丑三つ時
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうようで、駿が東側で過ごす最後の夜がやってきた。紬は宣言通り、その間学校を完全に休み、電話で担任に叱られていた。とはいえ、西側から来た幼馴染みといるためだと説明すると、不承ぶしょうという感じではあったようだが、納得はしてもらえたようだ。
駿が寝室として使わせてもらっている客間で、彼は一人で布団の上で胡坐をかいて考えていた。もし、今決断すれば、きっと彼はずっと紬の側にいることができるだろう。けれど、それは西側にいる祖父母や、隼人をはじめとする友人たちを捨てることになる。
東側に実際に来た感触としては、西側のような喧騒や華美さはないが、西側で喧伝されるほど非人道的なものでもない。紬の父親が言っていたように、住みやすい場所ではあると思う。
けれど、駿は根っからの西側の人間だった。東側に移住して、どのように暮らしていくのか、あまり想像ができない。
自分にもっと思い切りがあればな、と自嘲する。くよくよ悩まずに、紬と西側に残してきた大切なものと、天秤にかけて決めることができたのだろう。
今の駿にできることはだらだらと決断の日を伸ばすだけ、たまに東側に来て紬に会って、西側にいる時はメールを介してやりとりをする。そんなことしかできない自分の意気地のなさを心の中で罵った。
とんとん、と小さくドアが叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、腕に枕を抱いた紬だった。淡い桃色の寝巻を着て、濡れた髪の毛は短いとはいえ、きちんと櫛で梳かしたようで髪の毛のハネ一つない。前髪に白色の花がついた銀色の髪留めで止めている。頬はほんの少し赤みが差し、口をぎゅっと真一文字に閉じていた。
紬は部屋に入ってきたのはいいけれど、後ろ手で扉を閉めてしまうと、そのまま駿の顔を睨むだけで、一向に近寄ってこない。
駿は困惑していた。紬が駿と話にきたのであろうことは分かる。明日は西に帰るのだし、最後の夜にはゆったりと話したいことがあるのだろう。けれど、それならなぜ枕を持ってきているのか分からないし、ずっと睨まれている理由も分からない。
「どうした?」
大きく息を吸って吐いて、紬は何か決心したかのように一つ頷くと、鬼気迫る表情で歩いてきて、駿の隣に座って足を伸ばす。
「……鈍感」
枕に顔をうずめて、小さな声で紬は呟いた。
「鈍感とは失礼な」
「じゃあ何で私がここに来たか分かるの?」
「……枕投げ?」
そっぽを向いて駿は答える。鈍感と罵られた時点で、紬が何を求めているかは分かったつもりだ。けれど、彼女と共に生きる度胸がない駿には、それに応える資格がない。
きっと、頓珍漢な答えを送った駿に、紬は呆れるなり失望するなりしているだろう。それでいい、と駿は思う。今の関係よりも進んではいけないのだった。
けれど、紬は駿にもたれかかってきた。シャンプーの香りが駿をくすぐる。
「……一緒に寝よう、ということだよ。分かってるんだろうけど」
心臓が早鐘を打つのが分かる。このままだと破裂してしまいそうで、必死に落ち着こうとするけれど、無理な話だった。
紬は耳まで真っ赤にしていた。きっと、心臓の過重労働は彼女も同じなのだろう。
紬にここまで言わせてしまった。駿も何かを応えなければならない。
「……俺は明日西へ帰るんだぞ」
「だからだよ。あなたと一緒にいた証が欲しいの。あなたが確かにここに存在して、私と一緒にいて、そういう証が」
駿の息が詰まる。紬は必死だった。顔を真っ赤にして、きっと恥ずかしいのだろう、それでも想いの丈をぶつけて、駿の眼をまっすぐ見つめて、眼をうるませて、言ったのだった。
「……俺はな、紬、お前の幼馴染みで、お前さえ認めてくれるなら彼氏で、なんというか、大切なんだよ。そんな大切な人を、共に歩む覚悟もないのに、手を出す奴を――自分自身でも許せない」
紬は眼を瞠った。すぐに俯いて、震えて、けれどぎゅっと駿の手を握った。
「……私ね、駿くんがそういう人だってことは分かってたんだ。だから、事実さえ作っちゃえば東に残ってくれるって思ったの……ずるいよね」
