守りたいもの
「大丈夫なのか、おまえ」
次の日の昼休み、とうとう健吾につかまった。
「優花が持ち直してきたと思ったら、おまえがおかしくなってきたな」
まだ午後の授業には間のある昼下がり、中庭に植わる木々も、六月に入って葉の勢いを増してきている。僕は質問を逸らすように、健吾の隣に立つ優花に目を向けた。
「優花はだいぶ元気になったね。健吾のお陰かな?」
すると、はにかんだ笑顔が返ってきた。
「クラスの子とかはどう? 何か言われたりしてない?」
「うん。拓巳くんのファンの友達や先輩から聞かれたり、意味ありげな目で見られたりしたけど、気にしないで受け流してたら、そのあとは何も言ってこなくなったわ」
「ヘタに隠さなかったのもよかったよな」
健吾も口を添える。しっかりと対応する優花の様子に、周囲も『いつものでっち上げか』と受け取ったようだ。
「もし、またいつかサイトにあのことが載ったとしても、今度は大丈夫よ。だって、あの無口な拓巳くんが一生懸命伝えてくれたから」
優花の頬が淡く色づいた。
「なんで赤くなるの」
笑って突っ込むと、「拓巳くんの真剣な顔を思い出すとちょっと……」とさらに赤くなりながらも、優花は真面目に言った。
「辛い記憶は誰にでもあると思うけど、拓巳くんの受けた困難は、私たちには想像できないような厳しいものだったのね。それを、お父さんが必死に支えてくれたから今の自分があるんだ、って……。だから、お父さんの子であることを忘れないでくれ、って言われたときは込み上げちゃった」
優花は僕の顔を見た。
「だからもう大丈夫。私にはお父さんがいて、健吾がいてくれて、和巳や拓巳くんがいてくれるってわかったから。今度は和巳の番よ」
「えっ……」
いきなり振られ、僕は言葉に詰まった。
「何があったんだよ。俺たちに内緒はなしだぜ」
僕がうなだれると優花の優しげな声がした。
「私がいたんじゃ話せないなら遠慮するから、健吾には言ってよ」
だってわかっちゃうから、と優花は僕を覗き込んだ。僕は優花を見、次に顔を上げて健吾に目線を合わせると、ひとつ息を吐き出した。
「この前、僕の生まれた時のことで……」
浜田凱斗とやり取りしたことを打ち明けると、二人はしばらく絶句したように固まった。
「親の命を……そんなこと」
やがて、優花がつぶやきながら僕の肩を抱いた。手のひらが背中をなでる。つい先日、過去の事実に衝撃を受けた優花には、僕が味わっている心境が手に取るようにわかるのだろう。
優花の手が離れると、健吾が痛ましげに聞いてきた。
「それは……本当なのか?」
「わからない……でも、まったくの嘘とは思えない」
「それで俺に〈T-ショック〉が活動休止したことがあるかと聞いてきたのか」
僕は頷いた。少なくともでたらめではない――あれで、そうわかってしまった。
「拓巳さんには……聞けないか」
優花も健吾も、もちろんそのあたりの事情は知っている。
「何のつもりで凱斗さんは……それが本当かどうかは、凱斗さんの言葉だけじゃわからないよな……?」
健吾の意見にそうだね、と応じ、質問を返した。
「健吾はあの人をどのくらい知ってるの? 部活にはよく来る?」
すると健吾は困った顔をした。
「部活では、まだあんまり顔を合わせたことはないけど、あの人は、ロック仲間の間では有名なんだよ」
「有名?」
「二年くらい前に、幾つものロックバンドコンテストで名を上げた〈ヒューズ-スカイ〉ってバンドがあったんだけど、凱斗さんはそこのドラムでさ。もう腕がハンパじゃなくてね」
そのバンドは残念なことに、曲やボーカルが今ひとつだったので、いつも優勝は逃していたという。
「確かどこかの大会で、凱斗さんだけテクニック賞みたいなのを取って、音楽関係者からスカウトも来てたはずだよ」
