取り調べ
駿が特高の車に乗せられて到着したのは、彼が想像していた警察署のようなものではなく、内務省と建物の玄関の入口の脇に掲げられた建物だった。大きなビルで、警察官が入口の両脇に立っていた。
さらに、彼がその中で案内されたのは、取調室として想像するような無機質な小部屋に机が一つ、椅子が二つというようなものではなくて、応接室のような、ゆったりとしたソファーに木造りの広いテーブルがある部屋に通された。
「私はここを離れますが、局長がいらっしゃるまで少しばかりお待ちください」
紬の家にいた時よりは少しばかり丁寧な物言いで、駿を連れて来た中年の特高は言った。
彼が部屋から出ていくのを見送りながら、局長というのは誰のことだろう、と駿は思う。スパイ容疑というのは、きっと建前の問題か、大して重要じゃないところなのだろう。
ぐるぐる思考が回る。内務省というと、西側にはない国家機関だが、確か主に警察行政、地方行政を束ねる省庁であったはずだ。警察の一部である特高の元締めというわけである。
そのような機関で、地位のある人間が、たかだか西側の一高校生にしか過ぎない駿に何の用があるというのだろうか。
扉が開いた。思わず、駿は立ち上がる。少なくとも、座ったままでいるよりは相手の心証が良かろう。
灰色のスーツに地味なネクタイをきっちり締めた、駿も馴染んだ顔が姿を現わす。
「おじさん…」
紬の父親が、眉間に皺を寄せて、駿に相対した。
「内務省警保局長の大島だ……座ってくれ」
紬の家で見せていたような、陽気でアルコールが入ると饒舌になるような、どこにでもいそうなおじさんの姿はなく、謹厳にして実直、というような印象を受けた。
「駿くんは西側の人間だから知らないかもしれないから一応説明しておくとな、警保局というのは警察行政を取り仕切る部署だ。西側の役職で言えばさしずめ私は警察庁長官だな」
たまげた、というのが駿の正直な感想だった。警察のトップということは社会的な地位が高いということであると共に権力があると言っても過言ではない、ということだ。物心ついた頃からたまに会っていた幼馴染みのお父さんが、そんなに偉い人だと誰が思うだろうか。
「まずは君に、まぁ家内と娘にもなんだが、謝らんといかんな。スターリンノックという言葉があるとは言え、さすがに非常識な時間だった」
ふぅ、と紬の父親は溜息をついた。
「しかし、君が突然こっちに来たものだし、家内に妙なことを勘繰られないようにあまり長い残業もできなかったからな、準備がぎりぎりになってしまったのだよ」
「準備……?」
「君を、まぁ言い方は悪いが拘束するための準備だ。君にスパイ容疑がかけられているのは本当だ。西側から突然高校生が一人だけで私の――警察行政のトップの家を訪ねるわけだからな。私はもちろん君がそんなことをしないことは知ってる。だが、いらぬことを勘繰る人間とはいるものなのだ」
彼の口調は柔らかい。その話し方は、どこか吸い込まれそうになる。
「君の案件を局長対応にするための準備に少々時間を要してな。本来は下の公安課の、そのまた下あたりの対応案件だったから」
それで、帰国前夜の深夜の拘束となったわけか、と駿は納得した。
しかし、そもそも駿を拘束する必要があったのだろうかという疑問が生じた。
大島家で怪しいことをしていないからそのまま西側に帰らせて問題ない、というように内部に報告すれば、駿はこのように拘禁されることもなかっただろうし、紬も怖い思いをしなくて良かったはずだ。
紬。もし万が一銃口が紬に向けられていたらと思うと、今でも背中に冷たいものを感じるし、きっと彼女は今、駿の無事を祈るような気持ちでいてくれているだろうと思うと、心が痛む。
「納得がいかんという顔をしているな」
「はい。理由としては不十分ですからね。なぜ特高を派遣したのか納得いくまで説明してほしいです」
「ふむ、自分の権利のために徒手空拳でも戦うか」
「いえ、紬のためです」
ほぅ、と息をもらして、警保局長は視線で続きを促した。
「深夜に叩き起こされて、突然銃口を突き付けられるわけです。俺なんかはまだ西側の人間なので東側への渡航は万一のこともあると覚悟していましたけど、紬にとっては自分の家で起きた出来事なんです。きっと、とても怖かったと思いますし、そのことを思うとすごく嫌な気持ちになります」
じっと見つめながら、紬の父親は駿の話を聞いていた。彼が何を考えながら聞いているのか、駿にはまったくつかめなかった。その表情からは心の内は読みとれず、その挙措は瞬きをするくらいであとは微動だにしない。普段、紬の家で見ている彼とは大違いだった。そして、きっと、家庭での良き夫であり温かい父親という側面と、仕事上ではとことん本心を隠し、一種の不気味さを湛えることができる側面、この両面が紬の父親を高官たらしめているのだろう。
「……結構。君は紬を愛してくれているのだね」
予想をしなかった言葉に、駿は戸惑った。面と向かって尋ねられると恥ずかしいし、しかも相手は紬の父親である。他の誰よりも、ひょっとすると紬自身から発せられるよりも、とても重たい言葉だった。
「……俺は若造です。愛している、という言葉に値する何かを持っているかは分かりません。でも、この身に代えてもいいくらいには大切です」
慎重に言葉を選びながら、駿は言う。
「ならばなぜ、君は亡命しない?」
その問いに息が詰まった。自分の心の弱い部分にナイフを突き立てられた感触があった。
駿は口を開いて、そして閉じた。何を答えれば良いと言うのだ。面と向かって問われれば、確かに理由を答えることができない。
西側に残してきた大切なものを思い浮かべる。血のつながった祖父母、隼人を始めとした友人、両親の墓――それは紬より大切なものなのだろうか?