紬の声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。
「いや……」
紬にどんな言葉をかければいいのだろう。どんな言葉にも限界があって、嘘っぽくて、自分の想っている全てを伝えることなどできるはずもない。それに、何を言えば彼女の張り詰めた想いを緩ませてあげられるのか、全く分からなかった。
駿は紬の左頬をおそるおそるなぞった。紬は潤んだ瞳を駿にまっすぐ向ける。
綺麗だと駿は素直にが思う。わななく睫毛は長く、触れる頰は滑らかで吸い付くよう。触れたところから感じる温かみは優しかった。
「……隣りで寝よう。眠りに落ちるまで喋ってさ」
駿はいささか自分の理性を過信してるような気がしたが、きっと大丈夫だろう。紬を傷つけたくないというのもどうしようもない事実だったから。
「……うん」
紬は目を伏せて、小さく頷いた。
鈍い音がして目が覚めた。どんどんとドアを叩く音がする。廊下を歩く音がするから、きっと紬の母親も起き出して、ドアを開けに行ったのだろう。
一体何時なのだろう、外は暗いようだった。枕元に置いてあるスマートフォンで時間を確認しようとして、自分の右腕に何かが巻きついていることに気付いた。
――そうだった、紬の隣りで寝たのだった。
駿の右腕を抱きしめる紬を起こすのは忍びなくて、左手で枕元をまさぐり、スマートフォンをどうにか探し当てる。
午前三時四十二分。
丑三つ時だ。
駿の頭が急にはっきりした。この時間帯にまともな訪問者などいるはずがない。
「……なんか騒がしいね」
眼をこすりながら、紬がむくりと起き上がる。彼女は、緊迫した表情の駿を見て、首を傾げていたが、やがてほんのりと頬を赤くする。
「……紬、東側でこんな時間帯に人が来るのが普通だったりするのか?」
スマートフォンを見せながら、駿は尋ねる。
「ううん……」
未だに寝ぼけ眼で、紬は首を横に振った。
ドアの開く音がした後、数秒の静けさの後に、紬の母親が怒鳴る声、荒々しい足音、悲鳴が聞こえてくる。
この頃には紬も完全に眼を覚ましたらしいが、事情をうまくつかめていなかったようで、恐怖におびえながらも惚けていた。駿は、部屋の扉と、紬の間に身体を持ってきて、闖入者に対峙する覚悟を決めた。
荒々しく入ってきたのは、三人の男であった。三人とも黒地の制服を着込んでおり、しかも、その内の二人は拳銃を構えて、ちょうど駿に向けていた。
反射的に、駿は手を上げる。けれど、その場から動くつもりはなかった。彼の背中には、おびえて震える紬がいるのだ。
「特別高等警察です。榊原駿、貴方を西側のスパイの容疑で拘束します」
唯一銃を構えていない中年の人間が、警察手帳を取り出しながら柔らかな声音で言う。
「大人しく従えば貴方の生命、そして現在この家にいる方々の無事を約束しましょう」
そう言われてしまって、元々ほとんど存在しなかった、逃亡という選択肢は消滅した。駿自身がどうなるかは置いておいて、紬の無事が約束されるのであれば、特高を名乗る彼らに従っても良いだろう。
「この家の主人が誰だか分かっているのですか!」
部屋の外から、紬の母親が叫ぶ声が聞こえた。どうも、四人目の闖入者が、彼女のことを取り押さえているようだった。
「待ってください。駿くん――榊原駿は西側のスパイではありません!単なる旅行者です。彼が東側に滞在する間、ほとんど一緒にいた私が証言します」
駿に向けられている拳銃をじっと見て、膝をわなわな震わせながら、それでもはっきりとした口調で、紬は駿を弁護した。
「それを主張するのはここではない」
中年の特高は穏やかに、しかし冷酷に、断言する。
「……一応確認しますが、俺がついていけば紬――この家の住人の安全は保証されますね?」
「それはもちろん」
中年の特高はゆっくりと大きく頷いた。
紬の無事さえ保証されるのなら、抵抗する意味はないだろう。むしろ、駿に向けられている拳銃がもし紬に向けられたらと思うとぞっとする。
「……分かりました」
「駿くん!」
後ろから、悲鳴にも近い叫び声が上がった。しかし、駿はそれを無視する。
「着替える時間をください」
「いいでしょう。シャワーの時間は必要ですかな?」
微量に含まれる揶揄の成分を、駿は礼儀正しく無視して、首を横に振った。




