打ち込まれた杭
うなだれたまま動けずにいると、稜先輩は僕の手を取って人目のつかない中庭の隅へと移動した。
「和巳君、こっちを向いて」
顔を上げると、彼女の顔がすぐそこにあった。
片方の腕が背中に回り、もう片方の手が顔に添えられていく。
僕は――自分でも理解しがたいことに――逆らわなかった。
目を閉じると、やがて柔らかい感触が唇に触れ、そっと離れていった。
「ありがとう。嬉しかったわ」
腕を解いた稜先輩の瞳が揺れている。
強気に振る舞ってはいたけれど、彼女も少なからず動揺したのだ。
「僕は、何もできませんでした」
目線を落とすと、先輩の手が肩に触れた。
「あの男に立ち向かってくれたじゃない」
「あんなの、あの人にとったら道端の小犬に吠えかけられたようなものでしょう」
「でも、私のために戦う姿を見せてもらえたわ。だから嬉しい――たとえそれが愛情からでなくても」
顔を上げると、先輩は少し寂しげに微笑んで手を下ろした。そして表情を真剣なものに切り替えた。
「あなたは、ご両親の事情を聞いたことはあるの?」
首を横に振ると、稜先輩は一瞬、切れ長の目を見開き、すぐに続けた。
「早いうちに、お父様にお話を聞かせていただくべきね。今夜にでもこのことを報告しなさいな。きっとすぐに話してくださると思うわ。お父様があなたを溺愛しているのは有名だもの」
僕は頷こうとし、ふと我に返った。
だめだ。昨日の繰り返しになるかもしれない!
拓巳くんにとって過去とは、痛みを伴わずにはいられないものが多い。
時期で言えば、暴行事件から一年も経たない内に僕が生まれ、さらに半年後に失っている。――おそらくは写真のあの人を。
「今は……だめです」
顔を向けると、先輩は疑問の眼差しを返してきた。
「父にあまり過去の話をさせると、フラッシュバックを起こすのです」
「フラッシュバック? あの、戦争や災害で危険な体験をした人が、後々まで記憶を引きずって心を患うという?」
「そうです。実はつい昨日、必要に迫られて昔のことを話題にしたために、具合を悪くさせてしまいました」
「まあ……」
(ちゃんと説明できる自信がない――)
この言葉の意味を、僕は正しく理解していなかったのだ。
「でもそれではあなたが辛いでしょう? このまま過ごすというわけにはいかないわ」
僕の脳裏に凱斗の言葉がこだまする。
(おまえはな、親の命を奪って生まれてきたんだぜ)
(知る勇気があるなら、いつでも聞きに来るがいいさ)
言葉が杭となって胸の奥に突き刺さる。
知りたい。知りたいにきまってる。一刻も早く……!
「まさか、浜田のところに行く気ではないでしょうね?」
「………」
言葉に詰まると、先輩が両肩をつかんできた。
「だめよ。あの男は得体が知れないわ。そのくらいなら、お父様にお願いして、少しでもいいから聞かせていただくべきよ」
そうできたら……いや、だめだ。
「ですから、それはできないんです」
重ねて言うと、稜先輩の眉が少し吊り上がった。――コワい。
「父親なら、息子の危機に手を差し伸べないのはおかしいわ。去年の文化祭でお会いしたときも感じたのだけど、あなたはお父様に遠慮しすぎてはいないかしら」
「そうではなくて」
僕は必死に訴えた。
「詳しくは話せませんが……父は子供のころ、父の父、つまり僕の祖父に当たる人から酷い扱いを受けたせいで、精神的に不安定な部分があるのです」
それは成長するに従い、僕が耳にした話を総合してわかったことだ。
しかも、あの暴行事件の犯人はどうやらその父親の友人らしいとも……。
「父の後見人だった人が言っていました。僕という息子を、愛情を注いで育てることで、父自身が失われた子供時代をやり直しているのだと」
以前、いつまでも抱いたりなでたりと、幼い子どもにするようなスキンシップをやめようとしない拓巳くんに、僕が苛立って反抗しかけたとき、真嶋さんは真剣な顔で止めた。
(それは拓巳に必要なことだから拒まないで欲しい。でないと心の拠り所を見失っておかしくなってしまう)
彼はまだ小学生だった僕に、そう言って頭を下げたのだ。