「そんなに……」
「でも、凱斗さんのいたバンド、その後解散しちゃったらしいんだ。それで今年、うちの副部長の佐伯先輩が外に持ってる〈クラッシュゲート〉ってバンドに入ったんだよ」
佐伯先輩イケメンだし、結構いいボーカルだからさ、と健吾はちょっと興奮したように続けた。
「十一月のはじめに全国ロックコンテストの決勝大会が横浜であるんだけどさ。先輩のバンド、凱斗さんのお陰で予選通過して、今度そこに出るんだぜ」
「十一月のはじめ?」
それは確か、拓巳くんたちが呼ばれてるイベントじゃなかったろうか。
「一位のグループはデビューも視野に入るから、気合い入っているんだ」
熱く語る健吾に相づちを打ち、僕は話をもとに戻した。
「じゃあ、人柄とかはどう思う? 稜先輩は、その手の嘘をつくタイプではないって言っていたけど」
「そうだなぁ、とにかく貫禄が違うっていうか、大人というか……俺も須藤副会長と同意見」
「今回のこと、須藤先輩はさぞかし心配してるでしょうね」
「あ、うん……」
もちろん二人とも僕と稜先輩の関係を知っている。答えの出せない僕に「焦るのはよくない」と寛大だ。
優花は、以前は俊くんの行動に戸惑い気味で、稜先輩を応援しようかな、などと言っていたが、健吾と付き合いはじめてからは「人を好きになる気持ちに差なんてつけられない」と中立になった。
「須藤先輩が居合わせてくれてよかった。あの強い人なら、和巳の身辺に目を光らせてくれるわ」
「そんな迷惑、かけたくないよ」
「迷惑なんて思わないさ。むしろ望むところなんじゃね?」
健吾の言うとおりかもしれない。でも凱斗はその稜先輩を圧倒していたのだ。とてもじゃないが安心する気にはなれない。けれども稀に見るドラム奏者として尊敬している節のある健吾に、あまり彼の危険性を訴えるのもためらわれる。
僕は当たり障りのなさそうな質問に切り替えた。
「あの人は、前はどこに住んでいたの?」
「前? 東京のどこだったかな……」
「それを調べてもらっていい?」
「わかった」
そこで話を打ち切り、僕たちは教室に戻った。
自宅に戻った僕は、やむを得ず拓巳くんを避けて過ごした。
なるべく自然に振る舞いながら、さりげなく接点を減らし、二日経ったところでアトリエに詰めるべく家を出た。
二日間の挙動不審に加え、前回の個展より三日も早いアトリエ入りに、さすがにただならぬものを感じ取ったか、拓巳くんは次の日の夜、わざわざ俊くんに連絡を入れてアトリエに僕を迎えに来た。
玄関先に現れた彼は、美貌に焦燥を漂わせながら心情を一言で表現した。
「帰ろう……」
そこにはたくさんの言葉が込められているのを僕は知っている。
(帰ってきてくれ――)
(おまえが家にいないと辛いんだ。そばにいてほしい――)
けれども出迎えた俊くんの隣で僕は首を横に振った。
「どんどん忙しくなるから、まだ帰らないよ」
「和巳っ……」
拓巳くんの顔が瞬時に白くなった。
「寂しい思いをさせてごめんね。でも……」
凱斗から放たれた杭は思ったより僕を痛めつけたらしく、自宅に戻った日の夜からは例の夢にうなされだした。朝方、汗びっしょりになって飛び起き、拓巳くんの寝室を覗いては、寝ているかを確認して戻る――そんな緊張の日々は二日で限界だった。
俊くんが助け船を出してくれた。
「この前、おまえに貸した分を使わせてもらうぜ」
その言葉で、拓巳くんは押し黙った。
この前――あのフラッシュバックのことだろうか。
「今は何も聞くな。個展が終わるまでは我慢しろ。辛いなら、連絡してやるから芳さんのところへ行け。間違ってもふらふら一人で飲み歩くなよ? ヘンな騒ぎ起こしたら和巳は帰さないからな」
