化粧をしているのが分かった。

 女は化粧で化けるというが、まさに言い得て妙であった。

 更に暗いイメージを植え付けていた茶色いフレームの眼鏡も、コンタクトにしているためか、今更綺麗な二重をしていることに約十年経って気がついた。

 服装も俺がいつも見ていた学校指定の地味なセーラー服ではなく、清潔感ある白のシャツに秋にピッタリの落ち着いたタータンチェックの黒スカートを履いている。

 唯一彼女を彼女たらしめるものがあるとすれば、それは少し人を揶揄うような、それでいて甘い、慈愛のこもった猫なで声であった。


「ごめんね、急に連絡しちゃって」


「え? あ、あぁ大丈夫だよ! というか何か凄い変わったね」


「え? まぁ十年近く経ってれば印象だって変わるでしょ? 山田くんはあんまり変わってないっぽいけどね」


「だ、だって鈴木さん昔と違って凄い綺麗になってたから……」


「そう、ありがとうね」


 彼女からのお礼はまるで社交辞令を返すかのようであり、ただ照れ臭さも煩わしさも感じていない、ただのコミュニケーションであるようだが、かくいう俺は、彼女の一挙手一投足に目が離れず、彼女の言葉一つ一つに年甲斐もなくときめいていた。

 まるで一緒に図書室で過ごしていたあと時と同じように。


 その時俺は、昔の彼女を思い出していた。

 彼女と知り合ったのは高校一年生の頃まで遡る。

 まず彼女との出会いを語る前に、俺が起こした本当にくだらなくて聞くに絶えない滑稽な事件について話さなければならない。

 なおこれから話すことについて、気分を害しても一切責任を取るつもりは無い。

 自分でも馬鹿で愚かで浅慮で短絡で、まるで救いようが無かったことは自覚している。

 だが後悔はしていない。

 何故ならそれがなければ今の自分、つまりは漫画家も目指すことは無かったし、こうして鈴木さんと巡り会うことがなかったからだ。

 以上を踏まえて聞いてくれる人だけこれからの話を聞いてくれ。

 ……準備はいいか?

 では始めようか。


 当時、俺の周囲では異性との経験が無いこと、つまり童貞であることがまるで悪人であるような風潮が学年内の空気で滞留していた。

 これがなぜ、どこで流行ったのかを今更知る手段はないが、当時は少なからずとも強い影響力があったと感じている。


 恥ずかしい話、俺自身もこの空気に強く感化されており、周りの友人達から卒業報告を聞かされる度に焦燥に駆られていた。

 焦って思考を放棄した俺は、手当り次第に節操なく女子に告白した。

 酷い時は直接触れることもあった。

 それはもう飢えた獣のように。

 当然そこに好意や愛などなく、ただ可愛いから、ただ綺麗だからという、ストレートに言えば自分の気にいった性処理の道具としてしか相手を捉えていなかった。


 女は男より敏感な生き物であるということを知っているだろうか。

 下心で行動している下卑た男の本心など肌感覚で伝わっていたことは言うまでもないだろう。

 丁寧に振られるだけならまだ可愛気があるもので、俺が近づくだけで犯される、孕まされると泣き出す女子も少なくなかった。

それくらい異性には嫌われ、疎まれていたのだ。

 挙句の果てに、告白人数が二桁に突入したあたりからは「節操なしのヤリチン未遂野郎」「山田不純也」といった不名誉な二つ名を冠していた。


 そして事件は起きる。

 いちいち告白した女子をカウントしていなかった俺は、気付かぬうちに学校一敵に回してはならないという不良の彼女にも手を出してしまったようであった。

 まさに気付かぬうちに虎の尾を踏んでしまったのである。

 そこからは機嫌を損ねた不良とその仲間達による連日連夜の乱闘騒ぎとなった。

 事の顛末だけ語るとするならば、俺は右腕と左足の打撲で二週間の入院、不良とその仲間達は他者への暴力行為によって退学処分が言い渡される形で幕を閉じた。


 肉体的な負傷は多少なりとも辛いものであったが、何より精神に苦痛を与えたのは既存の人間関係の崩壊である。

 友人の彼女に手を出したことや、彼女の方から俺と付き合うなと警告されたことなど、不良と揉めたことも相まって、唯一支えであった俺の男友達との交友関係は破滅の一途を辿っていた。

 入院中に誰からも見舞いなどはなく、携帯の履歴が家族からのみであった時は病院のベッドの上で静かに一人泣いていた。

 まさに自業自得ではあるが、この件を機に、童貞卒業は愚か、周囲からは更に頭のおかしいやつだと噂されることになり、男女関係なく人間性的に危険分子となった。

 完全に周囲と孤立した俺は現実に居場所を失い、今までイラストの参考程度に見ていたアニメや漫画の世界へと深く嵌っていくことになる。

 そんな時に出会ったのが彼女、鈴木夏菜子であった。


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