手に入れたもの
次の日の放課後、僕は浜田凱斗に呼ばれ、中庭で彼と対峙した。
もう、前のように彼を恐ろしいとは思わなかった。
「一昨日は悪かったな。……マースは無事か?」
俊くんはあれからずっと熱を出している。炎症反応で三日は下がらない、と聞かされていた。
「まだ安静が必要です。でも、悪化はしてません」
それを聞いた凱斗は、しばらく視線をさ迷わせたあと、腹を決めたように切り出した。
「俺は十五の時に、親父の薬物のカタにあの男――タクミの父親の店に連れていかれた」
僕は一昨日の凱斗の話を思い出した。
「契約書を盾に働かされた、っていう……」
「そうだ。おふくろが離婚して、親父から俺の籍を抜いてくれるまでの二年間、俺は週末ごとにあの店でホストをやらされてた」
そうだったのか――。
俊くんが、凱斗が拓巳くんに「似てる」と言ったのは、こういうことだったのだ。
「あの男の店は恐ろしかった。結果が出せないと容赦なくペナルティーを食らった。何をさせられたかなんて、おまえには想像もできないだろうよ」
「………」
「そこで俺は客から聞かされたんだ。オーナーの息子が昔、〈目玉商品〉として扱われていたと」
その客は、当時の拓巳くんに注ぎ込んでいたらしい、と凱斗は言った。
「従業員の使うロッカールームに今も貼られている古い写真の中に、当時のタクミとマースが小さく写っている。それがあの〈T-ショック〉の二人だと気がついたとき、恨んでばかりだった心情が変わった」
凱斗は目線を空に向けた。
「マースのインタビュー記事を読むと、よく〈テリトリー〉とか〈自分たちの砦〉とかいう表現が出てくる。それが彼らの、地獄から抜け出すための合い言葉なんだと知った」
だから俺も、諦めないでみたのさ――そう言って凱斗は僕に目を戻した。
「タクミにも詫びておいてくれ。まさかあの場に高橋オーナーが出てくるとは思ってなかったが、俺の落ち度だから」
肩を落とす彼に、僕はこう伝えた。
「コンテスト、明後日ですよね。新しい仲間と前へ進んでください」
「………」
「『〈T-ショック〉がここまで来られたのも、みんなで努力して支えあったからだ』。あの人たちからよく聞く言葉です。浜田さんも佐伯さんたちとぜひ、納得できる音楽をやってみてください。それが、あの人たちへの一番のメッセージになると思います」
僕の言葉がどう彼に消化されたのか、それから二日後の日曜日に開かれたロックコンテストで、〈クラッシュゲート〉は見事、優勝を果たした。
Yホールを埋める二千人のロックファンが歓声を上げる中、凱斗のドラムは冴え渡り、目も止まらぬ手さばきで確実に音を弾き出すテクニックは群を抜いていた。
何かが吹っ切れたような表情は彼をいっそう輝かせ、いずれ何らかの形でプロになるだろうことが十分に予想された。
俊くんは痛む体を押してゲスト出演をこなした。
「よせ。コンテストのゲストに無理することはない。体に障るぞ」
珍しく祐さんが止めたけれど、彼は頷かなかった。
「動けるからにはやる。一度受けた仕事は責任を持つのがプロだ。シロウトどもに恥ずかしい姿は見せられない」
解熱鎮痛剤を大量に打ち、キーボードの前に立ってスタッフと打ち合わせる俊くんを目にしては、さしもの拓巳くんも逆らう素振りを見せず、黙々と指示に従っていた。けれども出番直前、さすがにこたえてきたのだろう。控え室の椅子にぐったりともたれていた俊くんの息遣いがだんだん乱れてきてしまった。すると。
「俺たちがちゃんとやるから、おまえは自分のキーボードだけに集中してろ」
祐さんの言葉に拓巳くんも頷き、それぞれが俊くんに手を差しのべた。
「ああ……頼むな」
彼もまた強く訴える眼差しを向け、黙って両手を二人に預けた。そして僕や沖田さんや大勢のスタッフが息を詰めて見守る中、三人は舞台へと出ていった。
爆発にも似た歓声に支配された会場の中で、閃光のようなライトが飛び交い、三人のステージが始まる。
感情の読めない表情を補うかのように、心の奥底まで揺さぶってくる拓巳くんの歌声。