「だから遠慮とかではなく、あの人を気遣って心を受け止める、これは僕の大事な役割でもあるんです。欠けた魂で必死に愛情をくれる父を、僕も守りたいんです」
必死に訴えると、稜先輩はしばらく僕を見つめ、やがて諦めたように嘆息した。
「わかったわ。あなたがそこまで言うのなら、今は口を挟まないわ……。でも約束してちょうだい。浜田凱斗のところへは、けして一人では行かないと」
「大丈夫です。僕、そんな勇気ありません。何を聞いても、いいように揺さぶられるだけです」
凱斗に会うために曽根原たちのいる教室や軽音部に行くのはリスクが高すぎるし、あの人がどこまでまともな話をしてくれるのかも定かではない。
少しおどけた素振りで言うと、稜先輩はようやく肩から力を抜いて微笑んだ。
本当に起きたことは、必ず拓巳くんが教えてくれるはずだ。今はとにかく、彼を心配させないようにしなければ。
そう自分に言い聞かせ、心に折り合いをつけた。
しかし、向こうはどうやらそんな心情などお見通しだったらしい。早くも三日後に、僕は追い詰められることになった――。
「え? これ……」
「頼まれました」
昼休みの中庭で、白い封筒を手に呼び止めてきたのは、どこか見覚えのある女子だった。
同学年で、確か今年の春、隣のクラスに編入してきた子ではなかっただろうか。
「頼まれた?」
「確かに渡しましたから」
素っ気ない様子でくるりと踵を返そうとするのを、僕は慌てて引き止めた。
「待って。頼まれたって誰から?」
「浜田凱斗です」
サラッと告げられたその名前に、さすがに驚きを隠せなかった。
「凱斗……さんから、君が?」
すると彼女は俯いて言った。
「兄です」
「えっ?」
聞き間違いだろうか?
僕はまじまじと目の前に立つ彼女を見てしまった。
特に背が高いわけでもない細身の体つきの、取り立てて特徴の見当たらない普通の女の子だ。
肩までのシャギーの髪、そこそこかわいらしい顔立ち。ただし表情は動かず、陰りを帯びていて暗い。
あの強烈な印象の人とはまた違うところで、殺伐としているように見えた。
「よく、似てないって言われます」
僕のような反応に慣れているのか、彼女は付け足すようにポソリと言った。
失礼だったかな、と僕は顔を引き締めた。
「ごめん、ありがとう」
取りあえず頭を下げ、そのまま手元の封筒に意識を向ける。何かしっかりした紙が入っているようだ。
指に当たる感触を確かめていると、再び彼女の声がした。
「用事がある時は、私に伝えてもいい、とのことでした」
顔を上げると、彼女はさっと体を返し、今度こそ足早に去って行った。
遠巻きにしていたらしい男子たちの声が聞こえる。
(あいつ、またラブレターかよ)
(あんな地味そうな女子にまで。もてるやつはスゲェなー)
僕はひとまずその場から離れた。
人気のない昇降口の脇で壁際に寄り、封筒の口を開ける。中を覗いてみると、写真らしい紙が三枚入っていた。
少し古そうなそれを一枚取り出して表に返し――。
「……っ!」
思わず取り落としそうになった。
それは、僕の持つあの古い写真と同じ内容の、少し角度の違うものだった――。
〈Ⅳ〉
「――ずみ、和巳!」
「あ……っ!」
今にも指先から落ちそうだったハサミを、向かい側から身を乗り出した俊くんの手が辛うじてつかみ、梱包途中の作品への被害を防いだ。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて俊くんの手を見ると、くるりと一回転させたハサミを手の中に納めているところだった。
僕は胸をなで下ろし、乗り出した体をもとの椅子に戻した。
「心ここにあらずだな」
ため息混じりに言われ、恥じ入って俯いた。大事な個展準備の手伝いをしているのに、これでは意味がない。
あのあとどうやって授業をこなしたのか、全く覚えていない。
さぞかし健吾の目にはおかしく映ったことだろう。もの問いたげな視線を何度もよこしてきたけれど、幸いなことに、今は優花のほうが気がかりなので追求の手は逃れた。優花は健吾に励まされながら、文化祭の準備に追われる学校生活をなんとかこなしているようだ。