拓巳くんの白皙の面にカッと朱が差した。俊くんは構わずに畳みかけた。
「もとを正せば、おまえが和巳にずるずると甘えて伝えることを怠ってきたせいなんだぞ」
ヘイゼルの目が見開かれた。
「それは……でも、和巳は」
「今度迎えに来るときは、せめて具体的な提案をして和巳が安らげるように心がけるんだな」
俊くんの指摘に拓巳くんは痛そうな顔をした。彼は俊くんの横に立つ僕を見下ろすと、腕を伸ばして懐に抱き寄せた。
「待ってると言ってくれたのに、どうして……」
それを言われると辛い。でも待つためにこそ、今はそばにいられないのだ。
「ごめん……」
「せめて、俺を待てなくなった理由を教えてくれ。何があったんだ」
「………」
「その浜田凱斗ってやつが絡んでるのか」
「……!」
顔を上げると、拓巳くんの眼差しが細められた。
「芳弘から聞いた」
僕は拓巳くんの薄い色の瞳を見つめた。すでに不安に揺れている瞳を。
だめだ。これ以上隠したら拓巳くんがおかしくなる。
「その人とちょっとトラブルがあったんだ。内容は勘弁して。個展が終わるまでに気持ちの整理をつけるよ」
そうしたら、拓巳くんをちゃんと待てるようになるから。
そう言って背中を抱き返し、その日は帰ってもらった。
それから個展が始まるまでの日々を、僕は予定通り部活を休んで俊くんの専属になり、手伝いのGプロスタッフに混じって案内のパンフレットの用意やら作品の搬送や取り付けやらに奔走した。
今回の会場は桜木町にある大きなビルの最上階で、期間は四日間、木曜日の午後から日曜日までだった。忙しい毎日は僕の葛藤を忘れさせてくれた。
稜先輩は心配してくれながらも、彼女自身が文化祭への準備に追われていて、個人的に話す機会には恵まれなかった。
そうして瞬く間に時は過ぎ、木曜日の午後三時、俊くんの個展は始まった。
小倉蒼雅として来場者を迎える俊くんの美しい姿を、僕も会場の隅で案内係をしながら見守った。
今回のテーマは〈風〉で、フロアには俊くんのイメージする色々な〈風〉の姿が、水彩、或いは油彩で描かれた抽象画になって会場の壁一面に並べられた。
中でも心を揺さぶられたのは、横にした畳一枚ほどの大きさに描かれた〈魂の行方〉という作品だった。
夕焼けに照らされた淡い赤紫色の雲が、夏の青い水平線の上を滑るように流れていくさまが、大胆な筆遣いの油彩で表現されていて、初めて目にしたときは、混じりあう色合いの美しさにまさしく魂を連れ出されてしまった。
改めて会場の奥に設置されたそれはさらに鮮やかに浮かび上がり、明るさの中にどこか憂いを帯びた色合いが、鬱屈を抱える心に深く染みた。
そんな僕を見通しているのか、作業時間の合間に絵を眺める僕を、気がつくと、美しく装った俊くんが労わるような眼差しで見守っているのだった。
ドア越しに話し声が聞こえる。
「小倉先生、お客様です」
「誰?」
「それが……」
「わかった。すぐ控え室に通してくれ。私が許可するまで他の者は近づかないように」
「わかりました」
足音がひとつ離れていくと、ドアが開いた。
「和巳、拓巳が来たようだ」
休憩のため、控え室にいた僕が振り返ると、そこには小倉蒼雅画伯が立っていた。
「―――」
今日もまた、美しい姿だった。昨日よりもさらにしっくりとなじんでいる気がする。
くっきりとしたアーモンド型の瞳には薄くシャドウが刷かれ、唇は艶やかなグロスの効いた、控えめなピンクベージュがのっている。片側に軽くまとめて編み込んだ髪の後れ毛が、額や耳の横にこぼれ落ちるさまがなんとも匂やかで艶めかしい。
流れるような生地で仕立てられた黒いワンピースドレスには、うなじや胸元が見え隠れする同色のオーガンジーの襟がふわふわとまといつき、ストールのように背中に落ちかかかっていた。