神業のような指使いで音を紡ぎ出す祐さんのギター。
そして、右寄りに据えられた三台のキーボードを行き交う俊くんの腕。
明らかにいつもより動きが弱い俊くんを庇うように、左側にいた祐さんが右へと移動していく。すると、中央の拓巳くんがマイクスタンドを持ち上げ、立ち位置のバランスをとるように歌いながら左へと歩きだした。
普段、ほとんど動かないタクミの珍しいパフォーマンスに観客がどよめき、会場のボルテージが一気に上がる。そうして歓声を受ける三人の姿に、僕は〈T-ショック〉というバンドが、いつまでも輝きを失わない理由を見た気がした。
一方、僕と拓巳くんの間は、未だ回復できていなかった。
危険を招いた僕の独断行動がよほど腹立たしかったのか、拓巳くんはあれから隣の真嶋家に行ったきり帰ってこなくなってしまった。
出生の経緯を知った僕は、拓巳くんを迎えに行く勇気が持てなかった。僕から動かないとさらに事態が悪化する、とわかっていても、どうしようもなかった。
拓巳くんは、僕のいない日中に、スケジュールの合間を縫うようにして俊くんの世話をしに戻り、夕方前にまた出ていくようだった。
「着替えを手伝ったりしながら、お二人でよく話し込んでおられますよ」
ハウスキーパーの中沢さんが、悄然とする僕を気遣って教えてくれた。
四日ほど経った頃、学校で優花に家での様子を尋ねてみた。すると、
「なんかね、雨に打たれた百合の花みたい。元気がなくて、俯いてて。どうにかしてあげたい、って思うんだけど、ダメなのよね……他の人じゃ」
しょんぼりと説明され、ますます落ち込んでしまった。
「コラ、いい加減にしろ。おまえが体を壊すぞ」
ゲスト出演の無理がたたり、一時容態が悪化していた俊くんが、ようやく回復に向かいはじめ、一緒に食事をするようになると、お皿に残る料理に眉をひそめられた。でも進まないものはどうしようもない。
そうしてさらに二日ほど経ち……。
「和巳!」
血相を変えた拓巳くんの顔が目の前にあった。
「あ……?」
ここがどこなのかわからない。ただ――。
「ああ、拓巳くんだ……」
どのくらいぶりだろうか、少し細くなった、でも相変わらず綺麗な、そして心配そうな眼差しが僕を覗いている。
それを見たら、目の奥がたちまち熱くなった。
「ごめんね。僕のせいでこんなに痩せちゃったんだね……」
「……それは、おまえだろう」
拓巳くんはやるせなさそうにつぶやいて僕を抱き締めた。
「こんの、親子はぁぁ……っ!」
後ろで俊くんの呻き声が響く。
どうやら僕は夕食の後片付けの最中に貧血で倒れたらしく、リビングのソファーに寝かされていた。急激に食事量が落ちたので、体調が狂ったようだ。
拓巳くんが後ろを振り向き様、鋭い口調で言った。
「雅俊! おまえが一緒にいながらどういうことだ!」
「しょうがないだろうが! おれはおまえの代わりにゃなれない」
病み上がりの俊くんが憤慨して言い返した。
「こっちのほうがショックだぜ。おまえがこのまま意地を張り続けるならちょうどいい。目黒のマンションに連れてっちまおう、って喜んでたら、肝心の和巳がこれだ」
僕は拓巳くんの腕の中で赤面しながら俊くんを見た。
「ごめんなさい」
俊くんはため息をつくと、拓巳くんに向かって言った。
「和巳はおまえを迎えにいけなくて拒食症寸前だ。心配なら帰ってきて、ちゃんと話をしてやれよ。このままじゃ病気になっちまう」
拓巳くんの腕を離れて横に座り直すと、正面に立った俊くんが屈み込んで僕の顎に手を添えた。
「こんなに痩せて……まだ成長期のおまえは危ないんだぞ」
「俊くん……」
「しょうがない。わざとじゃないんだ。体がいうことをきかないんだから……」
俊くんは少し切なげに微笑み、顎から手を離すと拓巳くんに向き直った。
「ここまで愛される父親もそうはいないだろうよ。佐藤から聞いちまったことは無しにはできないんだ。早くケアしてやらないと、取り返しがつかなくなるぞ」
「雅俊……」
「おれへの負い目なんて感じなくていい。おれは和巳から十分受け取ってる。だからいいな? もう帰ってきてやれよ」