他の美術部の部員に部活を休むことを言付け、どうにか家にたどり着いたあと、即行で自分の部屋に駆け込こんで封筒を取り出した。
「ああ……」
その三枚の写真は、紛れもなく僕の持つ写真と同時期の、一枚は同じ写真の別角度、あとの二枚は違う場所の、何かの準備らしい作業風景を写したものだった。あとの二枚には、あの人が立ち働いている姿がメンバーの陰に見え隠れしている。やはりスーツにネクタイを締めた姿でスタッフに混じり、何かを指示しているようだ。
自分はこの人物のことを知っているぞ――凱斗がそれを誇示してきたのは明らかだった。
(拓巳が正気を手放しちまって、半年も活動を休止したんだ)
あの日の夜、健吾に〈T-ショック〉が過去に活動を休止したことがあるかをメールで尋ねると、確かに十五年前、半年ほど休止している、との返信が返ってきた。
その動揺の覚めやらぬうちにこんな写真を手にしては、普段通りに振る舞えるはずもない。とりあえず拓巳くんにはメールでアトリエに泊まると一方的に知らせ、次の日の用意を持って、逃げるようにマンションを出てきた。あと一週間後に迫った個展の手伝いの名目があるから、そう不信には思われないと踏んでの行動だ。けど、これじゃあ……。
「和巳、ちょっと来い」
気かつくと、作業テーブルの席に着く僕の後ろから、俊くんが腕を取っていた。逆らわずに立ち上がると、彼はリビングスペースの奥に置かれたソファーへ移動し、僕を座らせた。
「何があったんだ」
隣に腰かけた俊くんがアーモンド型の目を光らせて聞いてきた。
僕は避けるように顔を背けた。
俊くんに嘘はつけない。
「顔を逸らすな」
言いながらも、すでに俊くんの両手は僕の頬を挟み、正面に戻していた。すぐそばに黒目勝ちの瞳がある。
「なんで隠す。おれの忍耐力を試しているのか?」
「そんな……」
「じゃあ吐け。おまえがそんなんじゃ、おれだって作業が手につかない」
「……ごめんなさい」
「謝って欲しいんじゃない」
顔を挟む俊くんの手のひらが力を増した。
「何があったのか、と聞いてるんだ」
「たいしたことじゃ……」
ない、と言おうとしたけど、それはさすがにまずかった。
途端に彼の表情が険しさを増し、僕はソファーに押し倒された。
「いい加減にしろ。おれの我慢にも限度がある」
組伏せてきた腕に頭を押さえられ、身動きができない。
「もう一だけ度聞くぞ。何があった」
唇を噛みしめると、形のいい眉の根本がグッと寄った。
「ここに来たなら諦めて吐け。それが嫌なら出てけ」
「……っ!」
最後の言葉が僕の心を抉った。
自分が甘えているのがいけないのだ。
わかってはいても、あの写真の衝撃が強すぎて、ここに来ないではいられなかった。だから突き放したような俊くんの言葉をうまくかわすことができず、もろに受け止めた結果、情けなくも涙がドッと溢れてしまった。
「和巳……!」
慌てて横を向こうとしたけれど、押さえられていて動けない。すると、温かくて柔らかい感触が僕の目尻に触れ、涙を吸い取った。
「嘘だ、悪かった。おまえが強情を張るから……」
俊くんはもう片方の目尻も同じように吸い取り、額の髪をかき上げてそこに唇をひとつ落とした。僕はなすがままになりながら、胸に穿たれた傷が、その感触を受けて徐々に塞がっていくのを黙って感じていた。
「この前の拓巳のせいで、ちょっと気が荒れてたから……」
「え……?」
「なんでもない。それより」
俊くんは改めて僕の顔を覗いてきた。
「全部話せとは言わないから、どうして今日、拓巳のそばにいられないのかは教えてくれないか」
俊くんは頭を押さえていた腕を緩め、僕の癖っ毛を指先に絡めて解くようになではじめた。
それがあまりにやさしく、心に染みたせいだろう。奥底にしまってあった別の問いがふと口をついて出た。
「俊くん……?」
「なんだ」
「……俊くんは、女性……でもあるの……?」
彼は僅かにアーモンド型の目を見開くと、僕の頬を指先でなぞった。