「……前にも君には言ったろう。亡命をすればよいと。もう見ていられないのだよ、君がいない紬を」
紬の父親は言葉を切った。その静寂は、否が応でも駿を彼の言葉にくぎ付けにする。
「バッサリ切った髪、あれは壁ができた翌日に切ったものだ。君が見てくれないのに髪型を整えて何の意味があるかって言って聞かんかった。以来三年間、ほとんど笑わなくなったし、いつも暗い雰囲気をまとっているし、おしゃれなんかは頑としてしなかったな。見てほしい人がいないって」
ぽつりぽつりとした紬の父親の言葉は、水のように駿の心に沁みていく。
「親の私が言うのもなんだが、紬はその気になれば新しい彼氏くらいいくらでも作れただろう。けれど、あれは逆にできるだけ目立たないように、男子の目を惹かないようにとしていた節がある。果てには女子高に行くと言い張ってな」
紬がそこまで自分のことを想っていてくれただなんて知らなかった、東側への渡航が事実上可能になったその日に、来ればよかったと、駿は後悔した。
「だから、君が東側に来て、紬の隣りに自然に座って、紬が笑って、髪留めを止めて、私としては夢を見ているようだったよ。だから、私も家内も紬が学校を休むと言っても許したし、私は君に亡命を勧めた」
そこで、彼はまっすぐと駿の眼を見据えた。これ以上ないくらい張りつめた、真剣な表情だった。
「亡命してくれないか、駿くん。私や家内のことを親だと思ってくれて構わない。将来的には義理の両親になるわけだしな。私も父親だから、一人娘を他の男に呉れてやるなんて、正直あまり快いものではない。けれど、君にだったら託せるし、君以外には託せない」
それを頼むために、君をここに連れてきたのだ――紬の父親は大まじめにそう言った。
駿としても、退路を断たれた形になっていることは否めなかった。東か西かを選ばざるを得なくなっている。ここで西を選べば、きっと駿はスパイ容疑者として第三国の西側の領事館へ強制送還され、以降東側の地を踏むことはできないだろう。東側を選べば、もちろん西側へは帰れない。東側の人間にはまだ西側への自由な渡航を許されていないからだ。
紬。紬。紬。駿は心の中で恋人の名前を呼ぶ。なんと素晴らしい響だろう。
何よりも大切で、ずっと一緒にいたい。それは嘘ではない。けれど、心の中にある臆病な自分が、その気持ちに蓋をしてしまう。東で生きるということは、もう彼には紬しか残らないということだ。親しい親戚は皆西側の人間だし、東側には紬以外に仲の良い者はいない。隼人をはじめとする西側の友人とももう会えない。両親の遺してくれた遺産も没収されるだろう。少なくとも東側では使えない。祖父母が生きている内に西側の土をまた踏むことはなかなか無理があるだろう。両親の墓参りには、結局法要以外では行かなかったが、金輪際行けないかもしれない。
でも――駿は瞼を閉じた。紬の笑顔が浮かぶ。彼女の笑顔をずっと、死ぬまで、隣りで見ていたい。紬と共に笑い、紬と共に泣き、紬と共に喜び、紬と共に悲しむ。生まれおちた時は別々で、でもずっと一緒に生きてきて、離れている時にもお互いのことを想っていて、そして、これからも共に歩んで、歩みを止める時は別々でも、止めた後は共に永遠を戴いて。そんな人生を送りたい。
両手で、喝を入れるために、両頬を叩いた。臆病な自分を押さえつけ、まっすぐと将来の義父を見据えた。
「榊原駿、壁の東側への亡命を希望します」
一音一音はっきりと、迷いを振り払うように、発音した。自由を捨て、安寧を選ぶのだ。愛する少女と共に享受する安寧を。
紬が好きだ。紬を愛している。今の駿なら、この気持ちが愛だということを、断言できる気がした。
かつての約束のように、紬。共に永遠を戴こう。