俊くんは拓巳くんの肩を軽く叩くと、「先に休ませてもらうぜ」と声をかけ、リビングを出ていった。
「佐藤から何を聞いてきたんだ」
ソファーに並んで座った拓巳くんが問いかけてきた。
「それは……」
伝えようとした途端、あの日の記憶がまざまざとよみがえり、言葉がすぐに出てこない。
絶句したように固まった僕を、拓巳くんはあやすようにやさしく背中をなでてくれた。
「もう、怒らないから……ゆっくり正確に話せ」
僕はつかえつかえ、凱斗の父親から聞かされた話を拓巳くんに伝えた。彼は口を挟まずにじっと僕の話に耳を傾けていた。
「これで全部……」
話を終えて顔を上げると、拓巳くんは背中に滑らせていた手を止めて大きく息を吐き出した。
「佐藤マネージャーにはそう見えた、ってことだな……」
そして切れ長の双眸を伏せ、口を閉じた。
どのくらいそうしていたのか、やがて瞼をゆっくりと上げ、僕の顔に目を合わせた。
「佐藤の話は、その通りの部分もある。だがそうじゃないこともたくさんある」
「………」
「確かに、俺の話だけでは真実には足りないだろうし、反対側の話を聞きたくなった気持ちをわからないとは言わないが……」
「はい。……心配かけて、本当にごめんなさい」
「いい。俺が待たせてるのがいけない面もある。それに、要が出てくるなんておまえが想像できなくても仕方ないし」
そこで拓巳くんは苦い顔になった。僕はどうしても気になって質問した。
「あの人はどうして僕を? 昔も、確か僕を攫っていったんだよね?」
拓巳くんは眉根を寄せて言った。
「あいつの考えてることなんぞ知りたくもないが、佐藤に手を伸ばしていたからには俺へのアプローチだろう。俺の一番大事なものを奪って意のままにする……さぞかし楽しいだろうよ」
だが、と口調が真剣なものになった。
「これからは違うぞ。気をつけるんだ和巳。今回のことで、あいつはおまえに目をつけた。あいつの店の客たちはおまえくらいの年の少年に目がない。隙を見せれば何度でも攫いに来るだろう」
驚いて拓巳くんを見ると、そこには苦しげな表情が浮かんでいた。
「あいつの店に連れていかれて、おかしくなったヤツだってたくさんいるんだ。助け出す前に取り返しがつかなくなることだって……」
言ってるうちに昔を思い出したのか、肩が震えはじめ、顔色が青くなってきた。僕の脳裏にも焼きついた、あの酷薄そうなそうな眼差し……。
「ごめんなさい!」
しがみついて謝ると、僕を抱く拓巳くんの腕に力が入った。
「そんなことになったら俺は気が狂う……! 約束してくれ。二度と勝手な行動はしないと」
「しないから、もう絶対しないから……」
彼はしばらく痛みに耐えるように腕の力を込めていたけれど、やがてひとつ息をつき、肩につく僕の頭をなでながらささやいた。
「来週、〈クレスト〉のショーが終わったら見せたいものがある」
思わず背中に緊張が走る。
「今度は、待てるな?」
静かな、けれども切り込むような問いかけに、僕は深く頷いた。
数日後、僕の食欲が戻ってきたことを確認すると、俊くんは目黒のマンションへと帰っていった。
翌週の土曜日。秋晴れの爽やかな日差しに恵まれたその日、東京のSホールでコレクションが開催された。
〈クレスト〉のショーは全体の後半、午後四時からだった。
拓巳くんはいつもの如く、真嶋さんの手で支度を整えられていった。
普段は下ろしたままの長いサラサラの髪が、耳の後ろで片方にまとめられ、毛先が肩から流れるように落ちかかる。そこにふんわりとカーブした前髪がつながり、シンプルで美しいヘアスタイルが出来上がった。
最初の衣装はモノトーンが基調の光沢のあるフォーマルスーツで、襟元に覗くブルーグレーのアスコットタイと、それを留めるアメジストのタイピンが彼の硬質な美貌に華やかさを添え、眩しいような美しさだ。
周囲から感嘆のため息が漏れる中、目を細める真嶋さんに頷きかけ、拓巳くんはモデル〈タクミ〉になって楽屋から出ていった。
