誓約
亡命を申請する書類を書いて、駿は解放された。西側から東側への亡命は、国内問題であるという認識の元、内務省管轄であり、紬の父親が言うには一週間もすれば東側の市民権を与えられ、第三国経由で西側に亡命の事実が通知されるだろう、とのことであった。
その間は東側政府か内務省の指定する東側市民が駿を保護するらしい。もちろん、紬の父親が保護者に指定された。もっとも、指定した人物も事実上は彼自身であったが。
手続きが全て終わった頃には昼前だった。紬の父親に渡されたタクシーチケットは、「ささやかながら東側政府からの歓迎の意」だそうだ。
タクシーに乗り込んで紬の家の住所を運転手に告げた駿は、ぼんやりと窓の外を見ていた。
この地で生きていく。紬以外の大切なものを全て捨てて、でも、紬だけは手に入れて。親友も応援してくれたし、祖父母も許してくれた。けれど、それでも、彼らを捨てたという気持ちは生涯なくなることはないだろうし、しこりとして心の中のどこかにあり続けるのだろう。
それでも――紬と別れるよりは、きっとずっとましなのだ。
大切なものはまた二人で築いていけばいい。西側に残してきたもの以上にかけがえのないものが東側にもできるだろう。
彼は、西側ではあれだけ尊いと思われていた自由に対する執着は、とっくに捨て去っていた。結局のところ、自由という大仰な言葉は、幸せに生きるための方策でしかなくて、自由の下に幸せがないのなら、それは春の日のコートのように、早々に脱ぎ去って構わないものだ。
「お客さん、つきましたよ」
いつの間にか、タクシーは見慣れた路地に止まっていた。運転手にタクシーチケットを渡して、駿は地面に降り立った。目の前には大島と書かれた表札がある。深呼吸して、彼はインターホンを鳴らした。
出迎えてくれたのは、目にいっぱいの涙をためた紬だった。彼女は駿に飛びこむように抱きつくと、声にならない嗚咽を漏らした。駿はその背中にそっと腕をまわして、あやすように優しくさすった。
紬の後ろには、笑顔を浮かべながら、けれど少し困ったような表情をしている紬の母親の姿があった。彼女はしばらく娘と娘の恋人を眺めていたが、やがて一つ頷くと、家の奥へと消えていった。
紬の嗚咽が止まったあたりで、そっと、駿は身体を離した。
「ただいま」
「……おかえり」
悲しそうと表現するには喜びすぎていて、嬉しそうと表現するにはあまりにも寂しそうな、そんな表情で、紬は言う。
そうか、彼女にとって、自分はもう西に帰る人間なのだ、と思って、駿はほんの少しだけおかしく思った。けれど、そんな表情を今見せたら台無しなことは分かっていたので、せいぜいしかつめらしく見えるように、表情を保たなければならなかった。
「大事な話があるんだ。中に入ってゆっくり話そう」
紬は俯いて、そして顔を上げて、まっすぐと駿を見つめて、こくりと頷いた。
「私の部屋に来てよ。折角だからさ」
「じゃあ、そこで話すよ」
どちらからというわけでもなく手をつないで、駿と紬は家に入る。階段を上って、紬の部屋に入る。駿も紬も正座して、相対するように座った。
唇を真一文字に結んで、ともすれば呼吸を忘れているんじゃないかと思わせてくるくらい微動だにせず、紬はじっと駿を見つめていた。きっと、大事な話というのを今か今かと待っているのだろう。彼女はこの小さな恋心に、もう会えないかもしれない恋人に、全てをかけているのだろう。駿にそう思わせるだけの、怖いほどに真剣な眼差しだった。
彼女の真剣に、駿は応えなければならない。
「紬」
「はい」
何と言えば紬に伝わるのだろう。東側へ亡命することにしたことをそのまま伝えるだけじゃ物足りない。けれど、何か難しい言い回しをしたところで、うまく伝わらなければ意味がない。
いろんな言葉が頭のなかをぐるぐる回る。あまり紬を待たせ過ぎるのもいけないけれど、何かちょうどいい言葉も思い浮かばない。
「結婚しよう」
いつの間にか、そんな言葉が口をついて出てきていた。自分でもどうしてその言葉を選んだのか分からない。色々な段階をすっ飛ばしている気がするし、けれど、今の気持ちを、彼の状況を、余すことなくシンプルに紬に届けてくれるのはこの言葉だと思った。
紬は目を瞠って、両手で口元を押さえて、顔を真っ赤にしていた。けれど、怖いほどに真剣な瞳は決して駿の顔から離れることはない。
「……駿くん、西に帰るんじゃないの?」
か細い声で、紬は疑問を呈する。これが彼女の精一杯なのだろう。
「やめた。俺はここに残る」
「どうして?お父さんに何かされたの?」
「いいや、俺の意志だ」
できるだけ紬を安心させられるように、ゆっくりと断言した。
「……私のために残ってくれるんだ」
「違うよ、どこまでも俺のためだ。俺が紬と一緒にいたいから、残るんだ」
駿は両手で、ほっそりとして温かい紬の右手を包んだ。
「ずっと一緒にいよう。どっちかが死ぬまで、そしてどっちともが死んだ後も一緒だ。ずっとずっと、永遠に一緒だ。共に、永遠を戴こう」
いつの日か誓った言葉を、駿は再演する。
心臓が壊れてしまったかのように、どきどきと、狂ったように命を刻む。とても恥ずかしいけれど、一生分の勇気を振り絞って、紬の顔を見据える。紬のうるんだ瞳は、この世のどんな宝石よりもきらきらと輝いて見えた。
紬はそっと目を伏せて、しばらくじっとしていた。何かを考えているのだろうか。それとも何かをかみしめているのだろうか。駿には分からない。彼にできるのは、紬の言葉を待つことだけだった。
紬の左ほおに、一筋の雫が流れた。ゆっくりと目を見開くと、彼女は自由な左手で、そっと自分の目を拭う。
「駿くん」
「うん」
「私もあなたと同じ景色を見たい。あなたと色んなものを分かちあいたい。だから……」
そっと彼女は右手から駿の両手をふりほどいた。そのまま、両手で駿の肩を優しく包むと、触れるだけの口づけを交わした。
突然のできごとに、駿は何が起きたか分からなかった。けれど、きっと今が人生でいちばん大切な時だから、気をしっかり保とう。
「お受けします。一緒に生きよう。一緒に大人になって、結婚して、支え合って、幸せを紡ごう。ね?」
気が付いたら、駿は紬を抱きしめていた。紬が息をのむ音が耳元で聞こえた。けれど、彼女の両腕が優しく駿の首元に回された。
この幸せを、絶対に、ずっと離さない。
「紬」
優しく名前を呼ぶ。この名前を呼ぶのがこんなに喜びに満ち溢れていることだなんて、思ってもみなかった。
「なに?」
耳元で、可愛らしく紬は尋ねる。
「君に永遠を誓うよ」
「私も。あなたと共に、どこまでも」
小さな誓いの言葉は、けれどどんなものよりも重みを持っていた。