「蒼雅先生……」
間近で見たせいか、僕はそのあとに続く言葉を失った。
「絵画関係者のいないところではいつも通りでいい」
俊くんは苦笑しながら僕の前に立った。
彼はこの姿のとき、他の人には態度も口調も改める。初対面の絵画関係者や年配の来場者が、小倉蒼雅を女性と思って話しかけてくるからだ。
俊くんの黒目勝ちの眼差しに見つめられ、僕は自分でもわからずに狼狽した。
女性の姿にはだいぶ馴れたはずなのに、どうして今回は見るたびに綺麗に見えるのだろう。片側に覗いているなめらかな頬から首筋につい、視線が吸い寄せられてしまう。やはり、これまでの動揺の日々が僕に影響を及ぼしているのだろうか。
「どうした?」
小首を傾げた俊くんの仕草に、僕はハッとして告げられたセリフを思い出した。
そうだ、見惚れてる場合じゃない。
「今日?」
「おまえを迎えに来たらしい」
「どうして……まだ、個展はこれからだよ」
俊くんの細くて長い指が僕の頬に添えられた。
「まだ顔を見られないのなら、そうしてやってもいいぞ」
空調で冷えた頬にじんわりと熱が伝わる。僕は目を伏せて首を横に振った。
「そこに来ているんでしょう? 会うよ。それで帰ってもらう」
「そうか」
俊くんは頬をそっとひとなでしてから体を返し、ドアを開けて手招きした。
「和巳……」
サングラスを外しながら入ってきた姿を見た途端、僕は泣きたくなった。
約一週間会わなかっただけで、拓巳くんの美貌は面やつれしていた。これがあるから気が気ではないのだ。
「ほら、早く閉めろ。廊下がザワついてる」
変装もせず、サラサラの長髪をなびかせたまま、薄手のサマージャケットにサングラスをかけただけの姿では無理もない。俊くんに促され、拓巳くんが控え室のドアを閉めると、外の喧騒が遮断されて室内が急に静かになった。館内に流れるクラシック音楽が耳に届き始める。
「まだ金曜日だぞ。なんで二日も早いんだ。何かを決めてきたからか?」
ドレス姿で腕を組み、立ちはだかるようにして対峙した俊くんに、拓巳くんは頷いた。
「〈クレスト〉の仕事が終わったら伝える。若砂の、すべてを」
僕は俊くんの肩越しに拓巳くんを見た。
初めて聞く、直接発せられたあの人の名前。噛み締めるようなその声音だけで、どれほどの想いかが伝わってくる。
「コレクションは確か十一月十日だろ? ちょっと先すぎないか?」
俊くんが美しく整えられた眉をひそめた。
「あと一ヶ月もある。もう少し早くしてやれよ」
「用意したいものがある。俺だけじゃ、心許ないから」
じっと見下ろしてくる拓巳くんの目を、俊くんもひたと見据えた。
「しょーがない」
やがて俊くんはため息をひとつ落として振り向いた。
「どうだ和巳?」
一ヶ月――正直、キツい。でもこれが拓巳くんの精一杯なのだ。
僕が頷くと、拓巳くんが俊くんをかわして僕の前に立った。
「終わるまでここで待ってるから。……帰ってきてくれるだろう?」
僕は首を横に振った。
「まだだめだよ。帰るのは二日後の最終日。僕も個展の手伝いをちゃんとしてからにしたいんだ」
拓巳くんの整った目元が悲しそうに歪んだ。その腕が僕の肩を抱き、頭が肩に伏せられる。
「限界だ……あと二日もある。苛めないでくれよ……」
僕は背中を抱き返すと、腕を伸ばして髪に手を滑らせた。
こうして甘えてくる彼を、ちゃんと受け止める自分でなければ戻れない。それには、僕の胸に刺さる杭をどうにかするしかない。けれど――。
(おまえは、親の命を奪って生まれたんだぜ)
喉元まで出かかる言葉。
僕を産んだから、あの人は命を落としたんだね?
僕がいなければ、あの人は命を落とさずに済んだんだ。
正気を失うほどの悲しみを、拓巳くんに味わわせなくて済んだのに……!