十代の頃から名を轟かせている超絶的な美貌は未だ他の追随を許さず、彼が会場の中央を貫く舞台に姿を現すと、巨大なホール全体がどよめくのが楽屋のモニター越しにも感じ取れた。
なめらかなウォーキング。気負いのないポーズ。品のある立ち姿。
容姿や体格に恵まれた数多くの外国人モデルの中にいてもなお、独特の輝きで衆目を惹きつける。それでいてデザイナーの醸し出す世界感に溶け込み、今日もその意図を余すところなく観客に伝えているようだった。
ショーを終えた拓巳くんが、楽屋に戻って来るなり告げた。
「これからちょっと出かけるぞ」
真嶋さんとともに、楽屋に散乱するたくさんの衣装や道具を片付けていた僕はつい聞き返した。
「でも、このあとの打ち上げはどうするの?」
〈クレスト〉の綾瀬さんは、ショーのあとに必ず立食パーティー形式の打ち上げを開く。俊くんや祐さんも呼ばれるそれは洗練されていて楽しく、今日も出席の予定だったはずだ。
すると真嶋さんが言った。
「まだ時間があるんだよ。いつもより始まりが遅いからね」
手元の予定表を見ると、確かにいつもより少し遅い。
「だから大丈夫だ。着替えもそこでする」
じゃあ、どこかに寄るんだな、と思いながら片付けを済ませ、拓巳くんの車で運ばれた先は見覚えのあるビルだった。
「あれ? ここ……」
それは、ついさっきまでコレクション会場の舞台で披露されていた〈クレスト〉の牙城、アヤセ・インターナショナルが入っているビルだった。
三階にある社長室に、拓巳くんはためらいもなく足を踏み入れた。
「ご苦労さまでした。待っていたわ、拓巳、和巳」
「綾瀬さん」
デスクから立ち上がったのは、すでにパーティー用の黒いサテンドレスに着替えた綾瀬さんだった。
こちらに歩み寄った彼女は、拓巳くんとは種類を異にする美しい細面に柔らかい微笑みを浮かべると、艶やかな光沢を放つ黒髪を肩口で揺らして踵を返した。
そして、先ほどまで喧騒の最中にいたとは思えない優雅な仕草で僕たちを奥に導き、応接セットのソファーに座るよう促した。
僕が手前に腰かけると、いつもは隣に座る拓巳くんがなぜか向かい側に座った。綾瀬さんがその隣に腰を下ろす。二人と向かい合う形になった僕は、ちょっと落ち着かない気分になった。
「拓巳からの依頼で用意したものがあるの。今日のパーティーに着てちょうだい」
綾瀬さんが指差すほうを見ると、部屋の奥の壁にあるフックに、フォーマルにも使えそうなシルバーグレーのスーツが二着、並べて掛けられていた。一着はロングジャケット、もう一着はそれより一回りサイズが小さく、形も普通のスーツに見える。
あ、もしかして……。
僕が首を巡らせると拓巳くんが頷いた。
「それが見せたかったものだ」
僕は再び目を戻した。おそらくは小さいほうが僕のものなのだろう。そしてロングジャケットには見覚えがあった。
「あのジャケットは、前に拓巳くんが写真集で使ったものですよね」
すると綾瀬さんは首を横に振った。
「いいえ。あれは生地とデザインを、この作品を参考にして作ったの」
僕は意外に思った。
「これを参考に?」
「そうよ。このジャケットは作られてからずいぶん時間が経っていたから、あの時はデザインに少し手を加えたのよ。普通に着るだけならいいけれど、タクミの写真集となるとね」
もうかれこれ十五年も前のものだから、と綾瀬さんは微笑んだ。僕は改めて二つのスーツを眺めた。
「そんな風には……今でも十分使えるものだと思います」
燕尾服に似たデザインは粋を感じさせ、丁寧な仕立てであることが見て取れる。それを伝えると、綾瀬さんは笑みを深くした。
「そう言ってもらえると嬉しいわ……さぞかし作者も喜んでいることでしょう」
「綾瀬さんの作品じゃないんですか?」
「ええ。私の姉弟の作品よ。あなたのはデザインを預かっていたのを、先日私が仕上げたの」
「姉弟?」
僕が聞き返すと、目を伏せていた拓巳くんが口を開いた。
「戸部若砂。おまえのもう一人の親だ」
「えっ?」
綾瀬さんの姉弟――僕はハタと気がついた。
アヤセ・トベ……! そうだったのか!