「否定はしない。おれの何割かを構成しているものだから」
気になるか? と聞かれ、僕はすぐに首を左右に揺らして否定した。不思議には思うけど、それだけだ。僕の心を占めるのはそこじゃなくて……。
「俊くんにとって、僕ってなに?」
「………」
「ごめん。僕、今まで色々なこと、深く考えないようにしてたから……」
僕の葛藤を見透かしているのか、俊くんはフッと力を抜いたような表情で答えた。
「おまえは……かけがえのない存在。おれのすべてだ」
「すべて……?」
「そうだ。生きる理由、活動する原動力……。安心しろ。おまえにそれを押しつけるつもりはない」
これはおれの勝手な心情だから、と彼は微笑んだ。僕はまた切なくなった。
「どうして、そんな風に思えるの……?」
俊くんはなでる手を止めた。
「昔、おれを愛してくれた人が言った。『想う相手がいる。それだけで、すでに受け取っている』と」
鍵をくれた人だ、と俊くんは目を伏せた。
「一度喪ったからよくわかる。あとは自分の努力次第だな。だから、おれの心配はいらない」
その言葉に少しだけ救われた気がしたとき、ふと真嶋さんにした質問が宙に浮いているのを思い出し、流れに任せて聞いてみた。
「浜田?」
彼も同じ答えのようだった。
「おれの知ってる範囲では、いなかったと思うが」
僕は慎重に、真嶋さんに話した内容――凱斗との初対面の日のやり取りだけを明かした。
話を聞いた俊くんは、しばらく目をつむったまま動かなかった。やがてゆっくりと自分の体を持ち上げて僕を起こし、ソファーに座り直してこう言った。
「『戸部』は、おまえを産んだ親の旧姓だ」
やっぱり……!
それはある程度予想していたので、僕はなんとか平静を保ち、ズボンのポケットから携帯を取り出した。画面を操作してから俊くんに渡す。
「この人のこと……?」
俊くんは、しばらく画面に映る画像を眺めると、携帯を僕に返した。
「……どうしておまえがこれを持っているんだ?」
「昔、拓巳くんの本棚から出てきて。僕は……」
一瞬、喉がごくりと鳴る。
「この人から生まれたの?」
俊くんは目を逸らさずに頷いた。
「そうだ」
緊張が背筋を駆け抜ける。
(親の命を奪って生まれたんだぜ)
僕を産んだせいで、体を損ねた――浜田凱斗はそれを言いたくて、わざわざ写真を寄こしたんじゃないのだろうか。
(ちゃんと知りたければ来い)
そんなメッセージが聞こえてきそうだ。
「……命の期限を切られたから先に式を挙げた、っていう、昔の〈T-ショック〉の会報誌の文面、あれは嘘なんじゃないの……?」
むしろ僕を産むことで、命の期限が来てしまったのではないのだろうか。
「……それが今日、拓巳のそばにいられない理由か」
俊くんの言葉に僕は頷いた。
拓巳くんが、あんな柔らかい笑顔を向けるほど愛した人。それを奪ったのは僕。
そう思ったら、そばにいられなくなってしまった。
「あれは、当時のマネージャーが考えて発表したんだ。拓巳がなかなか復帰できなかったから……」
「この人を失ったから?」
「この人、か」
顔を上げると、俊くんの目差しとぶつかった。
「おまえが若砂のことを『お母さん』と言わなくなったのは、写真を持っていたからなんだな……」
若砂――それが母親の名前だと、前に俊くんが教えてくれた。その姿の意味がわかるにつれ、僕はこの人を〈母〉と表現することができなくなっていた。
「……俊くんこそ、最近は産みの親、って言ってるよ」
俊くんは押し黙った。
その先の真実は拓巳くんしか語れない――二人ともわかっているから、言い出せないし、聞けないのだ。
「和巳……」
切なげな顔をした俊くんが、僕の背中に腕を回してきた。
「何があったか、無理には聞かない。ただ、これだけは覚えておいてくれ。おまえがいてくれなければ、拓巳はあのとき、間違いなく生きることを放棄しただろう。そうなったらおれも……和巳がいなければ、今のおれたちはない」
幼い子をあやすような手つきで、俊くんは僕の背中をなでた。けれども暗い思いに阻まれた僕の心は、その言葉を素直には受け取れなかった……。