足から力が抜けそうになったそのとき。
「蒼雅先生、よろしいですか?」
ドアの外からスタッフの声がかかり、僕の背筋が反射的に伸びた。
「ああ、今いく」
俊くんは一瞬こちらに目を向けたあと、素早く控え室を出ていった。
再び静寂が戻ったときには、僕は拓巳くんの顔を持ち上げ、微笑みかけることができた。
「ごめんね。まだ今日のところは」
「言ってくれ。何があったんだ」
彼は苦しそうに遮った。肩をつかむ腕に力が入る。
「こんな胸のつかえるような日を、俺にあと二日も続けさせるのか」
懇願する口調に、僕の忍耐が音を上げはじめた。
「僕だって、好きでそうしてるわけじゃないよ。だけど……」
今帰ったら、あの言葉が口からこぼれる。自分の感情に負けて問い詰めてしまう。それだけは……!
「お願い。あとたった二日だから」
苦し紛れに言葉を継ぐと、拓巳くんの手が僕の後頭部をつかんだ。
「俺には長すぎる!」
眼前に背を屈めた彼の顔が迫る。
「おまえは平気なのか。こんな風に離れていて不安にならないのか。辛いのは俺だけかっ!」
それは、普段の自分だったなら十分に受け止められる範囲の言葉だった。むろん、拓巳くんもそう知っているから、思わず口にしたのだ。駄々をこねるいつもの癖のように。
けれどもそのときの僕に、それをかわすだけの余裕はなかった。だから……。
「和巳!」
無言で腕を振り払った僕を、拓巳くんが凝視する。僕の口から、自分のものとも思えない硬い声が出た。
「今の言葉はないよ……!」
もう一人の僕が叫ぶ。
やめろっ、何を言うつもりなんだ?
「僕が、いったい誰のために」
よすんだ。彼を傷つける気か? 後悔するぞ!
「どんな気持ちで家を出てきたと……!」
熱いものが目尻に滲み出したそのとき。
「――っ!」
ふいに、後ろから僕の口を塞ぐように手が伸ばされた。振り向くとそこには。
「ごめんなさいね、突然、割り込んで」
「稜先輩……っ!」
そこにいたのは、制服姿の稜先輩だった。後ろにはドアを閉める俊くんの姿も見える。
「あなたの背中が悲鳴を上げていたから、止めたほうがいいと思って」
稜先輩は僕を俊くんのほうへ押しやると、相変わらず美しい細面を傲然と反らして拓巳くんの前に立った。僕は俊くんの手が肩をつかむのを感じながら、呆然と稜先輩の横顔を見つめた。彼女の瞳は僅かに眩しげに細められたものの、拓巳くんの美貌を正面から捉えてなお揺るがなかった。
「お久しぶりです、和巳君のお父様」
「あんたは、たしか美術部の……」
「はい。須藤稜です。今日は和巳君の様子を見にまいりました。申し訳ありませんが聞こえてしまいましたので、少しよろしいですか?」
そこに何を感じ取ったか、拓巳くんは無表情に稜先輩を注視した。
二人の眼差しが真っ向からぶつかる。
「先日、和巳君は浜田凱斗という生徒から、出生に関する中傷を受けました」
拓巳くんが目を見開き、肩をつかむ俊くんの手がピクッと動いた。
「偶然、私はその場に居合わせまして……その生徒が去ったあと、まだ自分の生まれた経緯を知らないという和巳君に、一刻も早く教えていただくよう、助言しました。彼が大変傷ついた様子でしたので」
ヘイゼルの瞳が稜先輩を凝視した。それを受け、先輩の眼差しが僅かに光を強めた。
「すると彼は言いました。『今、それは聞けない。父の負担になってしまう』と。だから彼は、心に深い傷を抱えたまま不安定になり、あなたのそばにいられなくなったのです。感情のままに質問をぶつけてしまわないよう自制するには、距離を取るしかなかったから」
拓巳くんが僕に目を向けた。驚きと苦悩が滲んでいる。