驚いて見つめる僕に二人は説明した。
「若砂は、私のスタッフの一人として拓巳を担当していたの」
「おまえの持っている写真はイベントの時のものだ。衣装がアヤセのデザインだったから」
「じゃあ、Gプロにいたんじゃなくて……」
「いや」
拓巳くんは首を横に振った。
「余命を宣告されたあと、俺とできるだけ一緒にいられるようにと社長が社員登録してくれた。動けるうちは手伝う、と言って、佐藤マネージャーの助手として行動していた時期がある」
拓巳くんの言葉を引き継ぐように綾瀬さんが続けた。
「私はあなたの伯母。若砂と私は姉妹でした。そしてあなたも、もう知ってるわね。あの子は完全な女性ではなかったの」
私もそうなのよ、との言葉に、さらにびっくりしてしまった。
「綾瀬さんも?」
「ええ……色々なタイプの人がいるの。あなたのそばにも一人、いるでしょう?」
僕はすぐに俊くんを思い浮かべた。
「はい」
「私は見かけが女性に近いけれど、子どもを授かる機能は何も具わっていないの。若砂はむしろ逆ね。幼い頃は男の子に近いように見えたけど、成長とともに体の内側から女性化していったの」
「じゃあ……」
「そう。拓巳と出会った頃は、ほぼ女性といえる体をしていたの。だからあなたを授かったのよ」
奇跡、とは言われたけど、と綾瀬さんは付け加えた。
「そうだったんですか……」
では、凱斗の父親の話は事実とは少し違うのだ。
「でも、代わりに重大な問題が残ったわ」
「問題?」
「ええ。体ではなく、心の問題ね。幼い頃の若砂は間違いなく男の子でした。成長の過程でも男性の心を持ち続けていた。つまり、体と心がずれてしまった」
「それは……」
性同一性障害――。
その言葉を漏らすと、綾瀬さんは顔を陰らせて頷いた。
「私たちの母はそこを理解せず、若砂が女性になることが、自然が選んだ姿だと言ってきかなかった。余分な組織の除去手術を受け、女性として生きるよう迫っていた。母親思いだったあの子が、自分の望みと母の意見との間で板挟みになって苦しんでいたときに」
綾瀬さんは拓巳くんに顔を向けた。
「あなたが救ったのよ」
拓巳くんはけぶるような眼差しで綾瀬さんを見返していた。
「おバカさんね、拓巳。あなたは未だに気にしているのでしょう。母から若砂を取り上げておきながら、あの子の寿命を自分が縮めたんじゃないかと」
――えっ?
驚いて顔を上げると、苦しそうに目を伏せる拓巳くんがいた。
「この人はね、和巳。追い詰められていた若砂の心を一目で見破ったの。巧みな言葉と愛想のよさで、あの子は上手に本心を隠していた。だから誰も気がつかなかったのに」
綾瀬さんは拓巳くんの顔を覗くと、そっと頬に手を添えた。
「この人は、若砂を巡って母と対立したわ。『本人の意志を無視するのは許せない』そう言って、母から若砂を切り離すために早く結婚することを選んだの。そしてあの子は、女性化しながらも男性であろうとする〈自分〉を丸ごと受け入れてもらって、幸せになったのよ」
本人から聞いたのよ、と綾瀬さんは言った。
「拓巳は若砂を女性としてだけでなく、男性である魂ごと愛したのね。だからけしてあの子を女性扱いはしなかった。身なりも立ち振る舞いも、すべて本人の意思を尊重した。それはあの当時、この人にしかできなかったことだわ。それなのに和巳を授かった時、自分が舞い上がって喜んでしまったから、若砂が無理をして妊娠を継続したんじゃないかと気に病んでるのよ」
「拓巳くんが……」
「そんなはずないのに。それがどんなに予想外だったとしても、あの子に、あなたから授かった命を絶つことができるかどうか、考えてみればわかるでしょう?」
綾瀬さんは拓巳くんを軽く睨むと僕を見、そして拓巳くんに目線を戻した。
「確かに、癌の治療ができていたら若砂は生き延びたかもしれない。でもね。あの子のような体質の者には、癌の軛はずっとついて回るのよ。いつかあなたを一人置いて先に逝くことになる……幸せの中で、あの子はそれに怯えていたわ」
拓巳くんは、目を見開いて綾瀬さんの顔を見つめた。
「『あなたを一人にせずに済む』。和巳を授かったあとの、あの子の言葉よ。それが支えになったから、あの子は最後まで自分らしく困難に立ち向かえたのよ」
綾瀬さんは僕に向き直った。
「和巳、あなたも覚えておいてね。若砂は拓巳を愛して、精一杯生きたの。あるがままを受け入れてもらって幸せに生きた。だからあなたは生まれたのよ」
綾瀬さんはゆっくりとした動作で立ち上がり、同じく席を立った僕の目の前に来た。
「あなたもぜひ、拓巳のように、あるがままを受け止めてあげられる人になってね」
「それは……」
もしかしてあの人のことですか――?
そう聞こうとしたけれど、綾瀬さんは遮るかのように頬笑みを浮かべると、スッと踵を返し、ちょうど立ち上がった拓巳くんに「じゃあ、パーティー会場でね」と声をかけてから、優雅な足取りで去っていった。




