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「……ただいま」


 鍵を開け、ぼそっと一声放つ。

 言っても返事はないことは分かっているのだが仕方ない。

 これは癖みたいなものだ。

 勿論目の前からは誰からの返答もなく、反響もろくにない。

 無機質な声はただただ真っ暗な玄関へと吸い込まれて行った。


 俺はこれ以上の思考をやめ、壁にある電気を手探りにつけ、薄暗い床に散乱したチラシや新聞紙を気にすることなく踏みつけながら靴を脱ぎ、ドシドシと自室へと向かう。

 部屋はアパートの立地的に日光が入りにくいことと、LEDが普及する現代にも関わらず白熱電球のため全体的に仄暗い。

 床には空のコンビニの弁当やカップ麺が瓦礫の山のようになっており、常人なら通ることすら躊躇うと思うのだが、俺はそこを気にも留めず素通りし、作業机の前にあるゲーミングチェアへと腰掛けた。


「はぁ……」


 ため息を吐きながらほぼ無意識にポケットへ手を突っ込み、セッタとライターを徐に取り出す。

 そして右横の子窓を開け、慣れた手つきで箱から一本取り出し、口に咥えライターで火をつけ肺に空気を送り込む。


 ……美味い。

 昔、まだ吸い始めて間もない頃、煙草を吸わない友人からどんな味がするのかと聞かれたことがあるが上手く言語化出来なかったことを思い出した。

 その時は当惑してしまい、横にいる別の友人へ助けを求めたがそいつも上手く説明することが出来なかった。

 最終的に吸ってみたらこの感覚が分かると、まずは一本吸ってみないかと勧めるのがお決まりの流れとなり、まるで怪しい薬物の勧誘のようにして結局有耶無耶とするのだった。


 懐古からふと煙草を見るとも先端が三分の一まで灰になっていた。

 まだ楽しめることを確認し部屋を一目見る。

 壁はタバコのシミや湿気による黒カビによって汚れている。

 床に散らばる生活廃棄物も相まってこの空間は酷い匂いがするに違いない。

 というのも俺はここに住む十年前から明確に嗅覚が鈍っていると自覚してい

 数ヶ月前に訪れた知り合いもここの匂いを嗅いで若干涙目で自分の居場所を確保していた。

 せめて小まめに換気しろと小言を言ってはいたのでせめて形だけは従い、煙草を吸う時は換気を心掛けている。


「もういいか」


 十分堪能したので机に置いてある灰皿へ煙草を垂直に押し付ける。

 ここまでが帰宅から休憩のルーチンとも言えるだろう。

 さて、少しだけ気分も落ち着いただろうか。

 ニコチンに頼るのも情けないが先刻の神崎さんとのやり取りは正直辛かったと言いたい。


 今回持っていった原稿「バーニング」は主人公が戦闘不能な状態になりながらも、陰ながら仲間達をサポートし最終的に強大な敵を倒すというSFファンタジーものだった。

 以前は主人公は強者のイメージで創作を続けていたのだが、これでは独創性に欠けると指摘されたのでオリジナリティを狙い、一度致命的なダメージを受けるという描写を加筆したのだが言わずもがな結果は酷評。

 神崎さんの心には全くもって響くことは無かった。

 再度彼が言っていた言葉を思い出す。


()()の有無なんじゃないスかね」


 俺はその言葉を思い出し、無性に腹が立って机にあった画材を床へ薙ぎ払った。


「才能って……なんなんだよッ!? 俺はこれでも精一杯描いてきて! 一体これ以上何が足りないんだ!?」


 疑問に対して答えてくれるものはいない。

 ただアパート近くを走る電車の走行音だけが鼓膜を刺激する。

 何年もここに住んできて今更気にするほどの生活音でもなかいのだが、今日はやけに耳障りに感じた。


「クソがッ!」


 罵声を吐いてもただただ虚しさだけが残る。

 何か胸の奥から溢れそうになった時、ふとスマホから着信音が鳴った。


「今度はなんだよ!」


 イラつきながら画面を確認する。

 そこには「母さん」の文字が表示されていた。

 俺は舌打ちを一回、その後画面に表示されている矢印を右に向けて指をフリップする。


「もしもし……」


「あ、純也? 元気してた?」


 能天気な声が癇に障る。

 こっちの気も知らないで何が元気だと言うのだ。

 だが元気じゃないと言っても追求されそうだし、ここは穏便に済ますのが吉だろう。


「あぁ元気だよ。 要件はそれだけか? じゃ俺これから飯買ってくるから」


「ちょっと! それだけなわけないじゃないの!」


 チッ!

 流石に露骨すぎたか。


「何あんたイラついてるの? お母さんに言ってみなさい!」


「言うわけねぇだろ! てかイラついてなんかいねぇし!」


「イラついてるじゃないの!」


 ああ本当にムカつく!

 どうしてこのタイミングでかけてきたのか!

 そしてなぜピンポイントで神経を逆撫でするのか!

 同じ血が流れているはずなのに全く理解できない。


「うるせぇな! 早く用件を言えよ!」


「うるせぇなってお母さんに対してなんなんのよもう! あんたがお正月からずっと音信不通だったから心配して連絡したのよ! それに何時までも定職に就かないし……この前豪語してた漫画家ってのにはもうなれたの?」


「なッ……、も、もうすぐだよ……」


 痛い点を着かれ口篭ってしまう。

 正月に帰省した時に散々議論した俺の就職先。

 高校卒業から東京へ上京し、このアパートではほとんどの時間この机の前で漫画を描いていた。

 一時期はプロの所でアシスタントをしていたが、集団で作業することがどうも自分に合わず、その時アシスタント作業の機会をくれた当時の編集者(佐々木さん)には陳謝し辞めさせてもらった。


 漫画家になるための経験としてはまだまだあの環境で色々学びたいと思ってはいたが、どうしても周りのアシスタントの性格が性にあわなかった。

 人によってはそれは甘えだと言うだろうが、作業自体は差程苦痛ではなかった。

 現場は週刊連載のため過酷を極めており、死に物狂いで毎日を過ごしてきた。

 当然睡眠時間など片手で数える日がほとんどで三徹することだってざらにあった。

 辛くないわけが無い。

 だが高卒で上京してきた俺にとっては渡りに船であった。

 折角手に入れたチャンスを棒に振る訳には行かない。

 絶対この経験をものにしてプロの漫画家になるんだと息巻いていた。


 しかし現実はそんなに甘くない。

 ましてやそこが自分一人だけで完結するものなら今のようにはなっていないだろう。

 当然自分以外にもアシスタントの人は複数人いた。

 ここで問題なのは現場は過酷であったということ。

 そんな環境下であれば普段まともな人間でも正気を保てなくなり本性を露にしていくのだ。


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