「あなたを気遣い、傷つけずに過ごすにはどうしたらいいか、それだけを念頭において行動した……だから蒼雅先生のもとへ行ったのです」
自分の受けた傷は口を開いたままで、と告げると、先輩は顔を戻した拓巳くんを睨んだ。
「こんなにも気遣われ、愛されているくせに、よくも『辛いのは俺だけか』なんて言えますね!」
「――!」
拓巳くんの顔が蒼白になった。僕は慌てて踏み出そうとした。けれど俊くんの手がそれを阻み、彼女はさらに畳みかけた。
「あなたは和巳君に甘えたまま、どこまで目を曇らせているんです。彼が心から血を流してるのが見えないんですか? 彼はこう誹謗されました。『おまえは親の――』」
「稜さんっっ!」
思わず喉から掠れた悲鳴が上がった。
先輩は一瞬だけ言葉を途切れさせ――けれども最後まで続けた。
「『命を奪って生まれたんだ』と」
その言葉が発せられた瞬間、僕の肩をつかむ俊くんの手が震え、拓巳くんの目が大きく見開かれた。
僕は瞬時に理解してしまった。――それが事実であることを。
「あ……」
目尻から熱が溢れる。
「違うっ!」
拓巳くんが鋭く叫び、稜先輩を押し退けて俊くんの手から僕の体をもぎ取った。
「断じて違う!」
背中に腕を回し、頭を自分の襟元に押さえつけて拓巳くんが必死に訴える。まるで何かを振り切るように。何かから僕を庇うように……!
もはや自分を誤魔化すすべもなく、僕は溢れるものを止められずに問いかけるしかなかった。
「じゃあ、どうしてそんなに辛そうなの……?」
拓巳くんは背中を強張らせた。
「本当に違うのなら、拓巳くんはそんな顔しないよ……?」
僕の大切な、この世にただ一人の家族。だからこそわかってしまうのだ。
拓巳くんの背中に僕は手を滑らせた。
過去の傷痕が今も色濃く残る、骨ばった背中。想像もつかないような地獄を味わってきた人。
「あと一ヶ月、その答えを待ってくれというのなら僕は待つ。だからごめん。あと二日だけ時間をください」
「和巳……」
「こんな僕じゃ、拓巳くんの心を乱しちゃう。僕にはそれが辛い。これ以上、拓巳くんを悲ませるのは嫌なんだ」
すると後ろから稜先輩が声を上げた。
「あと一ヶ月も、その大切なお話をなさらない? そんなバカなっ! 父親ともあろう人がどこまで甘えたら」
「――稜さん」
僕は先輩のほうに首を巡らせた。彼女は驚いて言葉を途切らせた。
「すみませんでした、稜さん」
できれば呼んでほしいと彼女が望み、そして僕が一度は遠慮した呼び方。
「僕はあなたに言わせてしまった。こんなにも痛い言葉を」
拓巳くんの腕をすり抜けて稜先輩の前に立ち、その手を取って両手に包む。
「ありがとうございます。でも、ここから先は言わないでください。僕は父に甘えてもらいたい。甘えてもらえる自分でありたいんです」
先輩は目を見張った。
「なぜ……!」
「なぜでしょう。僕にもわからない。……ただ、これだけはわかるんです。もしこの人が世間一般の父親のようだったら、今の僕はいない」
「……っ」
「稜さんに想ってもらえる僕は存在しないんです。それは、僕は嫌です。稜さんはどうですか?」
「それは……」
薄茶色の瞳を覗くと、彼女は手を握り返しながら首を横に振ってくれた。僕は拓巳くんに顔を向け、心に届くよう願いながら続けた。
「だから、今の父でいいんです。僕らはそうやって生きてきたんです」
拓巳くんが僕を見る。僕は彼女から手をそっと外すと、拓巳くんに呼びかけた。
「僕はちゃんと戻るよ。だからお願い。僕が自分らしい姿で拓巳くんの前に立てるようになるまで、もう少しだけ辛抱してね」
拓巳くんは、しばらく僕の顔をけぶるような眼差しで見つめていたけれど、最後には目を伏せ、頷いてくれた――。




